講演終わりました。
いっぱいのお運びでありがとうございます!
「ゆるゆるな新町内会をつくってみた」と題して、佐賀市立高木瀬公民館の「第4回 大人塾(R2)」で講演します。(会員限定で、すでに入場応募受付は締め切られています。)https://t.co/BAOyX4jZC2
— 紙屋高雪 (@kamiyakousetsu) 2021年1月25日
たくさん質問を出していただきました。
その中で回答をしてみて興味深かった問題を一つここに取り上げておきます。
ぼくは持論である「負担が大変な町内会の仕事をリストラしよう」という話をしました。
これに対して、神社関連のものもリストラするのかという疑問が寄せられました。
その質問・意見は、町内にある神社の行事を、季節の折々に、町内会として子どもたちなどを集めてやっているのだが、それはもう負担が限界に来ている、地域の大事な行事であり地域文化だが、それもリストラすべきだと思うのか、というものでした。
ぼくは、基本は神社の行事は信者(氏子)が支えるものだから分離すべきだとして、地域文化と言える部分は、切り分けをして実行委員会をつくって、宗教の違いを超えて参加できるようにした上で、例えば春夏秋と3回やっていた行事を1回だけにするというリストラができるのではないかと答えました。
その方は、神社の行事とは言っても宗教色はそれほどなく、地域文化そのものなんだが…とぼくの回答に納得されてはいないようでした。
関連して別の方が、「最近の若い人たちはそういう神社の行事にも「自分は関係ない」と言って参加してこない。時代なのだろうか」と意見(感想)を述べられていました。
これらの意見の核にあるのは、「神社のお祭りなどは宗教ではなく地域文化だから地域のみんなで担うべきだ」という気持ちでしょう。だから宗教扱いして地域文化を町内会活動から分離するのはナンセンスであるということなのです。
一応回答はしたわけですが、そのあと、帰り道に、もう少し考えました。
以下に、その「もう少し考えた」中身を書いておきます。
宗教としての分離はやはりしっかりやろう
まず、形式上のことを言えば、やっぱり宗教行事は極めて慎重に扱うべきだというのぼくの意見です。発言された方にしてみれば、自分にとっては「宗教(という特殊なセクト)ではなく普遍的なものだ」と感じるのかもしれませんが、違うものを信じている人には耐え難い苦痛をもたらしかねないので、きちんと分けるべきなのです。
もちろん、町内会は任意団体です。任意である以上、結社の自由がありますから、「神社信仰を地域文化として扱う住民だけを対象とする」という特殊な団体をつくるのは勝手です。しかし、外国の人たちも大勢入ってこようとしているだけでなく日本人でも多様な考えが広がる時代に、そういう狭さを前提にしてしまった上で、「担い手がいない。どうすればいいのか」という心配をなさるのは、ちょっと虫が良すぎるということになってしまうでしょう。
仮にうまく分離したとしましょう。
それでも「担い手がいなくなる文化」というのは、本来的な意味での「文化」を
ある社会の成員が共有している行動様式や物質的側面を含めた生活様式(ブリタニカ国際大百科事典)
だと定義すれば、そもそもリアルタイムな「文化」である資格を失っていると言わねばなりませんね。もはやその地域の「成員が共有して」おらず、若い人たちは担おうとしていないわけですから。
仮に(消えゆく)伝統文化のようなものとして扱い、それを担うような年齢層の人たちが存在したとして、しかしながら担うことを拒否して、伝統文化を担うことから離反しているというのは、意義を知り保存を支持する人を獲得できなくなっているわけで、それならば、若い人たちが文化として保存したくなるような手立てを考えなければならないのでしょう。町内会で「行事」として押し付けたり、輪番化したりしてどうこうできる問題ではありません。
宗教として信者を獲得する自己改革を
より根本的には、町内会の問題ではなく、信仰と宗教団体のあり方の問題なのではないかと思います。
神社の行事を、その信者である氏子が支えるためには、そこに裾野の広い信仰がなければなりません。それが時代にそぐわなくなって、信者がいなくなり、支えるヒトもカネも枯渇しつつあるというのがこの問題の本質であって、「町内会問題」ではないのです。
神社ではなく寺で考えてみます。
最近は西洋仏教がマインドフルネスとか瞑想のようなものとセットで注目が集まっていますが、その高揚と日本の土着の仏教とは、今のところほとんど関係がありません。
もともと農家にとっては農業をやる田畑と家屋敷があって、そこに永住することが前提であれば、紙屋家なら紙屋家というイエを永続させることが大事なつとめでした。それとセットになった先祖供養や氏神信仰であり、お寺はイエのお墓を管理し、先祖を供養してくれる存在でしかなく、宗派の教義はどうでもよかったのです。
ぼくの実家でも、日蓮宗の家から嫁いできた母はなんの違和感もなく今の実家の浄土宗のお寺に通っていますし、なぜか浄土教系では使わないという「般若心経」を毎日仏壇の前で読んでいます。そして「般若心経」に何が書いてあるのか一切知りません。要するに教義のソフトはどうでもいいのです。たとえ「桃太郎」の一節がお経になっていたとしても、お坊さんがお墓や仏壇の前で読経してくれるなら、満足なのです。
しかし、こういう農業・土地・墓・定住という信仰の構造が急速に崩壊しつつある以上、先祖供養としての「お寺」を信者が維持していくということは本当に難しくなるでしょう。
神社も似たようなものです。
そういう宗教としての信者獲得のシステムを根本的に改革しない限り「神社の行事を支える担い手がいない」という問題は解決しようがないのです。つまり「若い家庭や子どもたちが神社の新しい氏子として入信し、行事や神社の維持を支えてくれるような、魅力的な宗教活動をしてください」ということに尽きるのです。町内会にその仕事を肩代わりさせてはいけません。
ぼくとしては帰り道にいろいろ考えるきっかけになりました。
参加された方、質問された皆さんに厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。