『資本論』にでてくるabstraction

 若い人たちマルクス資本論』の学習会をやっている。

 その話は詳しくはまた別の機会にすることもあるだろうけど、『資本論』の本文を頭から読み合わせしていく方式なので、文章の細かい点にどうしても目がいくことになる。

 

 その学習会が使っているのは日本共産党中央委員会社会科学研究所が監修している新日本出版社の『新版 資本論』である。

 

 

 最近では次の箇所が気になった。

 第1部第4章の「貨幣の資本への転化」のところで、“労働力の価値はその労働者の衣食住の費用、つまりその労働者にとって必要な生活手段の価値の総量で決まるんだよ”という話をしている箇所である。

 そこに、マルクスはロッシというイタリアの経済学者の話を持ち出す。

 あなたは読んでわかるだろうか。

 

 ことがらの本性から出てくるこのような労働力の価値規定を粗野だとして、たとえばロッシとともに次のように嘆くのは、きわめて安っぽい感傷である。すなわち——「労働能力を、生産過程中にある労働者の維持諸手段を捨象して把握することは、幻想を把握するに等しい。労働と言う人、労働能力と言う人は、同時に労働者および生活維持諸手段のことを、労働者および労賃のことを言っているのである」と。労働能力と言う人が労働のことを言っているのではないのは、ちょうど、消化能力と言う人が消化のことを言っているのでないのと同じである。周知のように、消化過程にとっては、丈夫な胃袋よりも多くのものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活諸手段を捨象するわけではない。むしろ、その生活諸手段の価値は労働能力価値で表現されているのである。労働能力が売れないならば、それは労働者にとってなんの役にも立たないのであり、彼は、自分の労働能力がその生産のために一定分量の生活維持諸手段を必要としたこと、そして労働能力の再生産のために絶えず繰り返し新たにそれらを必要とすることを、むしろ冷酷な自然必然事として感じるのである。そのとき労働者は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ことを発見する。(『新版 資本論2』p.302)

 そもそも改行がなくて読みづらいのだが、それはマルクスのせいである。それはまあ措いとこう。

 一番わかりにくいのは、ロッシがどういう主張をしているのか、そして、マルクスはそれをけなしているのか褒めているのかがはっきり読み取れないことである。

 この引用した最初の「」の冒頭をじっと眺める。

労働能力を、生産過程中にある労働者の維持諸手段を捨象して把握することは、幻想を把握するに等しい。

 これはロッシの主張である。

 このロッシの主張は、「労働する能力、つまり労働力のことなんだけどね。その『労働する能力』をもっている労働者が生きていくために必要な衣食住の費用があるでしょ。その衣食住の費用のことを全然考えないで『労働する能力』ってやつを理解しようとしたら、そいつはぬけがらをつかまされることになる。一番大事なところ抜かして、実体のない幽霊みたいなものをつかまえちまうのと同じことになるんだぜ?」って言っているように思えるよね?

 先ほどぼくは“労働力の価値はその労働者の衣食住の費用、つまりその労働者にとって必要な生活手段の価値の総量で決まるんだよ”というマルクスの命題を述べた。そうすると、このロッシの主張はマルクスの命題と同じことを言っているように読めないだろうか?

 

 これはおかしな話で、マルクスはロッシを批判するために持ち出してるはずである。なぜロッシはマルクスと同じ主張をしているのだろうか。

 それともマルクス一流の皮肉で自分と同じ見解を述べるロッシが世の中で理解されていないので、憐れんでいるのであろうか。混乱してしまう。

 

 岩波書店向坂逸郎訳を読んでみよう。

生産過程のあいだに、労働の生存手段から抽象しながら労働能力を解するなどということは、幻影を解するようなものである。

 筑摩書房今村仁司三島憲一・鈴木直の訳はどうか。

生産過程中の労働の維持手段から労働能力を抽出して、労働能力をとらえたと思っているのは、幻影をとらえたと思っているのと同じである。(『資本論 第一巻 上』筑摩書房、p.257)

 

 

 マルクスエンゲルス全集刊行委員会訳(大内兵衛・細川嘉六監訳。事実上、岡崎次郎の訳)である大月書店版はこのようになっている。

生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力(puissance de travail)を把握することは、一つの妄想(être de raison)を把握することである。(『資本論 第1巻 第1分冊』、大月書店p.226

 

 結論から言えば、筑摩訳がいちばんわかりやすい

 そこではロッシの主張はこうなるからだ。

「労働する能力、つまり労働力のことなんだけどね。その『労働する能力』をもっている労働者が生きていくために必要な衣食住の費用があるでしょ。その衣食住の費用の問題をわざわざ取り出して『労働する能力』ってやつを理解しようとしたら、そいつはぬけがらをつかまされることになる。一番大事なところ抜かして、実体のない幽霊みたいなものをつかまえちまうのと同じことになるんだぜ?」

