山本直樹『レッド』1巻

『ビリーバーズ』で果たせなかったもの

 最初にちょっとおさらい。

 

 

 すでに山本の『ビリーバーズ』についての感想のところで書いたとおり、山本はオウム事件に際して、
「一連のオウム騒動のあと、『似た騒ぎが昔あったな』と思い出して、連合赤軍関係の本を読んでみた。すると『これがおもしろかった』。
『閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなのを描いてみたいなと……』」(中野渡淳一『漫画家誕生』p.124)

ということで『ビリーバーズ』を描いた。
 『ビリーバーズ』はオウム事件ではなく、オウム事件を契機にして山本が連合赤軍事件を知ることにのめりこみ、まさしく連合赤軍事件を描いたものであった。
 連合赤軍事件が他の事件と違うのは、当事者たちの詳細にして膨大な記録が存在することである。その記録を読むうちに、山本が「魅せられて」いったことは想像に難くない。なぜならぼくがそうだったからである。もちろんサブカルチャー的興味の対象、という不謹慎な立場から。

 しかし、『ビリーバーズ』では性的妄想の展開など随所に作品としての煌めきはあったものの、結局山本が描こうとしていた核心、「閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなの」はついに描けなかった。
 それは当事者たちの記録の生々しさにはるかに及ばなかった。
 ありていにいえば、その記録を読めばいいだけの話である。

 おそらく山本にとって、このことは「宿題」として残されたのだろう。
 NHK-BS2マンガノゲンバ」(08年2月5日放映)で、山本直樹はインタビューに答えてこういっている。

「世の中をマシにしようと思っている内に真逆のことをやってしまう。それは歴史的に何回も起きてることだと思うんですよ。中国の文化大革命とかカンボジアのポル=ポトとか。何回も起きたし、起き続けているしこれからもあるし、そういう人間の心理はなんかすごいな、って。理屈みたいなのが地面から足が離れると人間はそういう『狂気』の方向へ行っちゃうのかなって。(『レッド』では)これから人の生き死にやグロテスクな暴力が出てくる予定なんです。今までエロをやっていた時に出てきた(人の心に潜む)化け物みたいなのが出てくるかもなっていう段階ですね」

 『ビリーバーズ』でのインタビューで答えた「閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなの」という問題意識をそう大きくでていないことがわかるだろう。
 山本にとっては、ここを描くことは果たされていない宿題なのである。

 少なくとも連合赤軍事件における「暴力」を描く場合、ヘタな創作やフィクションよりも、事実がもっている力の方がはるかに説得力もリアリティもある——山本はそう感じたのではないだろうか。

 


ノンフィクションに徹する『レッド』

 それゆえに、『レッド』は山本の過去の作品を知るものとしては驚くほどドキュメンタリータッチに徹している。 たとえば山本が唯一「社会問題を扱っているということをちょっと意識した」という『ありがとう』でさえ、女子高生コンクリート詰め殺人事件、愛知県西尾市のいじめ自殺事件、さまざまな新興宗教の事件を渾然一体のスープにしたフィクションとして描いている。

 ところが、今回、『レッド』は当事者たちの記録からピックアップしてそれを描くということに本当に忠実である。

 

 

 ひとつ例をあげよう。
 『レッド』1巻では、永田洋子役にあたる赤城が、デパートに入って尾行している私服を結果的にまいたあとで、ばったりとお菓子を食べているところに再び私服に出会い、赤城が「食べる?」とそのお菓子を私服に差し出すというコミカルなエピソードがあるのだが、これなどはさすがに山本のいつものトボけた調子なのだろうと思っていた。
 ところが、あらためて永田洋子『十六の墓標』を調べてみると、このエピソードが出てくる。そんなところにまで手記に忠実なのかとぼくはびっくりしたものである。ただ、確認できないエピソードもいくつかあったので、すべてそうだとは断言できないのだが、少なくとも大半はドキュメンタリーであることは間違いない。

 この手法が果たして実を結ぶかどうかは、1巻では何とも言えない。中心テーマとなる山岳ベースでの生活、凄惨な「総括」のシーンはこれからだからだ。この時点でこの作品に大きな評価を与えることはまだできない。

