野党共闘は「見直す」べきだ(4年ぶり2回目)

 夏に都議選を手伝った。そのとき立憲民主党議席を伸ばして8→15、共産党は野党第二党という高い水準ではあったがほぼ議席を維持した(18→19)。

 

 しかし、その一方で都民ファースト立憲民主党の倍の議席を残した(45→31)。

 けっこう取ったなあ、と思った。

 あのときもメディアの予想は途中で大きく覆され、「小池百合子が最後は出てきた効果」などとぼくの周りでは言われていたがのだが、実際には、それは立憲民主や共産には行かない層、一言で言えば「中道」、もっと正確に言えば「非自民の保守」がたどり着いたところであった。

 立憲民主党は「リベラル・左派」として評価されていたのだと思う。

 

 総選挙では、この構図が再現された。都民ファーストのポジションに維新の会が来た。そういうことである。

 

 ぼくの周りでは維新が伸びたことに過剰な意味づけをしすぎる人が多い。日本人が反動化しているとか、維新が大阪でこれこれのことをやっていることが評価されたとか、あるいはかくかくしかじかの悪行が知られていないとか、緊縮派の台頭であるとか、そういう意味づけである。

 しかし、もっとシンプルに、立憲民主党共産党を中心にした野党共闘が全体として「リベラル・左派」色が強くて、そこに乗り切れない層が出てきて、それが維新に行った、というほどに見るのが正解なのではないかと思う。維新の躍進に、あまり過剰な意味づけをしなくてよい。

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ウイングを右に伸ばせ

 政治学者の菅原琢が次のように言っているのは正鵠を射ている。

 

 野党共闘は、一定の効果を発揮した。そこにあまり疑問の余地はない

 62の小選挙区で競り勝ち、多くのところで惜敗まで持ち込んだ。これは実証的に見てもそうだ。

 

www.jcp.or.jp

 

 立憲民主党は、旧希望の党や旧国民民主党などからの合流で膨らんでいたので、そこは「改選直前から減った」ということだけであまり評価しない方がいい。また、小選挙区で1つだけの議席を争うものだから、議席に実らなかったことだけから見ない方がいいとも言える。

 では課題なしなのかといえば全くそうではない

 問題は、惜敗した大量の選挙区があるわけで、自民・公明がこれを恐れたのであるが、にも関わらず、そこを伸ばしきれない原因があるとすれば、「野党共闘が左派・リベラル色が強かった」ということになる。

 惜敗を打ち破り、実際に勝利するためにはどうしたらいいのか。そこが考えどころなのである。

 野党共闘を解体したい人たちは、そこから「共産党を切れ」ということになるのだが、それは論理的にもおかしいのである。今度は左の票がなくなってしまう。

 そうではなくて、左が固められたのだから、右へウイングを伸ばすべきなのだ。

 野党共闘からは、国民民主党がそっぽを向いている状態であるのはその意味で惜しい。前原誠司細野豪志のような色合いの人も同様である。

 以前紹介したが、政治学者の山本健太郎は『政界再編』(2021年7月刊行)という本の中で「最も多くの有権者は中道の穏健な政治を好む」として「自民党よりやや左の中道保守」というポジショニングを「政策位置のことだけを考えれば、これは至って合理的な選択」(山本p.228-229)と述べている。

 これは、2020年に安倍政権が倒れた時に、松竹伸幸が「安倍政権に見習うべきだ」といって野党共闘の陣営に向かって勧めていたことだった。

 松竹は2020年10月に書いた『安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない ——野党共闘の可能性を探る』で安倍政権のしたたかさについて、こう言っている。

 つまり、これまで見てきたように、安倍政権は、右派の岩盤支持層を固めつつも、右派が嫌うことにも触手を伸ばし、リベラル・左派にウィングを広げてきたのである。右寄りの岩盤支持層は〔中略〕数としても多い。その支持が当てにできるのであるから、政権が安定するには大きな要素である。

 その上で、安倍政権は、これもそれなりの数がいるリベラル・左派が共感するようなアプローチをとってきた。岩盤支持層には不満の残るやり方なのだが、だからといって岩盤支持層がリベラル・左翼政党に支持を移すことはないので、安倍氏は自由に動き回ることができたのである。

