【読み捨て版】読書家などとは言えぬぼくが勧める、ぼくの人生を大いにもしくは少しだけ変えた5冊


 もちろんこの記事のパロである。
【保存版】数千冊は読書した私が勧める、あなたの人生を変えるかもしれない30冊 - トイアンナのぐだぐだ 【保存版】数千冊は読書した私が勧める、あなたの人生を変えるかもしれない30冊 - トイアンナのぐだぐだ


 「面白かった!」と思える本に出会うのはたやすいけれど、人生を変えるほどの衝撃を与えられることはめったにない。ブログ「トイアンナのぐだぐだ」でオススメされている本は悪くないけれど、優等生的すぎる。ひとが人生が本で変えてしまうのは、有名な本のこともあるが、たいていは名も知らぬ本だったりする。


 メールなどで「影響を受けた本は何ですか」と質問いただくことは全くないが、ぼくも向こうを張ってぼくの人生を実際に大いに・あるいは・多少変えてしまった5冊の本をリストアップした。たぶんこのリストを見たあんたの人生は変わらないだろう。読み捨ててほしい。




国家と革命 (岩波文庫 白 134-2)国家と革命 (岩波文庫 白 134-2)
レーニン 宇高 基輔

岩波書店 1957-11-25
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 この本を高校時代に読んで受けた衝撃について、雑誌『新現実vol.4』(太田出版)への寄稿文や山本直樹『レッド』(講談社)のあとがき解説で少し書いた。学校で教えられるタテマエとしての民主主義の空々しさに、胡散臭さを感じていたぼくは、例えば日本社会党を、そのような空々しさの代表格だとみなしていた。
 他方、当時自民党が引き起こしていた金権腐敗の様々な事件を、まぎれもない政治のリアルだと思っていた。
 「この世は全てカネ次第。政治もきれいごとではなく、カネを持っているやつがモノを言う」――まあ、端的に言えばその程度の、しかし市井の人々の間に強靭な根を張っているこのような認識は、ぼくをも確かに虜にしていた。
 『国家と革命』は、そのような庶民的な泥臭いリアルに理論的な支柱を与えるとともに、それをひっくり返し、理想社会の展望につなげてしまった。タテマエとしての民主主義ではなく、「この世は全てカネ次第」「政治は『みんなのため』という偽装で、実は金持ちのために行われている」という認識を承認した上で、それを変えて、本物の人民支配をつくろうぜという呼びかけをしていたのがこの本なのだ。
 そしてマルクス主義、という、人間をわしづかみにしてしまう大きな世界観にまさにぼくがわしづかみされた瞬間というのが、この本を読むことによってだった。
 ブルジョア議会など茶番だ、力による革命によってしか世の中は変わらない、というような記述もあるのだが、それは「暴力革命しかない」というメッセージではなく、今目の前で展開されている議会政治の欺瞞を暴く痛烈な言葉として高校生のぼくは受け取ったのである。
 今日では、マルクスを歪曲したものとして受け取られることもあるレーニンのこの著作だが、ぼくがマルキストになる上での最初の衝撃を与えたことは疑いのない1冊なのである。



暴力の人類史 上暴力の人類史 上
スティーブン・ピンカー 幾島幸子

青土社 2015-01-28
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 「信じられないような話だが――ほとんどの人は信じないに決まっているが――長い歳月のあいだに人間の暴力は減少し、今日、私たちは人類が地上に出現して以来、最も平和な時代に暮らしているかもしれないのだ」(本書上巻p.11)という一文で始まる。
 そんなことが信じられるだろうか。
 信じられなかったからこそ、本書はぼくにとってまさに衝撃だったのだ。
 暴力がどう減少してきたか、その様々な要因は何か、ということが上巻・下巻あわせて1300ページ前後で、様々な角度から書いている。
 まず読み物として面白い。上巻の最初なんか、まず聖書が槍玉に上がっている。聖書の中にいかに暴力と殺戮が記述されているか、ってことがこれでもかと書いている。
 あるいは下巻の「権利革命」。子どもの人権の保障から、子どもの安全を求める親たちの行動がどれくらい過剰なものになったのかが書いてある。誘拐されまいとして自動車で送り迎えするようになったことで、確実に自動車でどこかの子どもを轢き殺すリスクが高まったことを数字をあげて皮肉る。
 がっつり「共産主義」の悪口も書いてある。書いてあるけど、たいていは「事実」であるから致し方ない。そんなことはこの本の価値にとってはどうでもいいことなのだ。
 この本を読んでマルクス主義者たるぼくが人生観を揺さぶられる、というか深い感動を受けたのは、自分たちのやっている権利のための運動がたとえ大河の一滴であったとしても、結局長い年月をかけて暴力を減らすことに貢献しているのではないかという巨視スケールでの歴史観をぼくに与えてくれることになったからである。