 だが、1巻の範囲でも言えることはある。

 まず評価できる点からあげてみよう。

 


永田と植垣をピックアップ

 「この時点でこの作品に大きな評価を与えることはまだできない」と今ぼくは述べたばかりであるが、ぼくはもう何度もこの1巻を読み直している。それはこうした感想を書くためではなく、『十六の墓標』をはじめとする当事者たちの手記に、グラフィックの形で人物造形を与えてくれたからである。

 もはやぼくが事件当時者の手記を読むとき、山本の漫画で描かれた人物像を頭に思い浮かべることなしには読めなくなっている。
 とくに永田洋子(『レッド』では「赤城」)と植垣康博(『レッド』では「岩木」)の造形は印象的だ。
※『レッド』ではすべて登場人物に山岳の名前をつけている。この山本の命名法の真意はわからないが、おそらく「あさま山荘」事件のさいに、警察の盗聴を考慮して連合赤軍側がにわかに山岳名で名前をつけて呼び合ったエピソードに由来しているのであろう。
 実際の事件において中心をなしたのは、永田と森恒夫(『レッド』では「北」)なのだが、『レッド』では永田(赤城)と植垣(岩木)の二人をズームアップして進行していく。(さらに加えれば坂口弘=『レッド』では「谷川」)。
十六の墓標 上―炎と死の青春 永田は『十六の墓標』、植垣は『兵士たちの連合赤軍』という手記をいずれも書いている。
 この二人の視点が選ばれているのは、おそらく一方は赤軍派から参加して「被指導部」すなわち一兵士の、しかも男性の視点をもっているからであり、もう一方は革命左派から参加して「指導部」となった女性の視点をもっているからであろう。この二人の視点があれば、いちおう大ざっぱに全体を網羅することができるし、何より二人とも重要な手記を書いている。
 この事件の最も重い責任を担うはずの最高幹部・森も『自己批判書』という一文を残しているのだが(あと自殺したときの遺書もあるが)、1巻の範囲のことがあまり書かれていないことと、事件直後に書いた生硬な政治用語に彩られており、森=北の視点から物語をすすめることは本質に迫れないと判断したのであろう。

 手記をはじめ、実際の事件には膨大な事実があり記述がある。そのなかで何をセレクトするかによって、事件の描き方、人物の描き方はまるでちがってくるだろう。

 


非合法活動や尾行におびえる永田=赤城

 『レッド』では、“永田は冷酷な闘争機械であり、自分の容姿へのコンプレックスや権力欲が強くそれゆえに仲間を奸計に陥れてゆく「鬼ババア」である”という通俗的な永田理解を排している。
 『レッド』のなかではたしかに「鬼ババ」と呼ばれ官憲に食ってかかる様子も描写されているが、全体としては永田=赤城の性格描写は非常に抑えられたものになっている。
 最も印象的なのは、車で尾行されただけで激しい恐怖心に襲われる永田=赤城を描いているシーンである。
 パセドー氏病もしくは脳腫瘍の影響でついへたりこんでしまう永田=赤城もくり返し描かれる。また、断定的・教条的に相手を追及する反面で、責任者に選出されたりするときの不安で頼りなげな表情もやはり何度もでてくる。
 あるいは、坂口=谷川の書いた論文を永田=赤城が泣きながら批判するシーンである。坂口は自著『あさま山荘1972』のなかで、「彼女は涙をぼろぼろこぼし、……私を無知無情だと詰るのであった。こんな激しい一面は今までに見せたこともなかったので、私はビックリしてしまった」と記している(上巻p.232)。坂口はこれを永田の激情家かつ我の強さの現れと見た。
 そこから見てとれる永田=赤城像とは、経験も理論も浅い人間であるがゆえに心の底ではたえず不安や動揺にさいなまれていたこと、しかし、他面で教条的なまじめさでそれを押さえつけて乗り切っているのであり、こうした教条的なまじめさに自分の意見への固執が加わると手が付けられないほど頑固になってしまうというものだ。
 これはぼくが永田や他の人々の手記を読んで感じた永田像に近い。
 永田は、さして激しい学生運動の体験もないのにセクトに居着き、それを教条的なまじめさだけでこなしていこうとした。活動家においてこういうタイプの人間をぼくはしばしば見受ける。そして自分のなかに経験や理論の自信・根拠というものがないから、たえず強力な指導者に影響を受け、その忠実な実行者であろうとした。
 こうした永田の個人的資質は、事件の主因ではないにせよ、事件の重要な推進動力になったとぼくは考える。ゆえに、『レッド』1巻がここを描いているのは本質的である。

