今井むつみ『学力喪失』

 以前(というかもう10年前)、ぼくが無料塾で教えている子*1が「偶数と偶数の和は偶数である」がどうしてもわからない、それをどう教えていいかわからない、ということをブログで書いた。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 その「子」が成人して、ぼくも参加している『資本論』の学習会*2に参加するようになり、なんとまあ素晴らしいことではないかと喜んでいたわけだが、『資本論』に出てくる分数・割合・%が全くわからない。『資本論』には次のような文章が頻出する。

精紡工は、一二時間で二〇重量ポンドの糸を生産するのであるから、一時間で一2/3重量ポンドの糸を生産し、八時間では一三1/3重量ポンドの糸、すなわちまる一労働日中に紡がれる綿花の総価値に相当する部分生産物を生産する。同じやり方で、次の一時間三六分の部分生産物は二2/3重量ポンドの糸であり、したがって一二労働時間中に消耗された労働諸手段の価値を表す。(マルクス『新版 資本論 2』新日本出版社、p.383-384)

この仮定のもとでは、五〇〇人の労働者を一〇〇%の剰余価値率または一二時間労働日で使用する五〇〇ターレルの可変資本は、一日に、五〇〇ターレルまたは6×500労働時間の剰余価値を生産する。(同前p.538)

 ここでは貨幣の単位、分数、パーセント、比、時間単位を自由に行き来できる力がないと読めないことになる。それ自体は簡単な算数でしかないが、そもそも分数がわからなければ、全く読めそうにない。事実、彼はわからなかった。

 彼だけではなかった。

 四大卒の人もいたけど「わからない」である。

 1/2を%になおせる?

 割合ではわかる?

 …わからないのである。

 四大を出ていてもわからない、というのはぼくにとっては衝撃だった。

 その人は共産党事務所で働いていて、共産党は「党員と『しんぶん赤旗』読者の第28回党大会時比『3割増』…を、2028年末までに達成する」という方針を掲げているが、おそらくまともに理解していないのだ。

 

分数や割合ができない子どもたちの話が

 今井むつみ『学力喪失 認知科学による回復への道筋』をリモート読書会で読んだ。

 本書にはそのような子どもたちの現状がまずは登場する(第Ⅰ部「算数ができない、読解ができないという現状から」)。

 

 例えば割り算の理解ができていないことを示す次のような問題への誤答。

250g入りのおかしが、30%増量して売られるそうです。おかしの量は、何gになりますか。

 30%増量…! (さあ、「読者を130%に増やす」という意味がわからなかったであろう、四大や高校を出た彼らは果たして解けるのだろうか?)

 ある小学生は、次のように書いた。

(式)250×0.3=750

(答え)750g

 今井は次のように誤りに至る過程を説明する。

図1-6の誤答例では、30%というのは0.3であることはわかり、問題文にある250と0.3をかけている。「増量」が増やすことだ、ということは理解している。しかし、0.3をかけるとお菓子の量は減ってしまう。「増量」とあるから、減ってしまうのはおかしいことはわかる。だから1桁増やして計算の結果の量を10倍にしてしまったのである。(p.10)

 こうした誤答例とそこに至る思考の流れの解説が正直読み物として面白い。なるほどそう考えるんだ…!という新鮮な発見にもなるからである。

 

従来の教育方法への批判

 第Ⅰ部では、従来のやり方への批判がくり返しでてくる。

大人の側が、学ぶ内容を子どもが理解できない本質を捉えず、局所的な対処療法のみが繰り返し試みられてきたことに尽きる。(p.22)

〔大人の側にある問題の列挙として〕4   子どもの躓きの本質を理解しないまま、わかりやすく教え、その問題を何度も何度も繰り返して解く練習をさせれば子どもは理解し、知識が定着するはず、という信念をもって大人(行政、教師、保護者など)が教育を続けてきたこと。その結果、局所的な対処療法だけが考案され、試みられてきたこと。(p.23)

