永井愛・上西充子『言葉を手がかりに』

 「ご飯論法」の可視化で有名な上西充子と、劇作家・永井愛との対談である。

 

答えを持たずに読む

 本書の巻末に著者の一人である上西充子が本書の意図について、

永井さんもわたしも、何かはっきりとした答えのようなものを持ち合わせているというわけではなかった。(p.217)

と述べている。あらかじめ定まった問題意識を強調するのではなく、相互作用の中で何かを生み出そうというものである。

 それは極めて演劇的な行為である。

 劇作家である永井も、この対談で、コロナでのオンライン配信(一種の映像作品)と観客が実際にいてその相互作用が起きる(演劇)こととの違いを次のように述べている。

観客の目が最後の気づきを、演者にも、演出家にももたらす。それがないものは、舞台じゃない。(p.40)

こっちでは寝ている人がいて、向こうではすごく面白いと思っている人がいて、ここではつまらないと思っている人がいてと、観客ひとりひとりはバラバラでも、これら全体から総合人格みたいなものが醸しだされて、それが伝わっていくんでしょうね。だから、みんなが真剣に見ている舞台は相乗効果でよくなるんでしょうね。(p.42)

もしお客さんが全員寝ていたとしても、役者が終わりまで演じることは可能ですけど、おそらく舞台は惨憺たるものになると思う。人の視線に支えられていないと感じたときに、役者の内側から出てくるものが変わってきてしまう。(同前)

 横山旬『午後9時15分の演劇論』にも、「制御不能」ともいうべきほど、演出や脚本の「意図」を超えて、演者や観客の相互作用によって舞台が生きもののように意思を持って動き出してしまうさまが描かれる。

横山旬『午後9時15分の演劇論』2巻、p,17、KADOKAWA

 ということは、である。

 この対談に何かあらかじめ一貫したものを読み取ろうとしなくてもいいのだと思った。

 上西も「おわりに」で、

わたしたちが見ることによって、あるいは聞くことによって、ある人の発した言葉が生きた力を発揮しはじめるという関係性にも注目したい。永井さんは、舞台を真剣に見る観客の目が、演者や演出家に最後の気づきをもたらすとも語っている。(p.219)

としてこの対談を総括しているのは、上西もこの立場を共有し、いわば対談を「読む者」の中で新たな気づきや波及をもたらすことを望んでいるに違いないと思った。

 だから、ぼくはこの本・対談を何か一貫したテーマ、あらかじめ意図された何かとして読まず、上西・永井対談によって自分の中で触発されたり、気づいたり、あるいは反論したりして何かを生み出すものとして読んだ。いわば対談のオーディエンス、または鼎談者の一人のような気持ちで読んだのである。

 

生きた言葉とは

 もちろん、

わたしたちが見ることによって、あるいは聞くことによって、ある人の発した言葉が生きた力を発揮しはじめるという関係性にも注目したい。永井さんは、舞台を真剣に見る観客の目が、演者や演出家に最後の気づきをもたらすとも語っている。(p.219)

ということは無目的に行われているのではなく、「何か」のためである。なんのためなのか。

 上西は「おわりに」で、

言葉が本来の力を発揮できる社会を実現させていくためには、借りものの言葉ではなく、生きた言葉を持つことが大切だ。(p.219)

と述べ、

わたしたちの語る言葉は、書き記す言葉は、わたしたち自身にとってしっくりくる、生きた言葉だろうか。(p.219)

そう問い直していき、どのような言葉が生きた言葉として力をもつのかに注目していくことによって、「しょうがない」「どうせ」という諦念や冷笑が広がるのを押しとどめることができるのではないか。(p.220)

と書いているように、「生きた言葉」とは、単に相手にしっくりするという言葉であるにとどまらず、ある意味で発せられた側の意図を超えて、相手に受け止められ、相手が自分のものとして鋳直して使うという、民主的な作用ではなかろうか。