 非現実的な「武装闘争」へと傾斜していくとき、理論や経験があればそれを防ぐことができた。あるいは「ふまじめ」であればどこかで放り投げていくこともできた。永田にはどちらも欠けていたのである。

 ダイナマイトや銃を使うやり方は当然非合法である。
 そして、そこにふみこんだとき、いかに新左翼的な学生運動が過激化していったとはいえ、ゲバ棒をふりまわして機動隊と衝突するのとはまるでちがう質があり、実行する人間には途方もない躊躇や動揺が生まれたはずなのである。

 坂口の『あさま山荘1972』では、はじめてダイナマイト作戦をしたときのメンバーたちの動揺ぶりが描かれている。文中に出てくる「石井」という活動家や他の活動家たちの様子は次のとおりだ。

「おそらく石井さんはダイナマイトを使った過激な闘争に対し生理的な拒否反応を起こしたはずである。だが指令に逆らうことは出来ない。逆らうことが出来ないといっても強圧に屈するのとは少し違う。指令は当然だ、との思い込みがあるのだ。その底には、米軍基地に反対して立つのは無条件に正しい、という確信がある。他方では、失敗して警察に捕まることも当然、考えないわけにはいかない。逮捕されれば長期実刑は確実である。こうしてやらなければという使命感と、逮捕されることへの恐れとが激しくせめぎ始める。結果、逮捕への恐れを恥とみなし、無理矢理に拒否反応を押し隠して使命感を募らせていったものと思う」(上巻p.185)

「この危険な任務を永田さんから言い渡されたメンバーは、誰も躊躇することなく、その場で了承したという。だがそれは上辺にすぎず、ある男性メンバーは翌日、黙って組織を離れていき、ある女性メンバーも、こぶしを突き上げて『やるぞ』と言ったものの、同じ部屋の仲間にも告げず、突如、姿を消してしまった」(同p.186)

 他でもない、自分たち自身がそこへ自分を追い込んでいったのであるが、永田はこうした根底の不安を、教条的な「誠実」さでがむしゃらに活動をすることで自分のなかに押し込めてきた。
 しかし、永田および組織全体が感じている「不安」というものを、『レッド』1巻における尾行に恐怖する永田=赤城の描写はよく表していると思う。

 


坂口の手記は分析としての重要性をもつ

 ちなみに、坂口=谷川も『レッド』においては重要人物である。
 だが、そのもとになる手記『あさま山荘1972』は、植垣や永田の手記のような文学性が乏しく、坂口=谷川というキャラクターを浮かび上がらせるには実はあまり役に立っていない。『レッド』1巻においても谷川は、わかったようなわからないようなキャラクターである。

 

 


 しかし、時代の空気や背景、周囲の人々の気分をふくめ、最も分析的に書いているのは実は坂口の手記である。
 坂口の手記は、坂口=谷川の人物描写にはあまり役立たないが、重要な事実をセレクトするうえでは最も役に立つものではないかと思う。
 たとえば、革命左派=革命者連盟が政治ゲリラ闘争という名の爆弾作戦にのめりこんでいくとき、それに河北(『レッド』では「岩湧」)がストップをかける話がある。
 これは永田の『十六の墓標』ではわりとさらりと流されているのだが、坂口は河北=岩湧の説得が、実は後から考えてみて極左的な武装闘争から引き返すほとんど唯一の機会だったことを振り返り、その叙述にかなりのページを割いている。

 

 

 


 山本直樹は、「なぜ連合赤軍事件が起きたか」「なぜ理論の足が地面から離れていったのか」を考える上で、このエピソードを重視したのだろう。それは坂口が手記で強調していることをくんだものと思われる。

 