わからない問題を繰り返し解かせ、繰り返し跳ね返されることは、「わかること」には絶対につながらない。(p.28)

 

問題の究明を読んだ後に感じた不安

 次に第Ⅱ部は「学力困難の原因を解明する」である。

 

 「こんな営業がダメにする」というようなタイプの本をよく読むけど、じゃあ、どうすればいいのかはあまり説得力がなかったりすることがある。

 「ここがダメだよ」はすごく共感する。そうなんだよなーと激しく頷く。

 しかし、どうすればいいかはなかなか出ていない。「ここがダメだよ」を読むポルノになってしまう。 今井の本の場合は算数ができない子どもたちはここが理解できていないんだよ!」という部分がすごく面白い(第Ⅰ部)。

 しかし第Ⅱ部は果たしてここが分かったからといって、一体どういう処方をすればいいのかが不安になった。例えば今井の本書にある「数をシステムとして理解できていない」 ということを教育者側が分かったとしてそれにどんな教育を施せばいいかが問題になるだろう。 

 

記号接地と正しいスキーマの形成…は結構これまでも実践があるのでは?

 本書はその処方箋を第Ⅲ部で示す。「学ぶ力と意欲の回復への道筋」。

人間の記号接地とは、記号を外界の対象に紐づけすることだけではなく、そこから抽象的で本質的な概念に自分で到達していく過程なのである。その過程を経験することが「生きた知識」を生む。(p.232)

どうしたらこれらの概念を接地できるだろうか。まずは概念を、生活経験に紐づけることからはじめるべきである。(p.236)

 「記号接地」というキー概念を使って今井は説明する。具体的にはどのようなことか。

生活の中では、食べ物の取り分け、お菓子の配分、料理での調味料の割合など(例えば三杯酢を作るのには、酢・醤油・みりんの割合は1対1対1、濃縮ジュースを希釈して飲むときの基本は原液1に対して水4倍くらいの割合だが、濃い味にしたければ水の量を減らし、薄くしたいときはそれより多くして調節するなど)。こういう経験は、多くの子どもにとって学校で高い壁となっている分数や割合の概念を接地するための基盤をつくる。(p.236-237)

 ここで今井は磯田道史が小さい頃に自宅で古墳を作ったという例を紹介する。100mの古墳を200mにすると8倍の土が必要になることを磯田は体験し、長さと体積の関係について体感したという(p.237)。

 これは…?

 まさに、戦後の(左派系)教育学の中でいろいろ議論されてきた「経験と概念の分離」の問題ではないだろうか?

 この問題は前に以下の記事で書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 前近代では、職人などがそうであったが、概念は経験と一体に生まれてきた。しかし、近代になり、学校教育が始まると大勢の子どもたちが経験をしないままに概念を知るようになっていく。このような「概念と経験の分離」が大規模に起こるのが近代の特徴である。

 マルクスは生産的労働と教育の結合を、教育の未来として構想したが、マルクス主義的な教育学、戦後の民主主義的な教育学はその意味をずらしていき、生活体験にもとづく学力といった実践を主張するようになる。

 

 何が言いたいのかといえば、今井は本書の初めで、これまでの教育の実践ではほとんどこうしたものは行われてこなかったかのように書いているのだが、いやそんなことはないんじゃないのか、今井が紹介しているような生活の実感・遊びの実感に基づいて概念を紡ぎ出していかせるような教育実践は、教育運動や教員組合の教研集会の実践の中で無数にあるんじゃないのか、ということを強く思ったのである。

 じゃあ具体的にどんな実践があるのか指摘してみろよと言われると、いやたぶんいっぱいあるんじゃないの、というめちゃくちゃ曖昧な話なんだけど。

杖立温泉(熊本県

教える内容が多すぎる問題が解決しないと今井の処方箋は活かせない

 ただ、そうであるにしても、今井の出している処方箋の方向は正しいとぼくも思う。

 ある種の生活感覚を基にして、自然観・社会観に関するスキーマ(経験から導き出した暗黙の知識の塊)をその子どもの中に形成させていくことこそが、分数や割合のような知識を自由自在に使いこなす基礎になるように思う。