神聖喜劇 第六巻 (幻冬舎単行本)神聖喜劇 第六巻 (幻冬舎単行本)
大西巨人 のぞゑのぶひさ 岩田和博

幻冬舎 2014-07-10
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 大西巨人の小説『神聖喜劇』は、「日本文学史上の最高傑作の一つ」(阿部和重)と書かれるほどの傑作であるが、不幸なことに日本文学史を口にするほど日本文学を読んでいないぼくには、この評価が本当かどうかはわからない。
 しかし、この本に出会ってから今日に至るまでぼくは取り憑かれており、風呂場で毎日声を出して朗読していることは前にも書いた。
 ニヒリズムに囚われた「私」こと東堂太郎が、旧日本軍の対馬の部隊に入営し、そこで出会う軍隊の不条理に抗し、異常な記憶力を武器として、規則と法令でがんじがらめの兵営生活に、逆にその規則と法令をタテにして(自覚的にではなく、自然発生的に)挑んでいく物語である。
 法令で縛られたのは軍隊だけではなく、実はぼくらが生きている資本主義社会そのものもそうである。だから、東堂の姿は軍隊での特殊な姿ではなく、一般社会に暮らすぼくらとも地続きなのだ。
 「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の言葉で有名なダンテの『神曲』(La Divina Commediaすなわち神聖喜劇)と大西が同じタイトルをつけたのは、一般社会と隔絶した社会として軍隊を描いた野間宏『真空地帯』へのアンチテーゼとして本作を意識しているからであろう。一般社会と軍隊はよく似た、地続きの社会なのだ、ということがこの本の主張の一つである。
 だから、軍隊での東堂の行動は、一般社会におけるぼくの一つの模範でもあり、彼の行動の姿は、まさにぼくの憧れである。
 いま「尊敬する人物をあげよ」と言われたら、まちがいなく、この虚構のキャラクターである東堂太郎を挙げる。東堂はカッコいい。東堂のように生きたい。
 その、ぼくにとっての東堂の「カッコよさ」は、のぞゑのぶひさが描く東堂太郎のグラフィックに大いに規定されている。だから、あえて、小説ではなく、その導入版・要約版ともいうべきのぞゑのぶひさのマンガ版をお勧めする。もちろん、小説もいい。毎日風呂で朗読するなら小説だ。お前ら、やらないだろうけど。
 そして、作中に挟まれる膨大な古今東西の古典やテクスト。
 目の前の野蛮な現象、日常の些事が、たちまちに教養の体系につながるというこの教養主義の真髄に震え上がるほどの美しさを感じる。
 ああ、全く東堂のように生きたい!


すくらっぷ・ブック1巻 (小山田いく選集3)すくらっぷ・ブック1巻 (小山田いく選集3)
小山田 いく

復刊ドットコム 2006-07-10
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 『すくらっぷ・ブック』で人生が変わったとは言わんが、人生の基礎を作った作品の一つである。作者の小山田いくは、最近亡くなった。
 中学生の友情と恋愛を描いた80年代の漫画(少年チャンピオン連載)であるが、あまりにのめり込みすぎて、「なぜ俺はこのマンガの登場人物ではないのだ?」と深く絶望した最初の作品となった。
 作中で、作者の私信ともいうべき、とり・みきとの馴れ合い的バトルが画面の隅の方に、随所に出てくる。それでとり・みきは小山田の作品解説について少々特権的なポジションを得ているように見られているのであるが、そのとり・みきは、小山田の訃報に接して次のような一文を書いている。

