芥文絵『セキララにキス』


恋愛なんかやめておけ (朝日文庫) 芥文絵の少女マンガ『セキララにキス』のテーマって松田道雄『恋愛なんかやめておけ』に通じるというか、やがてこの問題につきあたざるをえないよね。


 つまり、“若いうちっていうのは仕事とか才能とか、恋愛なんかよりももっと大事なことがあるんだから、恋愛みたいなものにうつつをぬかしているのはエネルギーのムダじゃね?”という意見。


 こう書くと完全に年寄りの繰り言のようだ。
 実際そういうところがあるんだけど、松田は、この本の中で近代の恋愛、まあ森鴎外福沢諭吉みたいな文人とか知識人たちの恋愛や結婚をふりかえって、恋愛ってけっこう面倒くせえよ、特に男が身勝手なことをやって女が反抗して……すごいエネルギー使うんだぜ、っていうことを言っているのである。
 そんなことやってるより、自分の能力を磨くことにもっと若いうちはエネルギーを割けよ、と松田翁はいいたいのだ。

今でなかったら、永遠に恋愛はできないと思っちゃだめだ。人生はながい。そして何よりも自由をたいせつにしないといけない。いま、恋愛列車に乗りこんでしまうのと、ひとりで好きなように自分の天分を生かすのと、どちらがいいかよく考えることだ。
〔…中略…〕
 君たちはまだわかい。無限の可能性をもっている。それをどこで生かせるかいろいろためしてみるのが、いまの仕事だ。まだ、自分のかくれた能力が花を咲かせるたのしみは、君たちの年齢では少ない。
 人生のたのしさは創造のたのしさだ。自分しかもっていないものが、この世の中に姿をあらわしていくのを見るたのしさだ。
 恋愛にも、たしかに、そういうものがある。〔…中略…〕けれど、それは経験上、ながつづきしない。だから恋愛にすべてを賭けてしまうと、ほかの能力がそだたなくなってしまう。
(松田前掲書、朝日文庫p.205-206)

セキララにキス(1) (KC デザート) 『セキララにキス』は、仮面をかぶって何事にも本当の自分を見せないようにしてきた女子高生の千歳が、樹(いつき)という男子高校生に出会うことでこの仮面を見抜かれ、樹の通う美術予備校で千歳が自分の絵や芸術についての才能を開花させていく話である。


 千歳は樹にキスをされることで心をゆさぶられる。
 仮面を破壊され、千歳は樹に強く惹かれていく。
 そして、同時に、美術予備校で自分が知らなかった絵に対する自分の才能や、仲間をつくって一つの作品をつくりあげる興奮を見つけ出していく。


 恋愛と才能が同時並行で花開いていくのである。


 ぼくはこの作品を読んでいて、1〜2巻で一番面白いとおもったのは、美術予備校で「2020年の東京オリンピックにむけてオリジナルグッズを販売する」という想定で課題を出し、最初それが「うーん なんかつまんないね」と笑顔で講師に切り捨てられるシークエンスだ。
 千歳たちのグループはそこから本気になって課題にとりくんでいき、その過程で、千歳は自分の殻を破り、自分の才能や仲間たちと共同することを学んでいく。叩かれるのを覚悟してアイデアを大量に出してみてグループの会合にもってくる千歳。そして、終わった後、みんなで海で打ち上げをする。
 そういうシーンが、うむ、実に「若人」って感じで素敵なのである。
 千歳が才能を開花させていくのを見るのが楽しい。


セキララにキス(2) (KC デザート) この展開に対して、放っておけば、千歳が樹にむける恋愛感情というもう一つの流れは、「余計なもの」になっていってしまう。どうでもいいよ、そんなことは、と。
 しかしそこはこの作家の力量であろう。
 四十男のぼくから見て樹のビジュアルはなかなかカッコいいし、いきなりキスをしたり、千歳の仮面を叩き割ろうとする意地悪さはかわいい。
 千歳の方も、樹が照れたりするのを、かわいいと思ってしまうシーンなんかをぼくが読んでいると、千歳自身がやっぱりかわいいよね。
 つまり、恋愛としての展開もそれなりに放っておけないのである。


 しかし。
 しかしだ。
 でもやっぱり恋愛の方は力技で描いていると思うんだよね。
 ぼくは松田道雄のように、言いたくなってしまう。


 なあ。いま恋愛とかにうつつをぬかしている時期じゃないし、別にどうでもいいんじゃないか。お前は、美術予備校でもっと自分を鍛える時だし、仲間たちともっと新しいものを創りだす経験をしておいた方がいいんじゃないか。


 てな具合に。
 樹との恋愛は、余計なものにならざるを得ない。そんなふうに展開していってほしい。作品としてはそれでは破滅なのだろうが、このテーマ、そしてこの物語はそのように推移せざるをえないのだ。必然である。