 言い直せば、発した相手の意図通りに言葉を理解させるのではなく、相互作用によって、受け取った側がその言葉を自分のものにして使う。もちろん、そのまま使うこともあるだろう。

 

 この点に関して、芝居で、登場人物を「キャラクター化」して固定しようとするやり方を永井が批判する。人間は人格が統合されているけども、状況や相手によって様々な人格を持つというリアリズムを忘れると一面的になるという話だ。

 

 政治の言葉をこれに置き換えてみれば、状況や相手によってそもそも発信の言葉が変わるはずだし、相手との相互作用によってまた発信者の言葉=思想も変わっていくということになる。

 「ポジショントーク」という言葉がある。

 政治家である以上、何かのポジションからトークが始まっても、これは仕方がないと思う。

 しかし、問題は、そのポジションから一歩も動かないことだろう。

 そもそも発信を開始するときに、状況と相手によってそのポジションを動かしてみる自己検証が必要だ。さらに、相手との相互作用で自分が変わったり、より大きな(普遍的な)立場での考えや言葉になったりすることが求められる。それは言葉が「生きている」ということではないか。

 政治家が「柔軟」であることを評価されるときは、単に垢抜けているとか、「〇〇党らしくない」とか、「臨機応変」だとか、そういう表面的なことではなく、相互作用を念頭において、言葉=思想が生きているかどうかということではないか。言葉が生きていれば、思想が生きているということであり、それは民意を反映させる力を持った民主主義的な力量のある政治家だとみなせる。

 

安倍晋三の言葉について

 第三章で、永井と上西は安倍元首相と菅元首相の言葉の比較をしている。安倍の強気、菅の逃げ、という簡単な規定を与えている。

 安倍の言葉には、ひょっとしたら、一定の有権者の心に響く肯定的な何かがあったのかもしれない。

鯨岡仁『安倍晋三と社会主義 アベノミクスは日本に何をもたらしたか』 - 紙屋研究所

 しかし、その側面はとりあえず今ここでは考えないとすると、上西が

言葉の貧しい菅さんとは対照的に、安倍さんは攻撃的に相手に向かっていく。…きっぱり言うことによって、自分は潔白だと印象づけようとする。…とにかく強気なんです。(p.60-61)

と述べている安倍の否定的側面からいえば、その上西の言葉からぼくが考えたことは、安倍政権のメリットを続けさせたい擁護派を鼓舞し、安倍政権を批判したい反対派を諦めさせる「生きた言葉」だったのかもしれないということだ。

 言葉が強いというだけでなく、反対派の中にある「諦め」や「弱み」を引きずり出してそこに訴求するというライブ感。

 いま統一協会問題で自民党は窮地に陥っているが、もし安倍が生きていたら、どのような言葉を繰り出すか、ジャーナリストの松竹伸幸が想像しているのは興味深かった。

安倍さんが銃弾に倒れなかったら | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

 (ただし、そこで松竹が想像した論点はほぼ克服されてしまったので、その論理を安倍が使ったかどうかはわからないが、)何よりも

開き直った上で攻勢に出られるような人は、もう自民党のなかにはいなくなった。やっぱり安倍さんというのは、頭も柔軟に働いていたし、胆力も人並み外れていた。保守勢力を統合できるような人は、しばらくあらわれないかもしれない。(松竹)

という悪い意味での「生きた言葉」を使ったのではないか、という松竹の想像が興味深いのである。まあ、もう死んでしまったので、ただの妄想でしかないが。

 

可視化について

 続いて、本書のオビにもある「問題を『見える化』する。」、すなわち「可視化する」ことについて。それは上西の重要なテーマである。そしてこの対談でも中心的に扱われている。

 與那覇潤『過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか』(PHP新書)は上西と真逆の問題意識で書かれている。

 與那覇小沢一郎の『日本改造計画』を

とにかく透明にして「目に見える」ようにしていけば、自ずと国民の審判が下されて必ず改善してゆくはずだと。そうした時代精神に基づいて書かれています。(與那覇p.34)