植垣=岩木が味わった「運動の衰退」

 もう一人、植垣=岩木についての事実のセレクトもなかなか考え抜かれていると思う。
 物語の冒頭で、青森の大学(弘前大であろう)で全共闘運動に参加している岩木の描写から『レッド』は始まっている。
 活動に参加しなくなった女性を訪問してぎこちない会話をかわすシーンというのは、ぼく的には「他人事」とは思えぬリアルさを持って読んでしまった(笑)。
 そして、全体は、全共闘型の学生運動が退潮していく様子を描いている(余談であるが、『レッド』1巻のp.35で大学封鎖の自主解除を植垣=岩木に申し入れている学生は植垣の手記では「人文学部の安田」とされており、これは「ガンダム」で有名な安彦良和のことだそうである)。

 

 

 これは連合赤軍事件を理解する上で重要な点である。
 連合赤軍事件に関与した人間の多くは学生あがりだった。つまり学内の過激な空気にそのままアオられ、大学が次第に全共闘型の運動に冷めていくなかで、その空気のまま大学の外に飛び出して先鋭化していったのが連合赤軍メンバーたちであった。

 大学の空気が「実力行動」や全共闘型の運動に対して急速に冷めていくなかで「追い出される」ように学外へはじきだされていったのが植垣=岩木だった。『レッド』では、やがて赤軍派の呼びかけに応じて上京し、新宿で投石をしてつかまるまでを描いているが、この全共闘運動の衰退のなかで大学の外へと押しやられていく植垣=岩木の描写は、ポイントをよく押さえているように思われる。

 


ゆがんだ性

 もう一つ、植垣=岩木を特徴づけるものとして、「性的」人間であるということであった。もちろん、それは植垣=岩木に限らないことであるが、彼の手記のなかでは何度も女性との関係が書かれている。
 エロ漫画家である山本はそこに着目したのであろう。
 植垣=岩木が、赤軍派(『レッド』では「赤色軍」)の合法部メンバーたちのアジトにいくと女性ばかりで、そのなかで眠る植垣=岩木は悶々として眠れないのだ。
 やがてその中の一人、有馬(『レッド』では「月山」)という女性活動家と植垣=岩木は関係を深めていくのだが、1巻ではそこまで描かれていない。
 これはもっとずっと後のことになるのだが、赤軍派であった植垣が、山岳ベースではじめて革命左派の女性たちに会ったとき、「痴漢」行為をはたらいてしまう。

「たくさんの女性活動家たちがいたことは、男の兵士ばかりのなかで活動していた私にとっては、うらやましいことだった。おかげで、彼女たちの存在に惑わされてしまった。しかも、女性たちが平気で男性の隣に寝たりしているので、びっくりしてしまった。男ばかりのなかで活動していた私は、自分の潔癖さにというてい自信がもてなかった……。私の左隣に金子さんが、右隣に永田さんが寝た。私は大変なことになったと思い、気になって寝られず、革命左派の家族的雰囲気から緊張感がゆるんでしまったこともあって、つい二人に手を出してしまった」(植垣『兵士たちの連合赤軍』p.238)

 

 

 「彼女たちの存在に惑わされてしまった」じゃねーだろ。

「彼女たち」の連合赤軍サブカルチャー戦後民主主義 (角川文庫)  連合赤軍関係の手記には「痴漢行為」とか「強姦」「中絶」といったことが多く見受けられる。ぼくは、ここに登場する男性陣の性意識のひどさにしばしば呆れながら読んでいた。この点は評論家の大塚英志も奇異に感じたようで、「連合赤軍関係の手記を読んでいると、当時の左翼活動においてその男女関係が余りにも男性支配的であることに驚かされる」とのべている(大塚『「彼女たち」の連合赤軍』p.69)。
 たとえば坂口弘永田洋子との結婚について、自分が外相の飛行機に火炎瓶を投げた事件で懲役7年を求刑されて激しく動揺し、「肉体的に若さの盛りである一方、精神的には長期求刑と武闘責任者の重圧に苛まれる毎日——。こうして刑務所に入る前に女性を抱きたいとの願望が募り、やがて永田洋子さんと一緒に生活することになった」(坂口前掲書p.225)と、結婚相手=セックス要員であるかのような結婚観をあけすけに書いている。ムショに入る前にセックスしときたいから永田と結婚、ってなんだよ。