 こういうやり方は、リベラル・左派こそ学ばなければならない。例えば、護憲という課題のことを考えても、護憲政党自衛隊の問題について、侵略性を増しているとか、反人民的な軍隊だとか、いくら自衛隊を否定するような言葉を証拠を羅列しても、護憲派が内部で喜び、内部で盛り上がるだけであり、外への支持は広がらない。そういうやり方ではなくて、護憲政党の側から、自衛隊を肯定する人たちが共感するようなアプローチを考え、実践しないと、改憲派護憲派の声に耳を傾けることすらない。そんなことをすると、従来型の護憲派は不満を高めるだろうが、それは無視していいのである。なぜなら、そういう護憲派は、そんなことで護憲派の立場を放棄することはないからだ。安倍氏がいくらリベラルに寄った言動をしても、岩盤支持層が逃げていかないのと同じである。(松竹p.63)

 

 実際、今度の選挙戦で、ぼくのまわりの共産党員・共産党支持者でも、いざ選挙区での一本化合意がされて他の党の候補者を推すことになったら、選挙区によっては「あんな人を推すの!?」という不満を言う人がいたのだが*1、それでも公示後は選挙カーでその候補の支持を訴えていたし、電話で支持のお願いをしていたのである。左派、特に共産党の場合、大義の旗がきちんと立っていれば、岩盤支持層は逃げていかない。

 

 ぼくも、ずいぶん前の段階だが、旧民主系にいる、共産党との共闘に否定的な人たちは、むしろ積極的に共闘の中に入ってきて、自分たちの理想や政策を共闘に盛り込み、議論の力で共産党を凌駕して乗り越えるようにすべきだと述べてきた(4年ぶり2回目)。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 特にそれは防衛・軍事政策の分野である。

 松竹は、この本の中で野党共闘が取るべき防衛・軍事政策として、「核抑止抜きの専守防衛」を提唱している。

 共産党に対しては、「もし志位氏が防衛大臣になったらどうなるのだろうか」と提起し、専守防衛を正式に認めて、政権を担当したらしっかり運営できるようにしろ、と注文をつけている。共産党は連立・連合政権の場合「違いは持ち込まない」としていており、もしも共産党が閣僚になれば内閣の一員として当然安保法制の前まで自民党が運営していた自衛隊運営のやり方を踏襲することになる。これは共産党自身もそう言っている。ここまではいい。それはそれでいいのだが、松竹としてはそれだけでは弱いと考えたのだろう。共産党は将来国民が「もういいかな」と思えば自衛隊を段階的に解消するという方針をとっているのだから、「それまでの間、自衛隊をこう運用する」と積極的に言えた方がいいのである。

 

 要するに、〔一九〕九八年の連立政権論〔不一致点は持ち込まず、その不一致点は前政権のものを踏襲し改悪をしないという1998年に共産党が打ち出した主張〕では想定されなかった事態への対処が求められているのだ。従来型ではない思考方法が共産党には求められる。

 そのために大事なことの一つは、自衛隊専守防衛に対する考え方を発展させることである。簡単なことである。〔中略〕現在については、国民が自衛隊を必要と考えているという段階であるというだけでなく、共産党の国民と同じく専守防衛自衛隊が必要だと考えている段階だという考え方を明確にすればいいのである。国民が自衛隊について考えていることを、そのまま共産党が受け入れればいいのである。将来、自衛隊を解消するという点では野党との間に深刻な意見の違いがあるが、現段階では野党と基本的に同じだとすればいいのである。(松竹p.112-113)

 松竹は共産党の政策委員会にいただけあって、よくある単純な「共産党は現在の方針を捨てて自衛隊を認めろ」論ではない。将来の自衛隊解消とその中間段階の立場という「現在の共産党の理想・方針の論理の方向でこの発展が可能だ」ということを説得していて非常に面白い。

 

 今回、防衛・軍事政策の打ち出しは、立憲民主党では弱かった(共産党は「外交」方針はあったが、いわゆる「防衛」政策はほとんど聞こえなかった)。

 そこは多くの国民が不安に感じているところだ。50代以上では景気対策とともに、外交・安保を今回重視したことが以下の表からもわかる。

 

 

 そこに応える、というのが、野党共闘を「右」に伸ばしていくという政策分野のコアにあると思う。もちろん、それ(安全保障政策の強化)だけじゃないけど。

 

野党共闘を「見直す」とは「共産党を切る」ことなのか?

