リモート読書会は渡辺ペコ『1122』だった。(以下、一部ネタバレがあります)
つれあいも参加している少人数での読書会なので、そこでこの「公認不倫」マンガを取り上げるというのはまことにホラー。ぼくにとって今夏最大の「お化け屋敷」だった。
こういうマンガであるから、ぼくを含めて参加者のプライベートな性の話やセックス観が飛び出したので、今回はあまりくわしく紹介はできない。
自分として提示した論点とその対決点などをいくつか紹介するだけにとどめる。
一つは、ぼくとつれあいの対決。
ぼくは次のように主張。
- 「この作品の結論は、結局夫婦というのは、『いっしょにいたい』と思う気持ちさえあれば、つまりそれを形成して維持したいという意思があれば、それ以外には不要であるというものだ」——とぼくは考えた。セックスがあるかないか、子どもがいるか、法律の形式があるか、などはどうでもいいことであって、本作の冒頭に掲げられた「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」という日本国憲法第24条が結論でもあった。
- 「公認不倫」やセックスワーク(「風俗」)の利用はセックスレスを契機とした夫婦の危機における本質的な解決ではない、というのが本作の主張のように読めるが、逆に言えば、必要な範囲であり、リスク*1を承知するなら、利用すればいいとも読める。
- そこで「公認不倫」部分を拡大解釈して、セックスレスの解消策として、夫婦の合意を前提とした「公認不倫」や「公正なセックスワーク」の利用はありうるのではないかと主張した。片方がセックスをしたくないと宣言し、それでも家族を維持するというなら、セックスだけを「外注」するというのはあり得るのではないか。
しかし、つれあいは真っ向から反論。愛情がなければ離婚すべきだし、愛情のないセックスというのは考えられない、と述べた。
ぼくからの反論は、妻からみて夫が弟や兄のような存在になってしまい、セックスする気もないし、夫に恋人ができてもそれは「弟や兄にできた恋人」に近い感覚になる、というのはよく聞く話ではないか、として、家族としての愛情と、性欲・恋愛としての愛情を切り分けることはありうるのでは、というものだった。
他の参加者からは、「恋愛感情がカラッカラなのに、それでも家族を維持したい」というのは経済単位としての家族を解体できない日本的な感情ではないのか、という指摘があった。
もう一つは、作品そのものについて。
ぼくと、別の参加者は、この作品を非常に興味深く読んだ。いわば非常に高い評価であった。「登場人物のどれにもそれぞれなりの言い分があって感情移入した」という感想があった。
また別の参加者は、初めは浮ついた感じだったが、「公認不倫」が破綻するシーンからシリアスになっていき、母の死を契機としたいちこの変化などはそれなりに納得できるものだったとされた。
つれあいの評価は最悪だった。1巻で夫(おとやん)が不倫をしているという設定が出た段階でもうダメだったようだ。倫理的な苦痛をもって読み終えたと述べた。
フェミニン男性・おとやんが、美月とのデートで美月の息子・ひろに肩車したり、シールブックをあげたり、弁当を作ってきたりする「やさしさごかし」は、「そんなことをするから、美月が新しい家庭への展望を抱いてしまうのではないか。不用意にもほどがある罪作りだ」と女性陣から総じて厳しく批判された。
ただつれあいは、「この作品は嫌いではあるが、大変論争的であり、読書会の教材としては悪くなかった」という評価を(読書会終了後に)付け加えた。「討議資料として良い」というぼくの主張を裏付けたかっこう。
それにしても、ぼくとしては、つれあいがこんなに「愛情のないセックス」に厳しいのか、とちょっと打ちのめされた気分である。まあそういうことがわかった読書会になった。
次回はシーナ・アイエンガー『選択の科学』を取り上げる。
*1:本作で言えば、不倫相手が新しい家庭の展望を描き出してしまい、「不倫」で終わらなくなってしまうこと。