とまとめた上で、

もちろん、政府が恣意的に情報を隠す社会は望ましくない。(同)

とエクスキューズを入れつつ、

しかし、なんでも見える場所に引きずり出しさえすれば、本当に世の中はよくなるのでしょうか?(同)

と疑問を投げかける。高度で複雑で見えにくい文脈の上に成り立つものを否定して、わかりやすく見えるものだけで判断させることは、エビデンス至上主義・プレゼン崇拝と表裏一体であり、それが単純でヤバいポピュリズムの土壌になっていないかと警告を発するのである。その中でSEALDsも「見た目優先」の運動として一緒くたに否定されている。

 可視化を唱え、SEALDsの言葉に「新しさ」をみた上西(・永井)とは真逆に見える。

 

 與那覇のいうことと、上西(・永井)のいうことは矛盾しているだろうか?

 あるいは、上西のいうことについて、與那覇の言説は何か警告になっているのだろうか?

 

 與那覇は「過剰可視化社会」の処方箋をいくつか示すが、そのうちの一つは不可視な身体感覚を失わないようにすることだった。與那覇の結論は

視覚以外の感覚を誰もが取り戻そう(p.218

ということである。

 もう少し実践的に言い換えるとどうなるか。與那覇の対談者の千葉雅也の言葉だが、以下の言葉が一例としてわかりやすいだろう。

逆にいえば僕は、トラブルは膝を突き合わせて話せば大部分は解決される、そこは楽観していいと思っています。生身の身体がもつ迫力で、互いに折れざるを得なくなるから、ある種の保守的な発想にはなるけれど、そのように身体を尊重し合うことが社会を維持するためには欠かせないと思います。/オンライン上だけでは、これまで人類が行ってきた議論や折衝は成り立ちません。身体を媒介せずに、言語とイメージだけですべてを処理できるとする考え方は傲慢なんです。物事を可視化するだけでは人間社会は運営できなくて、「不透明なもの」としての身体がどこかで必要になる。(與那覇p.153-154)

 うーん…。與那覇たちが言っていることって、次の二つの意味じゃないだろうか。

(1)自分の身の回りで起きたことは、言葉だけで伝えるよりも映像を交えたほうが、言葉と映像よりも、音声それも肉声、匂い、まなざし、肌触り、などで伝えた方が、より伝わる…というくらいのことではないのか?

 與那覇と対談している臨床心理士の東畑開人との対談で、安心できるローカルな関係の構築が話題になっているが、その関係は言葉だけで抜き出して普遍的に作り出すことはできない唯一無二のものである。それはそこに関わった人たちの身体性に規定されているからである。

 政治家が選挙運動で有権者に10回お願いをしろ、というのも、こうした身体性に関わっているんじゃないのか。

髙井章博『“イヤな”議員になる/育てる!』 - 紙屋研究所

 つまりこうした身体を媒介にした不可視なものというのは、「自分のまわり」で主に問題になるということだ。

 

(2)公共圏であっても身体を媒介にした不可視なものはある。例えば教育の効果などはそういうものだろう。

 教育でもエビデンスや可視化の波が押し寄せているが、それは教育という営為の本質を失わせかねないのではないか、ということを藤森毅の論文の感想で書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 もちろん、教育のような「政策の一分野」に限らない。

 例えば経済というような政治の中心部分にあるものだって、「可視化されたエビデンス」のようなもの以外の「身体感覚」、あるいは「実感」は重要である。*1

 「アベノミクスで日本経済はうまくいった」ということを、何かの数字や「証拠」で論争することはある。しかし、やはり「そんな実感がないんですけど…」という身体感覚が裏切ること、あるいは納得を許さないことは往々にしてあることだ。

 

 そのようなことを踏まえた上で、もう一度問いに立ち戻る。

 上西のいう可視化と與那覇のいう「過剰可視化社会」論は矛盾するのか?

 SEALDsの運動をどう評価するかが反対のように見えるが、どちらが本当なのか?