 今井は、これにゲーム要素を加味したフルプレイ・ラーニングという実践も提唱している。

記号接地が難しい抽象的な概念の接地を定着させ、身体化するところまでもっていくには、多様な形で楽しみながら概念を使う練習をすることが必須なのだ。…これまでの教育実践ではその観点が足りなかったように思う。(p.255)

 一例として時間概念によるフルプレイ・ラーニングを紹介している。

 ふだんは10進法に慣れている子どもたちは、そこに1時間=60分という60進法が入ってくると混乱してしまう。「わかっているつもり」の子どもでも、つい410分を「4時間10分」とか「4時10分」とかと混同したりしてしまうのだ。

 1時間=60分の六角形、30分の台形(六角形の半分)、20分の菱形、10分の三角形(20分と10分を合わせると30分の台形になる)のピースを使ってゲームをするのであるが、間違えていても大人は正さない。ゲームをしているうちに自分たちで気づくようにさせる。

失敗は学びにとても大事だ。これはきれいごとではない。認知心理学的にとても意味のあることなのだ。学習科学で今とてもホットな話題は「プロダクティヴ・フェイラー」という理論だ。…自分で考えて、仮説を立てたり予想をしたりする。実験などで実際に試してみて誤りだとわかる。するとその経験は通常よりも深く記憶に刻まれ、失敗しなかったときよりも高い学習効果が得られる。(p.251)

 これは前述の料理における「三杯酢」のような生活実践とともに、かなり根気のいる実践である。

 そこで一つの問題、というか、今井の主張する実践を成り立たせる前提のようなものが見えてくる。

 それは、記号接地をして正しいスキーマを子どもたちの中に育てるためには、かなり十分な時間と余裕が必要である、という問題である。

 この問題は「教えることが多すぎる問題=学習内容の精選」問題だとも言える。

特に昭和五十年代の教育課程の改訂は、学校生活における「ゆとりと充実」の実現を目指すものであった。それまでの教育課程が科学・産業・文化などの進展に対応して、教育内容の充実を図り、国際的にも高い学力水準を達成させたが、反面、学習内容の量的な増大を来し、また程度も高くなり過ぎているとの指摘を招いた。五十二・五十三年の学習指導要領の改訂は、このような状況を改善するために行われたものであり、知識の伝達に偏りがちな状況を改め、自ら考え主体的に判断し行動できる児童生徒の育成を目指して、教育内容の精選と授業時数の大幅な削減が行われた。

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318311.htm

 俗に「ゆとり教育」といわれるものである。この学習指導要領の第4回改訂(1977年)から第6回改訂まで(2000年)のうち、学習内容を精選する方向性は間違っていないように思うのだが、一体これは文部科学省としても、そして教育学としてもどう総括されているのだろうか?

 ぼくの素人考えでは、この時代の精選の度合いは、まったく生ぬるいもので、もっと徹底して精選すべきものであった。余計なことを教えすぎなのである。もちろん、今はこの時代よりもさらに多くのことを教えるようになっているのだろうから、いっそうひどい状況になっているはずである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 今井が提唱しているような記号接地や正しいスキーマの形成というものは、本当にゆとりがあってじっくりと付き合うような余裕がなければ生み出されないものだろう。

 最近中央教育審議会の答申が出た。

news.yahoo.co.jp

教える内容が減らないまま授業時間が短縮されれば教員の負担感が強まりかねず、現場には工夫が求められそうだ

 内容の精選に踏み込まないままの時間の削減は全く小手先の負担軽減でしかない。

 

 