 また、女性の側の性観のゆがみについても無視できない。
 通俗的な永田理解にあるように、永田は自分の容姿にコンプレックスがあったから美人を粛清していった、というふうにはぼくは思えなかった。それよりも、永田自身が述べているように、女性らしさを生きることはブルジョア的・封建的な女性観であり、女性性を否定した抽象的人間——永田の言い方を借りれば「中性の怪物」になることをメンバーに求め、その非人間的な女性観が悲劇の一因となったように感じた。これはジェンダーフリー運動をバッシングする右派が描き出そうとしているジェンダーフリー思想にそっくりである(もちろんそれは多くのジェンダーフリー思想の真の姿ではないことは言うまでもない)。

 永田は下獄後、そのような自分の女性観が仲間を死に追いやった一つの原因であると反省している。そして『続十六の墓標』では、永田の描いたというか模写した浮世絵や漫画などが載せられている。そのなかには、大和和紀あさきゆめみし』などもあるのだ。
 大塚は、そこに「乙女ちっく」になっていく永田を見た。そして、それは「彼女の『女性性』に輪郭を与えることば」(大塚前掲書p.47)だととらえたのである。
 ぼくなりに単純化していえば、永田は「乙女ちっく」になることで、「中性の怪物」という歪みを克服する手がかりを得たのである。

 いずれにせよ、連合赤軍事件の主因ではないにせよ、興味深い一側面として男女それぞれがかかえていた性の問題を、山本直樹は直視しており、そのことが『レッド』の1巻のなかでも読み取れたのである。

 


死のナンバリングの効果

 『レッド』1巻の時点において評価できる最後の点は、今後死ぬ者に死ぬ順番の番号をふり、また当事者たちの運命の日が迫る日数をくり返し提示するという試みである。
 『レッド』1巻の巻末では「なぜこんな真面目な人物が命を落としてしまうのか? なぜこんなどうしようもないやつが生き残っていくのか? そこにも人の運命のおかしさや悲しさが見えてくるはずだ」と書いている。同趣旨のことはNHKマンガノゲンバ」でも言われていた。
 これは、手記を読んだぼく自身がとらわれた感情でもあり、非常によく理解できる。
「あー、こいつ、いまこうやって仲間といっしょに笑ってるけど、もうすぐ殺されるんだよなあ…」
「なんかすごい純粋そうだけど、こいつも殴る蹴るをやって、それで自分も殺されるんだよなあ……」

 山本にもその悲しさ、おかしさが胸に迫ったということだろう。
 このナンバリングとナレーションは、たえずこの運命を読む者に意識させるのである。

 


手記を読んでいない者はこの作品を味わえるのか?

 以上が『レッド』1巻において評価できる点である。
 逆に評価できない点は、こうしたよさは、手記を読んだ者でないと本当には理解できないのではないか、ということである。
 問題意識なしに読むと、淡々と事実が綴られているだけで、クールすぎるように思われるからだ。特に、一つの事実やエピソードをてがかりに妄想をふくらませることを作風としてきた山本の読者からすると、あまりにも淡々とした事実描写に徹していて不満が残るのではなかろうかと感じた。
 手記を読んだ者が濃厚な視線をそそいで作品を見るのと、まったく知らない読者が読むのとでは大きな違いが生まれるのではなかろうか。

 


「実力闘争」の熱病を描くべきだった

 もう一つは、連合赤軍事件を考えるうえで、「実力闘争」への熱狂という病を経験しているということを、出発点に描かねばならなかったのではないか、ということである。
 というか、それが現体験として当事者たちにはあるからであり、それが狂気じみた武装闘争へ暴走していく最深奥のモーターになったのではないかと思われるからだ。さっきものべたように、『レッド』は全共闘学生運動の衰退から描写を始めている。
 ぼくらの世代になると、そのあたりは皮膚感覚としてもうまったくない。つれあいは、『レッド』を読んだ時、「なんでこの人たちが非合法にまでのめりこんでいったのかわからない」と素直な感想を言った。さもありなん。
 坂口は自著のなかで1967年の首相訪米阻止の衝突についてこう書いている。