僕はギャグマンガを志向しており、小山田いくの描くマンガはキャラクターこそ2頭身から3頭身とギャグ的ではあったが、内容は皆様よくご存じの通り、青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソードがてんこ盛りに語られる、地方の学校というごく限られたコミュニティの群像劇だった。
(中略)
だが、彼は地元在住のままマンガを描き、僕は上京した。そして僕はギャグマンガを志向した。その時点で、僕は自分からも作品からも彼が描いていたような属性や要素を、意識して排除した。本当はさだまさしも聴いていたのに、山下達郎ムーンライダーズしか聴いてないようなふりをした。

それを小山田いくは葛藤も臆面もなく(と、当時の僕には思えた)描いていた。人は自分と正反対の人間よりも、実は自分とよく似た、しかし自分が隠したい属性を堂々と誇示している人物を、もっとも嫌ったり意識したりする。

こうして僕は小山田いくの(実のところ自分の)甘酸っぱさを、作者本人へのちょっかい的なギャグでなんとか中和しようとした。照れずにああいう話が描ける同年代をスルーできなかった。

http://www.torimiki.com/2016/03/blog-post.html

 「青春……いやさらにその一歩手前の時期の、ちょっと甘酸っぱいエピソード」というところに、『すくらっぷ・ブック』を言い表す妙があるが、もっと言えば、これは友情や人間関係における理想を掲げている作品でもある。
 ぼくの兄は、『すくらっぷ・ブック』や『星のローカス』のような作品を徹頭徹尾馬鹿にした。とり・みきよろしく、そこに描かれている「甘酸っぱさ」、すなわち理想主義的な空気が耐えきれなかったのだ。「VOW」とか「ビックリハウス」のようなサブカル的なリアルが好きだった兄は、このようなまぶしい理想主義を忌み嫌った。
 ぼくがやがて政治にかぶれ、左翼になったのに、兄は政治の世界には決して近寄ろうとしなかったのは、理想というものに対する「胡散臭さ」を感じる度合いによるものだろう。
 ぼくの中に埋め込まれた理想主義の一つの基礎がこのマンガなのだ。
 このような作風は、現代では、死滅したに近い。少女マンガに受け継がれて不思議でないはずの作風なのだが、ここまでストレートな甘酸っぱさ、その核に、無防備とも言える理想主義的な友情・恋愛讃歌を描いているものはもはや見当たらないだろう。



私説博物誌 (新潮文庫 つ 4-10)私説博物誌 (新潮文庫 つ 4-10)
筒井 康隆

新潮社 1980-05
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 筒井康隆は、中学から高校にかけて夢中になった作家の一人である。文体を真似た文章を書き散らした。今思えば全然似てなかったけど。明らかにぼくの人格の基礎を形成している。
 どれを紹介しようか迷うけども、あまり知られていないであろう、この本を紹介する。
 様々な動植物の生態を、筒井が面白おかしく紹介していくのだが、動物園で飼っていたカメが弱ってきたので甲羅を剥がしてみると、そこから大量のゴキブリがわっと……というような記述が頭に焼き付いている。小3の娘に嫌がらせで話したりする。
 この本に出てくる「トリフィド」という鉱物で組成された「生物」、もちろん空想上のそれに刺激されて、中学生だったぼくが雑なSF小説を書いたこともあった。
 

おわりに

 とまあ、とりあえず5冊。
 他にも本多勝一(『殺される側の論理』)とか、哲学の入門書(高橋庄治『ものの見方考え方』)とか、知り合いの教師の教育実践の本(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』)とかがあったけども、紹介しなかった。今、広く人に紹介する意味があるかどうかがわからなくなってしまっているからである(他の人は、他の本で代用できるか、もしくはぼくの推奨が意味を持たないか)。
 「人生を変える本」というものは、たいていその人が若い頃に大きなインパクトを与える。インパクトを与える本は、たいてい一面的である。だから、インパクトを与えられて成長を遂げると、やがてそこから離れていく。それでこそ「人生を変える本」なのだ。そういう意味では、長く人にすすめられるような「人生を変える本」というのはあまりありそうにもない。