 世論の中で野党共闘の「見直し」が増えているという。

mainichi.jp

www.sankei.com

 

 「多様性の中の統一(団結・連帯)」というのは、先ほど述べたような幅広さを示すことだ。共産党のような「左」から、中道や保守をカバーする「右」がまでがいるということである。野党共闘が見直され、進化・深化するとすればこの方向だろう共産党としても、それは「方便」や「戦術」ではなく、「必ず立場の違う人と、一致点での統一戦線を組んで少しずつ・段階的に理想に近づけていく」という共産党が持っている戦略=綱領のど真ん中である。

 「立憲共産党」というのは、野党共闘が左がかり過ぎたことへの揶揄であるが、ある意味そうなのだろう。しかし、結論は、「野党共闘をやめる」というのではなく、「野党共闘を右へ伸ばしていく」というのが発展の方向なのだ。

 もちろん「見直し」の中には、共産党と手を切れ、という意見としての「見直し」が含まれている。

 野党共闘をやめる…? やめる、それはつまり共産党を切れという意味なのだろう。

 やめてどうするのか?

 そこは単に「いつか来た道」でしかない。

 共産党を切って、維新と旧民主党系が連立する世界があるとすれば、何のことはない、民主党+維新=民進党成立の時代である。このときは共産党が「第3の躍進」と自己規定しているほどの増え方をした時で、共産党はその「おいしいポジション」を捨てて野党共闘路線にやってきた。切れば、そこに戻るだけだろう。この日本社会の現実の中に現時点でも左派的要求が一定の割合で厳然と存在するという事実に目をつぶることは不可能なのである

 要するに維新+旧民主党のような発想では「左の受け皿」にはなれないのである。(いやまあ、ひょっとしたらなれるかもしれない。それは相当に思い切った転換があった時だろう)

 

 善意で「共産党を切るしかない」と思っている、その思考の陥穽は、「右と左は一緒になれない」と考えていることだろう。「一致点で共闘し政権を運営する」「不一致点は持ち込まない」ということに想像が及ばないという致命的な弱点を抱えている。

 

 

 

共産党の比例票について

 ところで野党共闘(つまり小選挙区での闘い)とは別に、共産党そのものの票(つまり比例代表での争い)については上記の話とは別のことを考える必要がある。野党共闘の話と、一緒に考えてはダメだ。

 共産党は、事前に「伸びる」と言われながら、伸びなかった。

 特に比例で。

 終わってみれば416万票。ほぼ固い支持層が残ったという印象である。「共産党は票を伸ばしたが、例えば維新が最終盤それを圧倒的に抜いた」…とかいう話ではない。「伸びるかもしれんぞ」というマスコミの事前調査などのデータ的裏付けがありながら、それが実らなかったというのは、「『一見さん』が大量に店をのぞきにきたけど、買わずに帰って行った」という可能性が高い。

 共産党にやってきていた票が「どこかに行った」とみるべきではなかろうか。

 どこに行ったのか。

 実証的な根拠はないけど、それは「れいわ新選組」と「維新」ではないかと思う。以下は単なる「推測」である。

 劇薬を期待する人は、共産から、勢いがあると報道された維新に行った。

 「れいわ」は0〜1という予想を覆し、4まで行った(諸事情で3になったが)。共産党が伸びるというアナウンスのもとでそちらに行った。短期的には。しかし、長期的には「消費税廃止」「障害者の党」というようなラジカルなイメージを「れいわ」が持つようになって、それは共産党のかつてのイメージの一部にダブっている。つまり共産党に行くと思われていた票は「れいわ」に行ったのではないか、というのがぼくの「推測」である*2