 前者については、ごく単純に言えば「不可視な身体感覚が重要な分野がある」というわきまえをしておけばよく、可視化は今後も一層進められるべきだろう、ということでしかない。身近でない、公共圏で争われるべきものは、やはり「言葉」である。そうである以上は、可視化は今後も進められるし、その可視化を進めるための道具として「言葉」の力を獲得していくことにぼくらは精進することがベストなのである。

 その努力に水をさすようにして「過剰可視化」批判にそれこそ「過剰」な意味を持たせてしまおうとするなら、それはただの体制擁護でしかないだろう。

 SEALDsへの評価は、ぼく自身に届いているところの「言葉」としてそれほど大きな「新しさ」があったとは思えない。中西が言うように「借りものではない自分たちの言葉」で語ったという点で、個の尊重という思想を表現してきた一定の評価はするんだけども。

 SEALDsへの大きな評価は、ひょっとしたら、デモの現場にいた人が、それこそ身体感覚で、つまりデモの雰囲気、発される言葉の熱量、トーンなど全体を感じ取って得た「新しさ」という評価だったのではなかろうか。「デモというインスタレーション」とでも言おうか。

 

モリカケサクラを「小さなこと」というAさん

 この夏ぼくは帰省して、非常に親しい関係にあるAさん、Bさん、Cさんと話す機会があった。年齢がバラバラで、いずれもぼく以外は左翼ではなく、どちらかと言えば保守的な考えの人たちである。ぼくを含めて四人が一堂に会した。

 Bさん、Cさんは安倍の政治は気に入らなかったと言っていた。ところがAさんはそれに猛然と反論した。「安倍政権の何が悪かったのか言ってみろよ」と。

 Bさんは気圧されたような感じだったが、「ほか、桜を見る会とか、デタラメばっかりだったじゃん」と一言言った。

 Aさんは「森友問題とか加計問題とか桜を見る会とかそんなものはどうでもいい、小さなことなんだよ」と憤っていた。

 ぼくはその議論の間、ずっと黙っていた。何かを言おうとも思ったのだが、様子を見ている間に話題が別に移っていってしまったのである。

 Aさんは、ふだんあまり政治の話をしない人なのだが、そんなふうに思っていたのかと感じた。Cさんと二人きりになった時、「Aさんはまあ金融関係の仕事だから、アベノミクスさまさまなんじゃないのか?」と語っていた。

 Aさんは、ぼくが上西とともに「ご飯論法」というワードで流行語大賞をもらっていたのをもちろん知っている。しかし、それ自身を「小さなこと」「どうでもいいこと」だと思っていたのだろう。そういう人が世の中にたくさんいるのは知っていたし、体験したりしていたが、親しいAさんもそうだったのかとなんとなくショックであった。(まあ、そのAさんでさえ、「統一協会の癒着、あれは本当に許せない」と憤っていたのだから、統一協会問題がいかに自民党政治にとって深刻な危機であるかはそこでもうかがい知れる。)

 そういう体験をしてしまうと、何か深いところで挫折や諦念が不意に襲ってくる。

 言葉の力を信じるようなことは無駄ではないのか、と。

 本書で上西が

そう問い直していき、どのような言葉が生きた言葉として力をもつのかに注目していくことによって、「しょうがない」「どうせ」という諦念や冷笑が広がるのを押しとどめることができるのではないか。(p.220)

と述べているように、「しょうがない」「どうせ」という諦念や冷笑とたたかうことこそが、本書の隠れたテーマでもある。

 そもそもぼくはAさんと対話してこなかった。「言葉」そのものを発していないのである。

 そして、Aさんをめぐる身体感覚について大して理解もしてない。

 だから単純にぼくはAさんと、Bさん、Cさんたちを含めて、そのとき対話をすればよかったのである。

 そして、ひょっとしたら、ぼくがAさんから何か別の反作用をもらえたかもしれないのである。そういう相互作用の言葉の力をぼく自身が信じず、実践しなかった結果の「ショック」ではないのか、と思っている。

 

