藤森毅「少人数学級の根拠の在り処」

 福岡市の高島宗一郎市長が、11月末の時点で福岡市をGoToトラベル事業から対象除外すべきかどうかを問われて、その必要はないと答えた。その後そのことを議会で問われ、次のように答弁している(2020年12月10日)。

11月末時点において他都市で第3波と言われます感染者数の急増が見られる中、福岡では大きな増加は見られず、特に重要となる重症者の病床稼働率も低い水準で推移しておりました。こうした感染者数の推移と宿泊者数の動向から考えると福岡市においてはGoToトラベルと感染者数に相関関係は見られなかったものと考えます。

GoToトラベルと感染者数の関係について議論がなされている中、福岡市においては第三次産業が9割を占めており、市民の生活にも大きな影響を与えることから、エビデンスに基づく冷静な分析が必要であり、感染者数の推移と宿泊者の動向についてデータに基づく事実関係をお伝えしたものであります。

 「エビデンス」。

 ここで髙島市長が言う「エビデンス」とは、どうも「GoToトラベルと感染者数に相関関係は見られない」というデータのようだが、確かに福岡市では、11月末の時点では、両者の間に「相関関係」(一方が増加すると、他方が増加または減少する、二つの変量の関係)はないと言ってもいい。

 だけど、感染者数に影響を与える様々な因子があるのだから、それらの影響を取り除いてみないと、「エビデンスに基づく冷静な分析」にはならないはずである。

 まあ、でも髙島市長のその認識の当否をここで今問題にする気はない。ひょっとしたら、もっと豊富な「エビデンス」を他の場所であげていたり、あるいはぼくの読み違いだったりするかもしれないし。

 

 とにかく「エビデンス」が大流行りだということだ。

 「少人数学級をやらない」根拠としてこの「エビデンス」は盛んに使われた。財務省がまさにそうである。

 一見中立をうたう新聞社でも、財務省の主張を「一理ある」ものとして対等に扱うことで、事実上財務省エビデンス論に肩入れしてきた。例えば「読売」の10月31日づけ社説は「国や教育委員会は感染対策と学習効果を両立できる環境の整備に取り組んでほしい」と両論を並べ、実際には「エビデンス」を要求してきた。

 

 共産党の理論機関誌「前衛」2021年1月号で、藤森毅が「少人数学級の根拠の在り処」と題して「財務省の『エビデンス論』を批判する」というサブタイトルの論文を載せている。 

 

前衛 2021年 01 月号 [雑誌]

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制約や限界を踏まえれば役立つが

 “少人数学級の教育効果は不明であるから少人数学級に予算を使うべきではない”という財務省(や一部の論者)から出ている意見は、医学の「根拠にもとづく医療(EBM)」に淵源がある。藤森は、「筆者(藤森)はエビデンス論一般を否定するものではありません」と冒頭に断り書きをつけているが、この手法の特性、そこからくる制約や限界を踏まえた上で用いるのであれば有効な手法となる。

 計量経済学から教育政策の効果を測ろうとする経済学者ヘックマンの考えを次のように紹介する。

ヘックマンは、従来の就学以降の貧困対策(学校の教員増、犯罪者更生プログラム等々)に対立させる形で、就学前の幼児教育のほうが経済効果が高いことを強調します。これは「限りある予算のもと、他の分野の貧困対策を減らして、就学前の幼児教育に充てたほうが良い」という“選択と集中”の論理ともなりえます。というのは、計量経済学は、人々の生活と権利にかかわる政策を抽象し、いくら投資して、いくらリターンがあるかという経済指標に還元し、よりリターンの多い方にシフトしようという投資の論理という側面を持つからです。 (p.88、強調は引用者、以下同じ)

 藤森は、就学前教育が貧困対策にとって意義があるということはその通りだし、そこへの投資をしぶる為政者を説得するためにこの理論が使われるのは「意味がある」としている。

 しかし、ここでは初めから「予算は限りがあるもの」だとされていて、その制約内でどう優先順位をつけるのかという話に過ぎない。その制約自体を問い直すことは許されていないのだ。

 また、例えば貧困層の生活支援のためのお金を配ることは、その人たちが「尊厳ある生活」を営むためには必要なものだが、それが他の施策と比較して高い経済効果を生まない可能性はある。ヘックマンの論理に従えば、「経済効果が低いのだからそこに投資すべきでない」となるが、経済効果が低くてもその人の「尊厳ある生活」を保障するためには投資が必要になることを藤森は主張する。

しかし政策で大事なことは、すべての個人を、年齢・性別・経済的な地位その他にかかわりなく尊厳と基本的人権(とくに社会権)をもつ存在として捉えることです。そこには投資の論理で割り切ってはならないものがあります。政策は基本的人権の保障としてあるという見地が欠落すれば、「なぜ貧困対策の予算がこんなに少ないのか」「そもそもなぜ貧困が広がっているのか」という根本的な問い——資本主義の矛盾と改革についての問い——がでてきません。(p.89)

 

 つまり、エビデンス論は、ある制約や限界をつけて用いるなら役に立つが、その制約や限界をわきまえずに使うと間違うことになる、と藤森は警告するのである。その一つとして、経済効果だけで政策を考えてはいけないということがある。

