森鷗外『山椒大夫・高瀬舟』、関川夏央・谷口ジロー『秋の舞姫』

 森鷗外は高校の教科書にあった『舞姫』のイメージが強かった。

 ゆえにぼくの中では森鷗外といえば「留学先で懇ろになった女性を捨てたひどい男」みたいな雑なイメージしかなかった。

 ところが、今回リモート読書会で森鴎外を扱うことになって新潮文庫の短編集『山椒大夫高瀬舟』を読んでイメージが変わった。

 

 

 特に、強い印象を受けたのは父親といっしょに診療所を営む様子を描いた「カズイスチカ」である。

 なんというか、書いてあること、思うことが現代的で、いまブログとかでこういう文章に出会えるのではないかという感覚に囚われた。…なんかあまり褒めてないな。いや、明治の人間とは思えないなということである。

 先日の記事で次のように記した。

 最近読んだ森鷗外の小説で、森と思われる主人公が日常の小さな仕事を自分の本来やるべき大きな仕事ではないと考えるのに対して、やはり医師である父が日常の仕事に真剣に向き合っている様を見て、父を尊敬し直すというくだりがある。

父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。(森鴎外カズイスチカ」/『山椒大夫高瀬舟』所収、KindleNo.364-366)

 日常の与えられた仕事に向き合うことが、実は「天下国家の仕事」に通じるものだと熊沢蕃山が言っているぜ、と森は小説で記している。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2022/01/30/042125

 このことをもう少し立ち入って見てみる。主人公は「花房」であり、父親は「翁」である。

 花房の心のありようが次のように描かれている。

花房学士は何かしたい事若くはする筈の事があって、それをせずに姑く病人を見ているという心持である。それだから、同じ病人を見ても、平凡な病だとつまらなく思う。Intessantの病症でなくては厭き足らなく思う。又偶々所謂興味ある病症を見ても、それを研究して書いて置いて、業績として公にしようとも思わなかった。勿論発見も発明も出来るならしようとは思うが、それを生活の目的だとは思わない。始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。(森鴎外山椒大夫高瀬舟新潮文庫KindleNo.340-347)

 本当は自分はこんなことがしたいんじゃない、自分がしたいことはもっと別にあるんだ、という思いが花房からは抜けないのである。そんなことを思いながら、目の前の日常の仕事に取り組んでいる。じゃあ、一体何がしたいのかと問われるとあまり明瞭な答えはないのである。

 「俺はまだ本気出してないだけ」という感情にも思えるし、「この勤め先は仮の姿であって、俺には大望があるんだ」というくすぶりのようにも見える。

 花房は、父には自分が常々抱えているような「したい事、する筈の事」=「或物」が無い、と感じていた。実際ないのである。だから日常生活に埋没するつまらない人生を送っているように思えていた。

この或物が父に無いということだけは、花房も疾くに気が付いて、初めは父がつまらない、内容の無い生活をしているように思って、それは老人だからだ、老人のつまらないのは当然だと思った。(前掲No.358-360)

 父親である「翁」の日常の仕事に対する態度はこうである。

翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以て病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を翫んでいる時もその通りである。茶を啜っている時もその通りである。(前掲KindleNo.336-339)

 花房は、それが実は「或物」や「天下国家」に通じるものではないのかと考え直すようになる。

宿場の医者たるに安んじている父のsignationの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気ながら見えて来た。そしてその時から遽に父を尊敬する念を生じた。(前掲Kindle No.366-369)

 これはどういうことだろうか。

 前にホリエモンの文章とされているものに似ている、と言ったのだが、堀江は次のように勝ている。

toyokeizai.net

フランスの哲学者アランは名言を遺している。

「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ」

そのとおりだと思う。アクションから本質が生まれる。本質はあくまでも事後的に発生するものであって、本質という抽象はそれ単独で先行的に存在するものではない。

ぼくは中学生時代、プログラミングに夢中になった。よくわからないまま手さぐりでパソコンを使っているうちに、多彩な処理システムを構築できるプログラミングの魅力にどんどんのめり込んでいった。それがやがてビジネスにつながり、ぼくはそのビジネスでさらに成功を収めるべく野心をたぎらせていった。

