もうこの文章を書いたのも10年近く前か、と思いながら読み返す。
そこで「疎外」について書いている。
自分が書いたもの・描いたものが、自分から離れ、自分に対してよそよそしくなり、やがて自分に対立するようになる。
『どうにかなる日々』の琴子は、甘美だった家庭教師との性行為を言葉にしてみると
先生がまるで
得体の知れない
うす気味悪いなにかに
思えてくるので
不思議だった
という感覚を味わう。
志村は、体験を叙述・描写することによる疎外をしばしば作中で語る。いい意味でも悪い意味でも。『放浪息子』の主人公・二鳥修一もそうである。
そのことを、近作『おとなになっても』でもしばしば作中で見かける。
高校時代に好きだった同性のことを思い出し、その気持ちをどうにもできなかった自分がいた綾乃は、それを今現在の恋人(?)である朱里に「話す」ことで「あの頃の私が救われるよう」だと感じる。そしてその話している感覚自体が「不思議だ」と感じるのである。
『どうにかなる日々』の時もそうだったが、そういうエピソードを描くときの志村は、絵が「饒舌」にはならず、逆にグラフィックをそぎ落としてしまう。セリフによってこの感覚を再現させようとする。
『おとなになっても』6巻でも以下のようなシーンがある。
なぜ志村はこういうときに「絵」にしないのだろうか。
疎外を描くときの志村のもどかしさのようなものを感じる。
『放浪息子』では、修一が感じていた疎外は、小説を書くという長い行為の全体であるので、物語の終わりの方の展開全体がまさにそれなのである。とても一言・一コマでは言い表せない。
しかし、『おとなになっても』でワンシーンで描かなければならないような場合はこのようなコマの展開になってしまうのである。
ぼくは2013年の記事で
書くという行為に人生が救われる、ということは、ぼく自身の思いでもある
と書いたのだが、作家が到達するような境地は実はよくわかっていないのかもしれない、と思い直す。
ぼくは2013年の記事で西村賢太のインタビューを引いて書いたのだが、西村の小説は徹底した私小説である。彼の『焼却炉行き赤ん坊』『小銭をかぞえる』を読んだが、お金にだらしなく、自分に甘く・他人に厳しい、小心・卑小などうしようもない主人公の生き様が描かれる。
かといって「私は徹底した小悪党でございます」という客観視、あるいは平身低頭な懺悔に徹し切れているわけでもない。
「おい、てめえみたいな姦黠(かんかつ)な奴と飯食う気は、もうなくなったぞ。今だけじゃないぜ、もう金輪奈落、なくなったからな」(西村賢太『小銭をかぞえる』文藝春秋p.125)
などという言い回しは、本当に西村が私生活でしていたのかもしれないが、まるで芝居か昭和初期の小説か、落語の世界からでも抜け出てきたような外連味とユーモアがある。
本当に徹頭徹尾自分をさらけ出すなどということはできないのかもしれない。
だから裁判でも「何もかも包み隠さず明らかにしてほしい」と被害者の遺族などが語りかけるものの、加害者の弁はどこかに自己弁護が入り込んできて、失望をさせてしまうことが少なくない。
石塚真一『BLUE GIANT』で、ソロをやるというのは内臓までひっくり返してさらけ出すということだ、と一流ステージの管理人が登場人物に迫るシーンがある。
告げられた人物の目線になって大きく開いた手のひらからは、セリフが迫ってくる効果がある。
ギリギリまで自分をさらけ出したつもりになって、しかし人間なのでそこにどうしても何かが残る。それは自分をかばう気持ちであったり、言い訳だったり、誰かへの配慮だったりするだろう。
そこまでそぎ落としてみて、残ったものが「文学」的なものとして成立するのかもしれない。その境地に未だ達して切れない自分としては想像するしかないのだが。
藤澤清造の全集を出すために金がいるんだという理屈をまくしたてる主人公の身勝手なセリフが例えばこうである。
「これは何も、見てくれだけの問題じゃないんだぜ。何しろ、たださえその全集の編輯、刊行をさしてもらおうって云うのが、中卒で前科者、おまけに猥褻犯の伜である、このぼくときてるんだからなあ。全く、我ながら取るところがねえよ。本来、こんなのがひとりの作家の全集を作らしてもらう資格なんかないのかも知れないし、ヘタすりゃその本文もてんから信用してもらえねえ虞もあるけどよ、でもそれだからこそ、そこいらの学者や教諭連中の手になるものに退けをとらない、って云う程度じゃまだ足りねえ。きっとそれ以上の全集を作らなきゃ、それはやっぱり、意味がないんだよ。そうでないとこれは単なる奇特な好事家の、所詮は自己満足に過ぎない凡百の自費出版物に堕すだけで、藤澤清造の無念を晴らすと云う所期の目的を果たしたものにはならないんだからなあ。その為にも、費用はどれだけ嵩んでも全集印刷の殿堂みたいなS印刷で、この全巻を完結する孤忠をどこまでも押しまくっていかなきゃならねえのさ」(西村前掲p.101-102)
このセリフを「自己陶酔の態でまくしたて」と西村は書いている。
自己陶酔のみっともなさはわかっているが、ここにあるのはそぎ落とし、さらけ出して、さらに残った「残りのもの」のように思われる。そこに巧まざる自己憐憫、ペーソスが浮かび上がる。
ぼくがブログとして書いている記事はそのような境地からははるかに遠い。
削ぎ落とすもっと手前の地点にいる。自分をよく見せようと汲々としているのである。