 

教育は未だ数値化できない部分が大きい

 藤森が次に主張するのは、教育という営為はそもそも効果を未だ数値化できない部分が大きいという問題があるのではないかという点である。

ランダム化比較試験は結局のところ、ある政策の影響という「複雑な現実」=「現実におきていること」を、数値という抽象に落とし込んでいく作業です。問題は、どんなモノサシを発見・考案して、現実を測定するかです。このモノサシの設定が「複雑な現実」の重要な部分を切り取れていればいいのですが、そうでない場合、他の影響の排除をいくら巧みにおこなっても、現実の重要な部分を捉えたことにはなりません。このモノサシの設定に、「エビデンス政策」の根本的な制約あるいは陥穽があります。(p.90)

 

 「学力なら比較可能だろ」という意見についても次のように批判する。

  比較的計測しやすいといわれる子どもの学力でも容易ではありません。

 たとえばA圏では全国学力テストの平均点をあげるための直前の一定期間子どもたちをドリル漬けにしています。そうすると二、三点、テストの点があがります。逆にB県ではそうしたテスト対策をやらないとします。少なくとも数年前までそういう県はありました。「出された問題に短い時間で正しい答えをだす子どもたちでなく、話し合いながら問題をつくれる子どもたちを育てるのがわが県の誇り。そのほうが子どもたちは勉強好きになり、今は点数が他県より低くても将来伸びしろがある」という考え方が浸透していたのです。

 全国学力テストの点数をモノサシにすれば、A県の学力が上でB県の学力が下になります。学習の時どのように話し合っているのか、間違ったり遠回りして自分らしく学ぶ過程を楽しんでいるのか、そうしたことは捨象されます。(p.90)

 

 藤森はユネスコ学習権宣言が述べるような社会を動かす主体となるものが「学習」=学力ではないのかと提起する。

「読み、書く権利であり、質問し、分析する権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、教育の手立てをえる権利であり、個人および集団の力量を発揮させる権利である」(ユネスコ学習権宣言)という学習の力量をどうやって測れるのか、まだまだ探求の途上だと思います。(p.90)

 

 そして、教育は学力だけが目的ではない。学級規模は学力向上だけを基準にしていいわけではないのだ。その点を藤森は次のように述べる。

 ましてや、教育の目的は子どもは一人ひとりの「人格の完成」=子どもの人間的成長全体です。それは、認知能力だけでなく、自分への信頼、他者への信頼、やさしさや厳しさ、労働、自主的な判断能力、人権感覚、芸術、スポーツなどきわめて多様かつ個性的な世界です。さらに、教育の影響はそこで勉強したことをすべて忘れてなお、その人の中に形成されるという長期的なものという面もあります。

 そうした「複雑な現実」を数値化できる一つあるいは複数のモノサシというものがあるでしょうか。少なくとも現時点では存在しているとは思えません。そして、数値化自体がそもそも可能かという問題が横たわっています。

 教育についての計量的調査は、相当の困難と制約を背負っていると言わなければなりません。(p.90)

 

数値のエビデンスがないことは客観的な効果がないこととイコールではない

 また、藤森は、

  ここで間違えてはいけないことは、数値のエビデンスが得られないことと、現実に効果がないことは、イコールではないことです。(p.92)

 という点にも注意を向ける。

 エビデンスの計量手法は、人間の感覚の代わりに温度や湿度や空気濃度などを数値で測るセンサーに似ています。ただし、現在の教育エビデンスのセンサーはすでにみてきたように、あまりに未完成で感度不足です。それだけに、そのセンサーがうまく反応しないからといって、その現象が起きていないとは言えないのです。

 現実にどんな効果が生じているかは、客観的に存在している現実です。これに対し、エビデンスのセンサーは、その現実をなんとか数値の形で映し出そうとする一つの抽象です。

 学問に携わるものは、“灰色の理論”が“緑なす現実”の合理的な抽象となることを望みます。そして、その望み通りになるかどうかは、ひとえに“灰色の理論”のでき次第なのです。教育効果の計量化という理論枠組みは、まだまだこれからという段階ではないでしょうか。(p.92)

  藤森の論文は、少人数学級について現時点で認められている「効果」にはどういうものがあるかを紹介し、さらに、総合性を持っているセンサーとして現時点で役に立つのは教師の意見、つまりヒューマンセンサーではないのかという問題を提起する。その部分はぜひ藤森論文に直接あたって確かめてほしい。

 

 「エビデンスがないからお金は出せない」というのは、行政が最近よく言う切り捨ての口実である。少人数学級もそのような切り捨てに遭ってきた。藤森はこのようなやり方を「財務省のブラック・エビデンス論」として2点に渡って批判している(これも詳しくは読んで欲しい)。

 行政のほうも、そう言っておけば防御したような気になっていると思うが、全然そんなことはない。限界と制約をわきまえなければ、役に立たない議論だ。

 行政の中には、時々どこで合意されたのかわからないような方法論が持ち込まれることがある。PDCAとかKPIとかもそうである。そういうものが不用意に持ち込まれ、国民の要求を切り捨てる方便に使われることがしばしばある。