要するに今日にいたるぼくのキャリアは、プログラミングとの出合いがすべてだ。プログラミングに出合わなければ、それはそれでまたまったく別のキャリアを描いていただろう。

あらかじめ目指すキャリアがあって、プログラミングに足を踏み入れたわけではないのだ。まずアクションがあって、結果的にキャリアがある

 「アクションから本質が生まれる」「あらかじめ目指すキャリアがあって、プログラミングに足を踏み入れたわけではないのだ。まずアクションがあって、結果的にキャリアがある」という部分がこの「翁」の精神に当たる。

 これを解析してみると、アクション=日々の雑事や日常の仕事を全力で取り組んでいるうちに、いろんな物事に通じる普遍的なものが獲得される。もちろんその「日常の仕事」は幅があったりユニークであれば、なおいいはずだろうが、本当に些事や雑事であったとしても、その中に普遍に通じる道がある。

 一般教育とか一般教養を本気で取り組んでいると、それは専門教育に通じるものが出てくる、というのは、本当は大学教育の理念だったはずである。

 元ライフネット生命の会長だった岩瀬大輔が有名な『入社1年目の教科書』で「つまらない仕事はない」と書いていることは、これに似ている。

よく「つまらない仕事」という言い方を耳にします。僕は、世の中の仕事につまらないものなどないと断言したい。単調な仕事だとしても、面白くする方法はいくらでもあるからです。たとえば、会議の議事録で考えてみましょう。はじめのうちは、議事録の作成を頼まれると「誰でもできる(つまらない)仕事」と思うかもしれません。(岩瀬大輔『入社1年目の教科書』KindleNo.92-95、 ダイヤモンド社

 こう述べて、議事録を作成する際の目的を絞り込んで、そのために必要な議事録の体裁への改革を考えて、自分なりの付加価値をつけていく…というアクションにしている。「つまらない日常の事にも全幅の精神を傾注している」のである。

 鷗外は、この短編集に載っている別の短編「妄想(もうぞう)」でもゲーテを引いて次のように述べている。

「いかにして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能わざらん。されど行為を以てしては或は能くせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」これはGoetheの詞である。

 日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑にする反対である。自分はどうしてそう云う境地に身を置くことが出来ないだろう。

 日の要求に応じて能事畢るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るということが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈の所に自分がいるようである。(森前掲KindleNo.832-840)

 

 「したい事、する筈の事」=「或物」を果たしていないという感覚が高じて、自分の送っている人生がなんだかかりそめのように思えてしまう。芝居の「役」を演じているような気分にさえなってしまうのだ、とこの「妄想」という短編で鷗外は述べている。

自分のしている事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる。(森前掲Kindle643)

 これはとても現代的な「自分探し」であり、その「自分探し」を空虚感をもって考えてしまうのであれば、そこから逃れるには「つまらない日常の事にも全幅の精神を傾注」することしかないのである。

 関川夏央谷口ジロー『秋の舞姫』は、森鴎外を描き、この部分——「役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる」を取り上げている。「日常の事にも全幅の精神を傾注」するという大きなものと小さな日常を統一して把握できる態度を貫けず、覚悟なくエリスを捨てる羽目になった様が描かれる。

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関川・谷口『谷口ジローコレクション 秋の舞姫双葉社、p.125



 

 ところで、この関川・谷口の『秋の舞姫』を読んで、鷗外に近代人の分裂や懊悩が反映されていたことが読み取れたが、それよりもエリス(エリーゼ・バイゲルト)は「捨てられた弱い女」ではなく、「相当に強い、芯のしっかりした人」という印象を受けた。