いくつかの共感または気づきについて

 あとは本書の対談で感じた小さなことをいくつか。

 一つ目は「交渉は大事です」という言葉。

 上西は、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』からのセリフの引用として「声をあげよう」ではなく「交渉は大事です」といったことに着目してこう述べている。

よく「声をあげよう」と言われるじゃないですか。でも、「声をあげよう」と言われると、いまのわたしたちの状況では、どうしても「声をあげたら、潰される」という言葉とセットで連想されてしまう。…でも「交渉は大事です」と言われたら、「大事ですね」と素直に思えますよね。(p.155)

 これはぼくもそう思う。

 「声をあげよう」を否定する気もないし、これからもぼくは使うとは思うが、「声をあげよう」は「誰も声をあげない静寂の中で一人で異議を唱える」というイメージがあり、「勇気」とセットになっている。ハードルが高いのである。

 しかし「交渉は大事です」というのは、まわりが静寂であるかどうかというイメージが消えて、自分にとってどうしても必要な条件を得るために、相手に声をかけて駆け引きを始めるというイメージに変わっている。「相手に声をかける」という感じになり、しかも「異議」ではなく「小さくてもいいので妥協を引き出す」という具合になっていて、ハードルが下がっているのである。

 上西が次のように述べているのは当を得ている。

潰されるように見える未来と、呪いの言葉に従って嫌々ながら我慢しつづける姿のような両極端しかないイメージがある。でも、そのあいだに、交渉をするという選択肢はあるわけです。小さな交渉をして、大きなところはちょっと妥協するとか、もうちょっとがんばって交渉してみるとか……そういったイメージができると、リスクを考慮に入れたうえで、もっとできることが他にあるという発想になってくると思うんですよね。(p.156-157)

 二つ目は、選挙に行かない人を「無関心」と呼ぶのは危ういのではないか、と上西が述べていることに関連して。

 よく「選挙に行きましょう」キャンペーンをしている人や団体がいるんだけど、あれは一体なんなんだろうと思う。選挙管理委員会ならともかく、左派やリベラル、労組でさえも、そういうキャンペーンをやっていることがあるのだけども、ぼくはずっと疑問に感じている。

 例えば「最低賃金を時給1500円のする候補を当選させるために選挙に行きましょう」というのなら、話はわかる。しかし抽象的に「選挙に行きましょう」というのは一体なんなのか。無意味、場合によっては有害ではないのかと思う。

 第一に、ある人がその呼びかけに応じて選挙に行って、外国人を排斥しろという候補に入れるつもりであるなら、それでも「選挙に行こう」という呼びかけは正しいのだろうか。

 第二に、「選挙に行かない無関心よりは、選挙に行って投票率を上げるようが民主主義にとっては前進だ」という考えが根底にあるのではないか。だがそれはおかしい。いろんな状況を考えて「選挙に行かない」となっている場合もあるだろう。もちろん、全くの無関心という人がいないとは思わない。しかし、そこでやるべきことは「選挙に行け」と抽象的に呼びかけることではなく、「最低賃金を1500円に上げるとこんなにいいことがあるよ」という具体的な訴えをすることのはずである。そのような「生きた言葉」になって初めて相互作用が始まるのだ。

 三つ目は、MeTooについて。

 永井はこの言葉を高く評価する。

MeTooと言ったときに、はじめて主体的になる言葉がそこに出てきますよね。「〇〇に反対」という言い方では見えなかったものが、MeTooと言ったとたんに見えるようになった。(p.190)

 これはシンプルに、言葉のチョイスによって、主体性を表せるようになるんだという気づきがあった。

 

 

 以上、なんだかとりとめもなく書いた。

 最初に述べたように、それはこの本の対談がそうした結論を持たない相互作用によって生み出されたものであったから、ぼくもその作法にならって気づき・共感・イメージの連鎖という相互作用をやってみたのである。

 

*1:丸山真男は「実感信仰」も「理論信仰」もその両端の意義や限界を指摘したが。