大久保ニュー『15歳、プロ彼女 元アイドルが暴露する芸能界の闇』


 大久保ニューのマンガを久しぶりに読む。というか、待っていた。2000年代初頭に『薔薇色のみっちゃん』や『ニュー・ワールド』を読んで「もっと読みたい!」と思いながら、店頭でなかなか出会えず、正直なところ、次第に忘れて行ってしまったのだ。


15歳、プロ彼女〜元アイドルが暴露する芸能界の闇〜 1巻 (女の子のヒミツ) 本作は、元ネタがあってそれをマンガ化したもの。
 「プロ彼女」というのは、本作第1話によれば、「財力と権力を持った男性だけを狙う」女性集団のメンバーのことで、「狙う」とは「結婚する」という意味である。主人公・メイの述懐の体裁をとっていて、メイは15歳の売れないアイドルだった。
 展望の見えない下っ端アイドルグループの行く末に絶望を感じていたメイが同じグループのコにTVプロデューサーや芸能人が参加する「ヤリコン」(乱行パーティー)に誘われたこと、そして、ふとしたことで女優が主催する「金持ちと結婚する会」(のようなもの)に参加したことをきっかけにして、有名俳優、スポーツ選手、政治家、コンサル、医者などとのセックス体験、それをめぐりカネと仕事がどう動いたかを「実話」形式で描いている。


 率直なところ、これが本当の話かどうか、あるいは芸能界のすべてではないにせよその一端の真実を表しているかどうか、ぼくには判断する材料がない。もちろん自分に経験のない、あらゆる「ノンフィクション」はそういうものだろうが、せめて関連する本を少しでも読んでいれば多少の嗅ぎ分けはできるだろう。でもこの分野はまったくぼくは知らないのである。


 それでもこの本に惹きつけられたのは、二つ理由がある。
 一つは、自分の容姿(カラダを含む)を武器にして「安定」「カネ」「名声」を獲得しようとする、男権社会下での、ある種の女性の気分をむき出しに、そしてクールに描いているからである。
 同じアイドルグループのコたちからは「枕(有力者とセックスして仕事をもらう「枕営業」のこと)」「枕ちゃん」などと陰口(というか公然とした攻撃)を言われたり、体を露出させてテレビに出るメイを軽蔑するような、興味があるような矛盾する目で追う一般クラスメートの視線を感じたりする。
 そのたびに、メイは自分の中で対抗する論理をつぶやく。
 あるいは、メイのまわりの女性たちが公然と反撃する。
 例えば、「金持ちと結婚する会(仮)」の男性たちとの食事会でメイが物事を知らないふりをして注目を集める手口をとることに、同席の女性たちから不満が出る。しかし、主宰者である女優(冬月麻美)はメイを擁護する。

私達は仲間だけれど 仲良しグループじゃないのよ?
私だって15歳の隣りに座るのは怖いわ
でもその分エステの回数を増やすことにした
キレイでいるための刺激にしているの
メイちゃんは悪くない
だって彼女がしていることは 正しいことだもの
男を喜ばせて男からむしり取る
それが私達の目指す姿でしょ?
「ビッチなお姫様」
メイちゃんは完璧よ
妬むヒマがあったらメイちゃんから勉強することね

 ぼくの知り合いで、インテリゲンチャ(大学の研究者)の女性がいるが、ある種の女性が容姿を武器にすることを軽蔑している。
 彼女の考えはこうである――「容姿」と「仕事的才能」という二つに分けられる人生の武器があるとして、どういう天賦の武器があるにせよ、結局「仕事的才能」を持たぬ者の末路は悲惨だ。
 両方あればそれに越したことはない。
 「仕事的才能」だけならそれを武器に世渡りできる。
 しかし「容姿」だけに頼ることは、早めに「いい男」を「捕まえて」それに依存=寄生する生き方であり、危険極まりない、と。
 この人生観は別にそう珍しいものではない。
 この種の人生観をじっと眺めてみると、とにかく「仕事的才能」さえあれば生きていけるということに尽きる。「容姿」を人生の武器にする、ということが一体どういうことなのかを戦略的に突き詰めて考えた様子はない。
 エンゲルスは階級社会の一夫一婦制について、「一方の性による他方の性の隷属化として、それまで先史時代全体をつうじて知られていなかった両性間の抗争の宣言」であり、財産の相続を動機とした「打算婚」であり、売春と姦通(不倫)によって補足された制度だと指摘した。
 つまり、基本的には男の支配であり、女はそれと抗争をせざるを得ず、そしてお金の打算として結婚があり、お金のためのセックスがあり、「正規」の婚姻以外のところでのセックスがあることを特徴づけたのだが、メイの行動と論理はこの指摘を先鋭化させたものであることがわかる。
 有名芸能人の家で輪姦されるエピソードも出てくる。
 その自分を冷徹に観察し、どう対処するか計算するメイが描かれる。その苛酷さは、支配と抗争と打算の縮図である。
 ただ、大久保がそのシーンを描くトーンは、必ずしも「悲劇」ではない。起きていることは苛酷なのであるが、むしろそれに抗おうとするメイの「したたかさ」のようなものが読む者に伝わってくる。
 そう、全体として、メイは「強い」存在として、ぼくらに迫ってくるのだ。


 本作に惹きつけられたもう一つの理由は、有名人や有力者とのセックスをやはり冷静に、そして理屈っぽく観察しているからである。
 メイは「15歳のセックス好き」という設定だから、ぼく自身の中にこの作品をポルノ的に消費しているところがあるのかなと思った。もちろん多少はあると思うのだが、大久保ニューの絵柄はポルノとしての物語を駆動させる形では働いていないように感じられた。
 むしろ、メイがセックスする相手を観察し、それを言語化するクールさを興味深く読んでいる自分がいた。
 例えば、ある有名俳優は、いとも簡単に旅館の備品を盗む。平気で灰皿を車外に捨てる。「育ちが悪い」のだとメイは観察する。
 あるいは、概して政治家は、年齢がいっているのに、セックスのテクニックが全く未熟。
 逆に、相撲取りは「低学歴で頭が良くない」というイメージだったのに、そうではなかった……などである。
 別にメイのこうした人間観察の結論を肯定するつもりないし、その材料もぼくは持ち合わせていない。
 しかし、客観的に自分のセックス相手を眺め、それを言葉にしていく作業は、「容姿」を戦略的武器に使おうとする女性の中心問題の一つなのだろう。カネや権力で女を抱こうとする人間の品性が一つひとつていねいに観察され、暴かれていく様をみるのは、痛快だ。


 さっき、ぼくの知り合いの女性が「容姿を武器にする女性は危うく、もろい」という類の印象を持っていることを述べたが、全体としてメイの印象は逆である。したたかであり、痛快なのだ。だが、それでも知り合いの女性は、おそらく「本人の主観、生き方はそうであっても、さらにその人生をメタに眺めればやはり危うく、もろい」と言い張るであろうが。