松田舞『ひかるイン・ザ・ライト!』1

 「漫画アクション」で真っ先に読む作品の一つ。

 「歌がうまい」という中学3年生がアイドルをめざす話。

 

絵柄

 この作品に惹きつけられた第一の理由は、やっぱり絵柄。シンプルでかわいいんだよ。

 手や指がいいね。表紙もそうだけど、1巻では主人公・荻野ひかるの近所の友だち(少し上級生)で、かつ、人気アイドルグループにいた西川蘭からアイドルの世界に来ないかと誘われるシーンで示される手と、ひかるがオーディションで審査員に見せる手のカットが印象的。

 

才能をめぐる物語 自分=ぼくが重なるのか?

 第二は才能をめぐる物語だから。

 ぼくはこの物語をどういう視点で見ているのか少し不思議になる。

 先に、矛盾する要素を並べてみよう。

 ぼくはひかるを応援する立ち位置で基本的にこの作品を読んでいる。「ひかる、ガンバレ!」と。だからオーディションで受かるかどうかハラハラするし、審査の言葉をドキドキしながら「聞いて」いる。

 だけど、ひかるは全く自分とは別の存在ではない。ひかるのドキドキは自分=ぼくのことであるかのようだ。

 変だな、と思う。ひかるの家では、祖父がやっている銭湯でひかるは掃除の時に美しい歌声を響かせ、それは小さい頃から蘭をはじめ近所の人たちを魅了している。おそらく相当な才能であろうことは、オーディションの様子を見てもわかる。だけどぼくにそんな歌の才能は微塵もない。だから、いわば「天才の萌芽」に自分を重ねることなどないはずなのだ

 じゃあ、なぜひかるを自分=ぼくに重ねてしまうのだろう?

 でもひかるは踊りはそんなに上手くないんだよ。それだけじゃなくて、アイドルが必要とする武器をまだほとんど持っていない。

 だけどそれを自覚して、ひかるは少なくとも1巻では努力を始める。

 じゃあ、先天的な「才能」はなくとも後天的な「努力」ということが重なるのだろうか。

 実は、ダンスだって体幹がしっかりしていないといけないのだが、作品ではひかるの日常がそれを鍛えるという基礎を持っているかも知れないと予感させるコマやセリフがちょいちょい入る。ここでも、「自分とは違う基礎を持っている」と思ってしまう要素がある。

 だけどどうして、やっぱりひかるに自分=ぼくを重ねがちなのだろうか?

 とまあそんな具合にいろいろ考えてみたんだけど、自分に自信がある「根拠地」「基地」というものがスタート地点として自分の中にある、というのがとても大事なことではないかなと思った。ひかるの場合はそういう根拠となる「歌」の才能が「天才」に近いものなんだけど、ぼくも「自信」を持っている領域というものは確かにある(豆粒のようなものだが)。そこを根拠地にしながらも努力によって、さらに成長しようとしているひかるの姿に、「理想化されたぼく自身」あるいは「こうなりたいぼく自身」を見るのではなかろうか。ひかるが扱うテーマが抽象化され、ひかるほどは大層なもんじゃないけど、自分=ぼくのところにも「降りて」くるのである。

 

 この「ひかるとぼくが重なるか重ならないか」という話題に関連して、1点。

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これが一般の女生徒のラブコメや日常物なら問題のない絵ですけど「何の変哲もない普通の子をアイドルに仕立て上げるのはもうやめよう」と言って「特別な子」を選出するオーディションなのに主人公をはじめヒロインたちに特別感がまるでない(笑)。本作は仮にアニメやゲームに展開してもこんな地味っ子たちでは売れないでしょうなあ。

とあるのは、一理ないわけではないが、「特別な子」が自分と地続きであるということをどこかに残すべき設定にしておくべきであれば、むしろ現在のグラフィックはベストだと言えよう。

 

苛酷な世界のはずだけど

 第三は、オーディション=生存競争という環境が、ぼくたちの生きている世界の濃縮版だから。

 自分は「特別な人」になろうとするひかる。そしてそういう世界の選別のオーディションで「絶対に生き残る」と強い決意を示す。

 ほのぼのとした絵柄とは対照的に設定されている世界は苛酷だ。

 「一緒にアイドルになろう」と手を差し伸べてくれた蘭と一緒にオーディションを受ける。だけどそれは「共同」ではない。蘭からダンスを教えてもらうけど、ひかるはすぐにそれを甘えだと思って独りで乗り切ろうとする。得意にしていた銭湯で歌うことも、それを居場所とする「甘え」をすっぱりと断つ決意をしてしまう。

 自分は他と違う「特別な人」になる。

 まわりで理解を示したり、支えたりする合図を出してくれる人はいるけども、ひかるの生存競争はとても孤独である。

 ある種のスポーツマンガでも同じようなことは言えるけども、自助と自己責任の空気が強い。不安の中で、凭れかかることができるのは自分しかないということが1巻ではいつでも強調される。

 左翼のぼくが政治のステージでたたかっているものはまさにこれなのだが、だからと言って本作やそういうスポーツマンガが直ちに不快なわけではない。むしろぼくらが暮らしている世界の濃縮であり、ヒリヒリするような焦燥は世界のリアルだ。

 評価され、「特別な人」になり、そのために誰の力も借りずに、自分の才能と努力で、苛酷な生存競争を勝ち抜きたい——こう並べると「どんな新自由主義的世界観だよ」と笑い出したくなるが、そこにリアルさを感じ、自分中に沈殿している欲望をかき回され、ドキドキしているぼくがいることも確かなのだ。

 この作品は、最後まで一人の力が強調されるかも知れないし、何かリアルな共同ということが示されるかも知れない。それは楽しみにとっておこう。

 

 ぼくは久遠まこと・玉井次郎『ソープランドでボーイをしていました』を評した時、『神聖喜劇』について触れ、こう述べた。

 賃労働として賃金が保証される側面と、個人事業主的な扱いで労働法の保護が及ばない側面が同居している。
 これは、現代の労働世界の縮図であり、典型化された形象である
 ふつうはモノがいえない、ベテランとして職場の不可欠の一部となってはじめて交渉力が生じる、という世界だ。
 この職場で「労働法を守らせる」ということの言い出しにくさは、一般の企業でそのことを言い出しにくい空気とほとほとよく似ている。
 軍隊の生活を描いた大西巨人の小説『神聖喜劇』は、軍隊を一般社会から隔絶された特殊な無法地帯として描く野間宏『真空地帯』への批判を意識している。
 『神聖喜劇』の主人公・東堂太郎が、軍隊内の生活マニュアルである「軍隊内務書」の

兵営生活ハ軍隊成立ノ要素ト戦時ノ要求トニ基ヅキタル特殊ノ境涯ナリト雖モ社会ノ道義ト個人ノ操守トニ至リテハ軍隊ニ在ルガ為ニ其ノ趨舎ヲ異ニスルコトナシ

を引用し、軍隊生活と一般社会が地続きであることをしばしば強調する。
 同じことだ。
 ソープランドのボーイの「モノの言えなさ」は、ぼくらの職場での「モノの言えなさ」そのものなのである。

  同じである。この作品はアイドルを描きながら、この世界そのものなのである。

 

M・葉山のこと

 ところで作品の中で、一貫して審査員をつとめ、ひかるを論評するM・葉山の、時に冷たく、時に希望に満ちた言葉は、この作品世界では絶対の位置を与えられており、いわば神の言葉である。

 いわゆる「オネエ」言葉で語られる「神の言葉」は、アイドルの論評にニュートラルな印象をもたらし、その神々しさを一層際立たせている。

 よい。