渡辺ペコ『1122』が終わった。
続きを心待ちにしていた作品の一つであった。
本作は、子どもを持たず、セックスレスになった夫婦を描いている。夫は妻公認の不倫をスタートさせ、妻は途中からセックスをする相手を求めて風俗を利用する。
この作品について感じていた問題意識、期待、そうしたものは、だいたい以下の記事で書いてしまっている。そして、作品が終わった今となってこの作品観はそうズレてはいなかったとぼくの中で総括している。
ぼくとしてはセックスレスの解決を公認不倫や風俗などに見いだすのか、というのが大きな注目点だったのだが、作品はもっと大きな「夫婦とは何か」「なぜ夫婦を維持しようと思うのか」ということへ進んでいった。
(ネタバレが以下にあります)
この作品が出した結論は、要するに夫婦というものは「いっしょに生きていきたい」という気持ちなのだ、ということである。
それがあれば法律婚であろうが事実婚であろうが関係ないし、たとえ離婚という法律的意思表示をしたからといって「それがどうした」ということなのだ。
さらに、公認不倫であろうがフーゾクの利用であろうが、それすらも関係がない。ただし、不倫相手や風俗で出会った相手と「これから一緒に生きていく」という選択をしてしまうと、それは夫婦を本質的な危機に陥れてしまう。逆に言えば、あくまでセックスを生きかたの選択から切り離して、「ただのセフレ」「ただのセックスワーカー」としてしまうなら、そういうものを利用することもアリだというのが、本作の思想である。(ただしそれは条件がある。後述する。)
不倫相手の美月と再会して本当に別れを告げるシーンで、二人が自分たちの関係を回顧する。たとえば美月はおとやに対して次ような「おとや観」をのべる。
おとやさんは
ずっと一貫してるよね
〔…中略…〕
ベースが夫婦にあるところ
〔…中略…〕
不倫の始まりも終わりもそこだし
おとやさんずっと奥さんのこと
大事にして信頼していたと思うよ
不倫自体もそのためだったでしょ
それがどうしても許せなくて
わたし他人なのに
「えっ、不倫しているのに、『おとやさんずっと奥さんのこと 大事にして信頼していたと思うよ』ってなに?」「奥さんを大事にするために不倫を始めたって、頭わいてんのか」——本作を読んでいない人は「ちょっと何いってるかわからない状態」だと思うけど、まさにこのとおりなのである。
そして、美月がおとやを自分の一生の中にいる風景にさせたい、つまり「一緒に生きたい」と欲望し、それが叶わないと思った瞬間に関係は暴力的に破綻した。
礼に「一緒に」と誘われた時、いちこは考える。
刹那の高揚とときめきと
なしくずしのセックスが
一時の逃避にはなっても
問題の解決には役立たないことを
わたしはもう
知っている
夫婦を維持するということは「一緒に生きていたい」と思うかどうかが本質であるとすれば、たとえセフレをつくってセックスレスを一時的に解消したとしても、本当にそれで夫婦の危機が解決されているんですか? という問いになって返ってくるということだ。
逆に言えば、セフレやフーゾクを利用すること自体は問題がない。*1だけどもそのとき実は「自分の配偶者とはもうやっていけないな(一緒に生きていかなくてもいいな)」と思っているんじゃないですか、という問いが返されているのである。
セフレやフーゾクの利用ということにもう少しフォーカスをあててみる。
前のぼくの記事で紹介した村瀬幸浩の次のテーゼがここにもある。
性は性器だけの問題ではない。生きる「生」と重なりあっているわけですから“一緒に生きているのが楽しい”という気持ちがなかったら、セックスもうまくいくことがだんだんむずかしくなるんです。
これを裏返せば、「性器だけの性」としてセフレやフーゾクを切り離せばそれらを利用することは可能だ。
自分のパートナーと「一緒に生きていく」ということを考えてそれらを利用するというのは第一に、それは当然パートナーとよく話し合った上での「公認」のものでなければならない。相手がそういうことはしないという信頼をしていてそれを裏切るような事態になれば常識的に考えて、「一緒に生きていく」ことなどできないはずだからである。
第二に、たとえばセフレとの関係が「割り切った関係」、ニュートラルなセックスで終わる保証などどこにもない。本作の美月のように、壊れかけた家庭を清算して「この人と一緒に生きていきたい」という欲望を抱いてしまう関係に変質するのは容易にあることだ。それはまあフーゾクでも同じだ。人間のやることだから、始まりは気持ちに色がついていなくても、次第に変わってしまう可能性はある。そういう「リスク」を伴っている。そのことはあらかじめ承知しておかねばならないのだ。別の言い方をすれば、不倫やフーゾクはそれが「反モラル」だから問題なのではなく、夫婦の本質を侵し、関係を危機に陥れるから「問題」になる可能性があるのだ(それ自体が最初から「問題」として存在するのではない)。
このテーゼに基づいてセフレやフーゾクの利用を「割り切ったものだからいいんでしょ?」と簡単に始めるかもしれないけど、これらはどう変化・発展していくかわからないところがあるので、その危険さをよく知って利用してくださいね、ということなのである。
1巻でいちこの友人が、おとやと美月の公認不倫について述べる。
でもさ彼らの恋愛を
いちこがドライブできるわけじゃないからね
そして、それは本人たちにとってもある意味そうなのである。
だから、本作の思想は、夫婦の本質はあくまで「一緒に生きていきたい」と思えるかどうかであって、そのために、セフレでもフーゾクでも利用すればいいが、本当にその本質を破壊していないかどうかそこに立ち返るべきだということになる。
こまけえことはいいんだよ。
「一緒に生きていきたい」と思う気持ちがあるかどうかだ。
たとえば、いちこの母が孤独死したことによって、いちこは「しばらく独りで生きたい」と思う気持ちを覆すことになる。母の葬儀を終えて気丈におとやを見送ったはずのいちこが、その後ろ姿を見ながら涙をこぼしてしまうシーンに本当に胸が詰まる。おとやんと一緒にいたいんだな、という気持ちが読むものに伝わる。
これは読みようによっては「結婚していないと孤独死する」という事実に脅されたように見える。いや、いちこの母は結婚もして子どもいたけど孤独死したのであり、このような感情は論理的には明らかにおかしいが。
しかし、仮にそうだったとしてもいいじゃないか。
とにもかくにも、いちこは母の死んだ後を片付けるうちに、「おとやんと一緒にいたい」という感情を強烈に蘇らせたのだ。どんな理由があったって、そういう感情がコアにできてしまえば、夫婦という本質を回復したと言える。
ぼくが問題意識に感じていた「一夫一婦制が抱えるセックスレスの問題」に本作なりの結論を出したと感じられ、それは説得的なものだったという大きな満足を得ることができた。
この作品を討議資料として使うことをお勧めしたい(何の…?)。
*1:「フーゾクは性的搾取の形態ではないか」という批判については、ここでは、とりあえずおいておく。