 新日本版と正反対の理解になってしまうが、これならマルクスがロッシを批判した意味がわかる。ポイントは筑摩訳では「抽出」を使っている点である。

 お分かりだろうか。

 「捨象」「抽出」「抽象」という3つの訳があるのだ。

 しかしこの3者はだいぶ違う意味合いがある。

 「捨象」は必要でないものを捨て去っていることである。

 「抽出」は必要なものを取り出していることである。

 「抽象」は、必要でないものを捨てて、必要なものを取り出していることである。

 それでも「抽出」と「抽象」はよく似ている。しかし「捨象」は意味が違ってくる。

 つれあいに質問してみたが、つれあいは「抽象」と「捨象」は似ていると述べた。

 辞書(精選版 日本国語大辞典)には「捨象」についてこうある。

捨象 (読み)しゃしょう

物事の表象から、一つまたはいくつかの特徴を分けて取り出す抽象を行なう場合に、それ以外の特徴を捨て去ること。また、概念について抽象する場合、抽象すべき特性以外の特性を捨て去ること。抽象作用の否定的側面

 

 ぼくはドイツ語の『資本論』を持っていないし、ドイツ語の素養もない(大学でドイツ語の単位は取ったけど)。

 かわりに英語の『資本論』がある。ただぼくの持っているのは、単なる英訳であって(ネットにあったフリーのもの)、この英文が、サミュエル・ムアが訳してマルクスの『資本論』の序文にも載せられているいわゆる「英語版」と同じものなのかどうかはわからない。

 その前提で書くけども、ぼくの英文『資本論』では、

we make abstraction from the means of subsistence of the labouurers

となっている。abstractionなのだ。

 abstraction(その元になっている動詞abstract)は基本的に「抽象」「抽出」なのだが、「捨象」という意味もある。

 しかし、語源は「ラテン語abstractus(abs- 離れて + trahere 引く + -tus過去分詞語尾」(プログレッシブ英和中辞典)であり、基本的には、「〜から取り出す」「〜から抽出する」「〜を要約する」という意味であり、「全体の中から取り出す」というイメージだ。

 したがって、「捨象」の訳語をあてることは、ここでは間違いであり、「抽出」もしくは「抽象」がベストであるが、「抽象」はぼくらの日常イメージからすると「抽象絵画」みたいな「具体性を取り去ってあいまいでボヤ〜ッとする」感じになるので、やはり「抽出」がよい。

 ちなみに、青木書店から出されている『資本論辞典』では、この箇所のロッシの主張について次のように書いている。

資本論》第1巻第4章では、ロッシが、労働力の維持に必要な生活手段を度外視して労働と労働能力を云々することは幻想だと述べた文章を引用して、これは労働力の価値規定を理解しない‘非常に安価な感傷’、と酷評した(p.586)

 「辞典」でさえ、こういう理解なのである。これは学者が書いている。学者でもよくわからずに書いているのである。

 入門者が『資本論』の訳文(悪文)を「理解」できなくてもそれは入門者のせいではないのだ。

 

 

紙屋訳を考えてみた

 そのあとの箇所もわかりにくいので、新日本版をベースに、それを補足して、改行もした紙屋訳(超訳)を以下に書き記したい。

 ことがらの本性から出てくるこのような労働力の価値規定を粗雑だとして、たとえばロッシとともに次のように嘆くのは、きわめて安っぽい感傷である。

 すなわち、ロッシによればこうである。

「労働能力について、労働者の維持手段から抽出して把握することは、幻想を把握するに等しい。世の中で『労働』について語っている人、あるいは『労働能力』について語っている人は、たいていは崇高な意味での『労働能力』について語っているのではなく、実際には労働者および生活維持手段のことを、あるいは労働者および労賃のことを語っているに過ぎないのである」と。

 じゃあ、ロッシの言うような感じで「労働能力」について語ってい人が、ちゃんと「労働」のことを語っているかといえば、そうではないのは、ちょうど、「消化能力」について語っている人が実は「消化」全体のことを語ってはいないのと同じである。周知のように、消化過程にとっては、丈夫な胃袋だけじゃなくて、胃の活動を支えるいろんなものが実際には必要なのだから。

 ロッシの言うように(崇高な)「労働能力」なるものを語っている人は、労働能力の維持に必要な生活手段から抽出しているわけではない。

 しかしむしろ、その生活手段の価値こそは労働能力価値を表現しているのである。

 いくら崇高な労働能力があっても労働能力が売れないならば、それは労働者にとってなんの役にも立たないのであり、彼は、自分の労働能力がその生産のために一定分量の生活維持手段を必要としたこと、そして労働能力の再生産のために絶えず繰り返し新たにそれらを必要とすることを、むしろ冷酷な自然必然事として感じるのである。そのとき労働者は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ことを発見する。

 ロッシは、当時の「意識高い」系の人で、労働力について語るということは労働能力について語ることであり、労働能力について語るというのは、人間がいろんなことにチャレンジできるという、そういう話をしたがった人だったのだ。それなのに世の中の経済学者ときたら、賃金がどうの、衣食住がどうの、そんなことしか労働力について語っていないので、呆れていたのである。

 

 ちなみに訳文には「生活諸手段」のように「諸」がちょいちょい入ってくる。meansというように複数形の表現だし、「『生産諸力』のように、実はこれが重要なんだ」とどこかで誰かが言っていたような気がする。しかし、若い人たちとの学習会ではこの「諸」でいちいち立ち止まってしまうのである。日常的に「諸手段」などという言い回しはほとんど使わないからだ。ファシリテーターとしてぼくは「入門者はそのことは飛ばして読んでいいから」と言っている。