 といって、共産党側は「れいわはけしからん!」として「れいわ」批判をする必要などはない。実際に「れいわ」はけしからんことをしたわけでもなんでもない。

 他方で、共産党は(現時点では)立憲民主党とイメージが被っている。「別に立憲でいいやん」という具合になる。

 共産党としてのブランド力を出す戦略を考えた方がいいということだ。

 今回の総選挙で、共産党が考えていた共産党のイメージの押し出しは「野党共闘に一番熱心で誠実な党」ということだろう。これはそうなのだが、比例をうんと伸ばす力にはならなかったと言えるのではないか。もう少し考える必要がある。

 もちろん、比例票を押さえる組織力——共産党の用語でいうところの「自力」が足りないという問題は、これとは別にあるとは思うが、ここではその問題には触れない。

 

 そして、もう一つは、新規顧客の開拓である。

 特に、若い世代での共産党の支持をもっと開拓した方がいい。

 ここで考え方の整理をしてみたい。

 共産党は、総選挙後の簡単な選挙総括で、

とくに、暮らし、平和の問題とともに、〝気候危機打開〟〝ジェンダー平等〟という新しい世界と日本の大問題を、選挙戦の大きな争点に位置づけて訴えぬいたことは、若い方々を含めてこれまでにない新しい方々への共感を広げる、重要な意義をもつものとなりました。

としている。しかし、先ほど述べたように、日テレの調査では、「気候危機」や「ジェンダー」は若い世代全体の関心から言えば非常に低い

 選挙戦になった時に、若い人に訴える施策として、果たしてジェンダーや気候危機がよかったのかは反省する必要がある。

 ただし。

 それは「選挙戦になった時」の話である。いわば短期間に、宣伝などで支持を広げなくてはいけない時の話だ。

 しかし、もっと日常ではどうだろうか

 共産党の選挙中の実感として、志位和夫も「とくに、暮らし、平和の問題とともに、気候危機打開、ジェンダー平等という新しい世界と日本の大問題を、選挙戦の大きな争点に位置づけて、訴えぬいたことは、若い方々を含めてこれまでにない新しい方々への共感を広げ、重要な意義があったと確信するものです」と言っているが、本当に・実際に反応があったのだろう。ぼくの近くにいる共産党の地方議員も宣伝の際のこのような反応について語っていた。立ち止まって聞く、とか、ビラを取りに来る、とか、対話になって強く共感する、とかである。

 問題は、それが若い世代の「多数」なのかどうかということだ。そういう反応があったことは逆に観察者にバイアスをかけてしまう危険がある。

 しかし、これは見方を変えれば、ジェンダーや気候危機といった問題では、自分が運動に飛び込んでくる・行動をするという積極性を持つような若い世代が共産党の訴えに反応してきた、と言える。この人たちは、運動を起こしたり、行動を起こしたりするような、アクティブな人になってくれる可能性が高い。

 むしろ日常的にはこういう人たちに依拠して、気候危機やジェンダー共産党に信頼を寄せる若い人たちの核をつくっていき、そこから若い人自身が一歩ずつ共産党への若い世代の人たちの支持を広げていくというふうに問題をたてるなら、間違っていないと思う。

 

 なお、共産党は「4つのチェンジ」として、「経済」「気候変動」「ジェンダー」「外交・平和」でのチェンジを訴えたのだが、上記のような有権者の関心のありようからすれば、4分野を柱にして打ち出したこと自体は良かったとしても、実際の演説や訴えの比重としてはもっと考えるべきことがあったと思う。上記の「共産党としてのブランド」を訴えることを加えるとすれば、4分野のすべてを語っていたら、とてもではないが時間はない。候補者の演説を聞いていたが、一部の人については、時々「羅列」のように聞こえる部分があった。

 ぼくは、財源(富裕層・大企業への応分の課税)とあわせて、消費税減税を主軸に経済・暮らしをもっと訴えるべきだと思った。

*1:まるで安倍首相のような「あんな人」とは右寄りの人、とか、野党共闘に全く不熱心そうな人とか、いくつかのバージョンがあった。安倍と根本的に違うのは、そう言いながら実際にはお互いの違いを認めて共闘したことである。

*2:とにかくこれは推測。共産党の比例票はどこから来てどこに去っていったのか、あるいはそういう動き方をしたのかは、どっちみち実際の調査が必要だし、それによってぼくのこの結論も変わることは言うまでもない。