「ざっくりとわかる」という直観を育てる

 学びはどこに導かれればいいのだろうか。

 記号接地して、正しいスキーマを形成するとは具体的にどんな状態なのか。

 ぼくは少なくとも小学生・中学生については、直観(直感)によってざっくりとした答えの見通しが持てるという身体化ができるようになることではないかと思う。つまり細かい知識ではなく、一定の(正しい)自然観・社会観がその子どもの中に備わるということだ。

 これは今井の次の記述に対応している。12/13-11/12の引き算の答えで一番近い整数を求める問題について

正解した子どものほとんどは、直観的に一瞬で解いていた。(p.205)

 これは12/13と11/12を通分するという記号操作をするのに手間取るのではなく、どちらもだいたい1だと瞬間に判断することが必要であり、それは初歩的な分数についての正しいスキーマが頭の中にあるからである。

この量的直観こそ、実は、中学・高校で数学を学習していくために不可欠な要素なのである。(p.206)

 ぼくは、実はこれこそが本書のキモではないかと思っている。これは数学に関してのみのものだが、正しいスキーマが育っていると、「だいたいこんな感じかな」というものがざっくりと得られる。

 無料塾で教えていた時、数学や算数の問題を解かせると、あり得ないような大きい/小さい答えを出してしまう子がいたが(うちの娘もそうだった)、それは、算数や数学を「記号操作の手順」としてしか理解せず、それを間違えるためにケタ違いの誤答が出てきても全く不思議に思わないのである。(本書でもそういう例が登場する)

 

 社会観においても例えば日本国憲法第54条は

衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。

と定めてあるが、例えばテストで「衆議院が解散されたときは、解散の日から何日以内に、衆議院議員選挙を行わなければならないか」と問うのは愚かしい質問ではないだろうか。そんなことはスマホで調べればいい。それよりも、内閣が不信任を突きつけられた時に、どっちが正しいか、国民に聞いてみようじゃないかといって衆議院を解散して選挙で聞いてみる、という民主主義の大雑把な仕組みを知ってもらうことこそが大事なのだと思う。

 そのような「大ざっぱな自然観・社会観」を育てることに義務教育は使われるべきだろう。

杖立温泉(熊本県

深刻な人権問題が起きているという認識を教育行政は持て

 「学校の授業がわからない」「わからないことが積み重なっていって、わからない時間がえんえんと続いていく」というのは子どもにとってもっとも深刻な問題だと思う。学校に通う子どもの人権の中核をなしているといってもいい。

 しかし、そのようなことは「子どもの権利」としては認識されていないし、子どもたち自身も、自分たちに起きている深刻な人権侵害とは決して認識されないように仕組まれている。

 SDGsのターゲットの一つ、

4.1  2030年までに、全ての子供が男女の区別なく、適切かつ効果的な学習成果をもたらす、無償かつ公正で質の高い初等教育及び中等教育を修了できるようにする。

4.6  2030年までに、全ての若者及び大多数(男女ともに)の成人が、読み書き能力及び基本的計算能力を身に付けられるようにする。

に反することをあなたたちはされているんだよ、とは誰も教えてくれないだろう。

 福岡市の小学校・中学校は、AIを用いた教育やデジタルを用いた教育に熱心なようだが、本書でそうした方向性への警告が最後になされている。あくまでそれは補助であって、肝心の記号接地や正しいスキーマの形成が多くの子どもたちの中で放置されている問題を置き去りにしている。学習内容を精選して、じっくりとした対応ができるようになることを、教育委員会がどうやって保障していくのか、そこに腐心すべきである。中央のいうことにヒラメのように従っているだけでは、多くの子どもたちが人権を侵害されたまま取り残されていく実態には全く無力でしかない。

*1:ちなみにこの「子」はその後高校に合格し、今は成人してぼくが参加してきた『資本論』学習会にもきていた(その学習会は弾圧により解散させられたのだが)。

*2:この学習会は共産党幹部の激しい弾圧により潰されてしまった。