司馬遼太郎『覇王の家』

 愛知出身なのだが、「ああ、名古屋のかたですか」などと言われると、腹が立つ。
 名古屋じゃない。尾張ではない。三河の出なのだ。と、心の中で小さく訂正する。

 親戚が名古屋にいるが、話をするほどに、言葉がちがう。日本全体からみれば、やはり名古屋も中間地帯なのだろうが、三河者からみれば名古屋はあきらかに関西の風をくらったしゃべりかたをする。だいいち近鉄、「近畿鉄道」などというものが走っているではないか。もう、お前ら関西だ。

 三河人は、標準語に近い言葉をしゃべっているという自負がある。東京という街は、三河人がつくったのだ、という誇りからくるのか。「まあ、ぼくらには、関西とか地方の言葉って、よくわかんないし」などと思っている。しかし、その標準語も頭のなかでは「ま、おれたあは、大阪らへんの言っとることは、ようわかやへんだわ」となっているのだが。

 三河者と尾張者は、ことほどさように気性も文化も異なる。

 司馬遼太郎『覇王の家』は、このような三河人気質を、家康の家臣集団の特質を浮き彫りにすることによって明らかにした一冊である。それが科学的検証に耐えうるかどうかなどということは別にして、文学としてまことに興味のつきぬものにしあがった。

 

 

 司馬は、三河人・徳川家康とその家臣団が天下をとり、その後300年の長きにわたって強固な支配をしいてしまったために、日本人の民族性までが変質してしまったと、事実上「嘆いて」いる。そのくだりをみよう。

かれ(家康)がその基礎を堅牢に築いて二百七十年つづかせた江戸時代というのは、むろん功罪半ばする。……天文年間から慶長年間にかけての日本人にくらべ、同民族と思えぬほどに民族的性格が矮小化され、奇形化されたという点では、罪のほうに入るかもしれない。……世界の普遍性というものに理解のとどきにくい民族性をつくらせ、昭和期になってもなおその根を遺しているという不幸もつくった。/その功罪はすべて、徳川家という極端に自己保存の神経に過敏な性格から出ている。その権力の基本的性格は、かれ自身の個人的性格から出ているところが濃い。(あとがき、強調は引用者。以下同じ)

この小集団(徳川家臣団)の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになったのは、奇妙というほかない。(三河かたぎ)

 「功罪」などといっているが、ようするに、司馬は、徳川支配の300年が、日本人をダメにしたと言っているのである。
 司馬は、この徳川家臣団の性格を、三河人の保守的な農民気質に根拠をもとめ、尾張人の冒険的で投機的な商人気質と鮮烈な対比を描いている。

尾張には商業という、人間の意識を変えたふしぎな機能が、地をおおって波立っている。一文の原価がときに百文にもなるという魔術的な可能性をもった世界にいる人間にとっては運命に対する忍従心などは商業上の敗者の考えであり、そのかわりに自分の能力を信じ、その能力しだいでどういう奇跡をも生みうるという信仰を、濃淡の差こそあれ、尾張衆ならだれでももっている。(三河かたぎ)

家康とその三河侍の集団は豊臣期の大名になっても農夫くさく、美術史で分類される安土桃山時代というものに、驚嘆すべきことにすこしも参加していない。……徳川集団ほど、織豊時代のにおいと無縁の集団もない。(三方ケ原へ)

 ぼくらは、小学校の時代に、「愛知の三英傑」などといって、織田信長豊臣秀吉徳川家康をいっしょくたにして学ぶ。郷土が生んだ三人の偉人、というわけだ。しかし、前2人は尾張であり、後の1人は三河である。司馬の分類にしたがえば、そこには「三英傑」などといっしょくたにできるものではなく、まるで異質の人物だということになる。

 司馬が『覇王の家』において、もっとも力をいれる描写は、ひとつは小牧・長久手の戦い石川数正出奔を軸とした「秀吉vs家康」であり、もうひとつは築山御前の武田密通を口実に信長が家康に妻子を殺すよう圧力をかける「信長vs家康」の事件である。どちらも、尾張的投機性と、三河的忍従性のあざやかな対比だからだ。(ちなみに、これはどちらも山岡荘八の『徳川家康』で一つの山場になっており、三河尾張の対比を別にしても、歴史的に興味をそそられる対決シーンであったにちがいない。)
 とりわけ、秀吉と家康に二心をいだいた石川数正尾張びいきと三河批判のことばは、この対比を象徴的にあらわしている。

自然、数正は三河やや暗い閉鎖的な侍集団のふんいきよりも、織田家の開放的な、働きがあればたとえ徒士侍でも騎乗士にひきあげられ、功があれば戦闘の真最中でも大将の信長みずからが金箱に手を突っこみ銀の粒をつかみどりにして与えてくれるという家風に親しみを持った。/『尾張では、こうぞ』と、数正は口癖にいう。(初花)

 この小説の中心のもうあと一つは、三方ケ原のたたかいを軸とした、信玄との関係である。
 家康は、信玄を私淑していた。
 信長よりも「はるかに中世的な信仰者」であった信玄のほうが、家康には「理解しやすい風景であった」。
 すなわち、司馬によれば、中世権力の信奉者に親しみを感じる人間が、近世の幕を開いてしまったというのが日本の歴史なのである。信長のような中世権力の徹底的な破壊者、すなわち革命児が天下をとらずに、その成果だけをこのような農民的保守性、閉鎖性のつよい中世的退嬰集団が受け取ってしまったために、日本歴史と日本民族の性格は、歪みに歪んだのだ、というのが司馬の見解である。

 司馬は、啓蒙期の西洋ブルジョアジーにも似て、あまりに江戸期を暗く描き過ぎるきらいがある。
 じっさいには、家康は、源平合戦から南北朝、戦国期にいたる、数百年の封建革命を強固に完成させた革命児であった。
 おそらく、信長や秀吉ではこのような建設的な体制革命は不可能であっただろう。そのきちがいじみた投機性がまさに仇になって。

 だが、地政学や「民族性」を一つの軸にして、いきいきした人間(集団)像を描いていくことは、まさに司馬のもっともすぐれた才能であって、ともすればマルクス主義者が経済カテゴリの衣を着た紋きりの人物造形をやらかしてしまうことを考えれば、まさに学ぶべき描出力であるというほかない。

 

 だから、諸君。ぼくにたいしては、「ああ、名古屋ですか」とは、まちがっても言わないように。