「この闘争に参加した学生・労働者の数は二五〇〇名ほどで、そう多くはない。だが、その旺盛な士気と機動隊の厚い壁を撃破した勝利の実感によって、この闘争は街頭実力闘争に新たな局面を切り開いた。俗に『ジュパチ・(一〇・八)ショック』などと言って、当時、新左翼の運動に関わっていた者なら、例外なしに、実力闘争の時代が到来したことを実感したものだった」(坂口前掲書p.107)

 また、植垣も自著のなかで、弘前大で自分たちが民青を圧倒して全共闘運動をいかに華々しく闘ったのかを誇らしげに書いている。植垣は全共闘運動のなかで「学生独裁論」という奇妙な議論をうちたてる。これはプロレタリア独裁論(しかも多分に植垣流、あるいはレーニン流の)を大学内に機械的にもちこんだもので、大学の中と外を混同したことの一つの典型的な現れだった。

※ちなみに、ぼくは高校生のときにこの植垣の「学生独裁論」のくだりを読んで、非常に暗い気持ちになったことを覚えている。その気分の正体は当時わからなかったのだが、多分あまりに稚拙だという印象をもち、左翼ってこんなもんかと思ったせいではないか。
 そういう熱狂の体験があって、はじめて彼らを駆り立てた原体験が理解できるのではなかろうか。『レッド』では多少描写はあるものの、基本的に運動が衰退へむかっているところから描かれ始めていて、時代の空気を知らぬ者にはそこが伝わっていないと思われる。

 ぼくなりの連合赤軍事件解釈を最後にのべておこう。そうした方が、ぼくの『レッド』の事実セレクト評価も、よりはっきりするだろう。

 ぼくは、連合赤軍事件は、最も大きな背景に、新左翼的な「実力闘争」の高揚を共通体験してしまったことがあげられると思っている。それが「実力」によって現代日本で革命ができるという誤解を根底で支え続けた。
 ついでそれを意識的な「武装闘争」に変えていく段階があった。このときに、当時世界中で猛威を振るった毛沢東の暴力革命論、唯銃主義の影響がある。革命左派の思想ベースは一貫して毛沢東であるし、赤軍派メンバーも山岳ベースではくり返し毛沢東を読んでいる。
 いったんここにのめりこむと、非常に重い刑罰の対象になる非合法活動となる。そうなれば、坂口でさえ重圧を感じたように、たえず自分の逮捕や組織の壊滅をおそれるようになり、その恐怖心を根幹にして私刑が正当化される。抜ければ警察にしゃべるだろうという恐怖があるので、もはやがんじがらめになっていく。後戻りできないのである。
 これが全体の構造である。
 ここに、この構造を強化し、促進させる独特のモーターが作動した。それが森の個性であり、永田の個性であり、あるいはゆがんだ「性」の捉え方であった。ただこの部分はあくまで「促進材料」ではあるが。
 だから、決定的なターニングポイントは、ダイナマイトなどの「武装闘争」に傾斜していく地点なのだ。河北がそれを止めようとしたことを坂口が後から振り返って重要だとみているのは正しいと思う。その後、最初の1人を「処刑」するとき(印旛沼事件)、わりとスンナリ決定がなされてしまうのは、もはや怒濤のような流れが出来てしまっているからなのである。

 

 ともあれ、これまでのべてきたことは1巻における雑感にすぎない。
 この作品の本当の評価は、すべてが完結してから下されることになるのだから、現時点での瑕疵をあれこれあげつらうことは、現時点でこの作品を無条件にほめそやすのと同じくらい軽率なことなのかもしれない。

 個人的には、大槻(『レッド』では「白根」)の造形に関心が高い。『レッド』では妊娠したまま殺害された金子(『レッド』では「宮浦」)の描写が目立っているが、大槻=白根のように詩を書いたり、恋愛もし、元恋人の殺害に加担したことを耐えきれないほどのまとな精神をもちながらも、やはり活動家として指示を愚直にこなし、殺害に加担しつづけ、そしてやがて殺されていく悲劇性の高い人物にこそもっと焦点をあてて描いてほしい気持ちがある。大槻=白根の描写は1巻では数えるほどしかないが、ぼくはその数コマをまじまじと見てしまっている。

 そのことをふくめ、今後の展開に期待する。