映画『教皇選挙』のローレンスのセリフ

 映画『教皇選挙』をみた。

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 すでに感想はSNSでも書いたが、今まさにぼくが見るべき映画だった。

 主人公であるローレンスが選挙を取り仕切るが、彼が全体に向かって説教(演説)する中身が心に残った。

 読書会をしている友人がその部分のセリフを英語でくれたので、紹介しておく。

 

Certainty is the great enemy of unity. Certainty is the deadly enemy of tolerance. When Christ was not certain at the end, "Dio mio, Dio mio, perché mi hai abbandonato?", he cried out in his agony at the ninth hour on the cross. Our faith is a living thing precisely because it walks hand in hand with doubt. If there was only certain and no doubt, there would be no mystery. And therefore no need for faith. Let us pray that God will grant us a Pope who doubt. And let him grant us a Pope who sins and asks forgiveness and who carries on.

 

確信は団結の大敵である。確信は寛容の致命的な敵である。キリストも死に際して「神よ神よ、どうして私をお見捨てになったのですか」と確信を持てず、十字架の上で午後3時に苦しみのうちに泣き叫んだ。我々の信仰は、疑いと手をたずさえて歩くが故に、まさに生き物なのだ。もし確信しかなく疑いが何もなければ、謎は何もなくなるだろう。したがって信仰も必要なくなる。神が疑いを抱く教皇を我々に授けてくれるよう祈ろう。そして、罪を犯し、赦しを乞い、それを続ける教皇を我々に授けてくれることを。

 信仰には確信が必要だ、と言いたげな話のはずなのに、全く逆を説くのだ。

 そして、疑いを抱く指導者こそ必要なのだ、と。

 

 ぼくは内田樹の次の言葉を想起せざるを得なかった。

僕は日本共産党に対してですね、政党としてもっと成熟して欲しいということをつねづね申し上げているんです。成熟するというのは、「困ることができる」、「悩むことができる」ことだと思うんです。問題が解決できずに当惑している姿をそのまま見せることができるというのが成熟の証だと僕は思うんです。(『松竹さんを共産党に戻してください』p.26)

 本当にそうだよね、と思う。

 自らの立場は間違っているかもしれない、という疑いを持つ人が指導者であり、そのような文化が組織全体のものになるなら、組織は画期的に変わるだろう。

 決定は科学だといい、科学であるということは真理であるかのようにいい、真理とはドグマであり一方的に「学習」されるものだと信じているような人が指導者であるうちは、そうはなるまい。その指導者、その組織にとって悩むべき「謎」は何もないのだ。 

 ぼくの知っている自然科学者でコミュニストである人は、「科学」であると言ったときに、それをドグマとしての真理として扱う人が何よりも嫌いで、それはまさに科学とは正反対のものだと吐き捨てるように言う。そういうコミュニストを何人も知っている。

 今、そうなってはいないだろうか。

 

 また、社会が分断と対立に引き裂かれる中で、そんなふうに「迷っている」「疑いを持っている」という指導者や政治家がそもそも必要ではないかとも感じた。

大濠公園のハス

「at the ninth hour」ってなんだろう

 さて、ぼくは引き続き英語を勉強しているので、このセリフも風呂場で声に出して読んでみたりしている。

 で、「at the ninth hour」ってなんだろうと思ったのだが、ユダヤ人の時刻表示で「第9時」、現在で言うと午後3時だそうである。

 聖書を読んでいるとき、イエスが磔にされて死ぬシーンで

さて、昼の十二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた

と書かれていて、何だか具体的で臨場感あるなー、事件のルポみたい、と思った記憶がある。昔の人はそこで息を呑んでその様子を想像したのかと思ったりした。