二つの『資本論』の訳本を読んでときどき感じる当惑について

 新日本出版社の『新版 資本論』を読んでいてわからない箇所が出てくる。

 

 

 例えば、第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の次の部分である。

 買うために売ることの反復または更新は、この過程そのものと同じく、この過程の外にある究極目的、消費に、すなわち特定の諸欲求の充足に、限度と目標とを見いだす。これに反して、販売のための購買では、始まりも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、そしてすでにこのことによって、その運動は無限である。確かに、GがG+ΔGになり、一〇〇ポンドが一〇〇ポンドプラス一〇ポンドにはなっている。しかし、単に質的に考察すれば、一一〇ポンドは一〇〇ポンドと同じもの、すなわち貨幣である。また量的に考察しても、一一〇ポンドは、一〇〇ポンドと同様、ある限定された価値額である。もし一一〇ポンドが貨幣として支出されるとすれば、それは自分の役割を捨てることになるであろう。それは資本であることを止めるであろう。もし流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に石化して、最後の審判の日〔世界の末日〕まで蓄え続けられてもびた一文も増えはしない。つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は、一一〇ポンドの場合も一〇〇ポンドの場合と同じである。したがって両者はともに、大きさの増大によって富そのものに近づくという同じ使命をもつからである。(p.263-264)

 これは、商品流通W(商品・穀物)-G(貨幣)-W(商品・衣服)と、資本の運動G(100ポンドの貨幣)-W(綿花)-G(110ポンドの貨幣)の違いを考察している部分だ。

 冒頭から少し噛み砕いてみよう。

 「買うために売ることの反復または更新」というのはW-G-Wという商品流通のことである。最終的に衣服を得たいために、自分の持っている穀物を売ってお金を得て、その衣服を買うのである。衣服を買うために、穀物を売るのだ。それは服を着て寒さをしのぎたいという自分の欲求を満たすために行う。そして欲求が満たされればそれで終わりである。

 これと対比して書かれている「販売のための購買」とは何か。これはG-W-Gである。最後に110ポンドを得るために綿花をどこからから100ポンドで仕入れて買い、それを110ポンドで売るのである。110ポンドで売るために100ポンドの綿花を買うのである。

 こちらには、「欲求充足」という明確な目標がないので、終わりがない。100ポンドが110ポンドになったからといって終わりかどうかわからないのである。

 なるほど確かに「初めから10ポンド増えた」という変化はある。

 しかし、質的に見えれば、同じ「お金」としてまた戻ってきており、戻ってきた110ポンドは初めからそこに110ポンドとして存在していたような顔をしてそこに居るのである。

 じゃあ、量的に見ればどうなのかということだけど、100ポンドも110ポンドも「ある一定の金額のお金」という以上のものではない。

 お金=貨幣に明確な使用価値がないので、「終わり」感がないのである。ここまではいい。

 しかし、学習会で読んでいて、その次に出てくる、上記の朱書きした部分が、参加者みんな「わからない」と言った。ぼくもわからなかった。なぜ110ポンドを再投資すると資本にならなくなってしまうのか? という疑問が湧いたからである。わからないまま、学習会は終わった。

 

 この部分を飛ばして、すぐ次の部分はどうか。

 ここは、蓄蔵貨幣、つまりお金をもしため込んで貯金箱に入れてしまえば、そのお金は死んでしまうから、自然に増えることはもうない。でも、100ポンドにしても110ポンドにしても、それを資本として投じれば増える。…という意味だなとわかる。

 

 学習会が終わってから、家に帰り筑摩書房今村仁司三島憲一・鈴木直『マルクス・コレクション資本論 第一巻 上』)の訳を見てみた。

 

 

 買うために売る行為を反復あるいは更新することは、この過程自体と同じく、その過程の外にある最終目的を尺度とし、目標としている。その最終目的とはすなわち消費であり特定の欲求の充足である。それに対して売るために買う行為では、始まりも終わりも同じ貨幣、すなわち交換価値である。そのことからしてすでにこの運動に終わりはない。確かにGはG+ΔGとなり、一〇〇ポンドは一〇〇ポンド+一〇になったかもしれない。しかし質的にみれば一一〇ポンドであろうが一〇〇ポンドであろうが、かぎられた金額であることにかわりはない。一一〇ポンドは、いったん貨幣として支出されてしまえばそこでお役ご免となる。それは資本であることをやめる。流通からはずれてしまえばそれは退蔵貨幣と化し、この世の終わりまでため込んでみてもびた一文増えることはない。しかしいったん価値の増殖をめざすとなれば、元手が一〇〇ポンドであろうが一一〇ポンドであろうが、増殖への欲求はまったく変わらない。なぜなら両方とも交換価値のかぎられた表現にすぎず、量を増やすことによって富そのものに近づくという使命をおびているからである。(p.224-225)

 

 こちらを読むとクリアにわかった。

 つまりこの朱書きの部分は、110ポンドが再投資されるのではなく、退蔵貨幣(蓄蔵貨幣)になることを意味しているのである。

 110ポンド貨幣の「支出」とは、流通からはずれて貯金箱にしまわれてしまうことなのだ。

 新日本版と筑摩版も似たようなものではないかと思うかもしれないが、新日本版の場合は「もし一一〇ポンドが貨幣として支出されるとすれば、それは自分の役割を捨てることになるであろう」という一文が、資本として投下される話のように読めてしまうのである。

 これに対して、筑摩版は、そのあとの退蔵貨幣の話とセットになっているのだということが理解しやすい訳になっている。

 もう一度その部分を抜き出してみる。

また量的に考察しても、一一〇ポンドは、一〇〇ポンドと同様、ある限定された価値額である。もし一一〇ポンドが貨幣として支出されるとすれば、それは自分の役割を捨てることになるであろう。それは資本であることを止めるであろう。もし流通から引きあげられれば、それは蓄蔵貨幣に石化して、最後の審判の日〔世界の末日〕まで蓄え続けられてもびた一文も増えはしない。(新日本版)

しかし質的にみれば一一〇ポンドであろうが一〇〇ポンドであろうが、かぎられた金額であることにかわりはない。一一〇ポンドは、いったん貨幣として支出されてしまえばそこでお役ご免となる。それは資本であることをやめる。流通からはずれてしまえばそれは退蔵貨幣と化し、この世の終わりまでため込んでみてもびた一文増えることはない。(筑摩版)

 

 思うに「もし」(後ろの方の「もし」)という言葉が入ることで、区切り感・改まり感が強くなりすぎるのではないか。筑摩版は、「もし」を入れないので、「流通からはずれてしまえば」というのが前の文章を指しているかもしれないというふうに頭が向くのである。

 

 ぼくはこうした経験をこの2つの訳本でたびたび経験している。

 個々の訳語は似たようなものなのに、文章にした調子で、理解が全く変わるのである。

 当惑した箇所に出会うたびに二つの訳本を比べ、このような不思議な気持ちになるのだ。


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