SNSで悪口を書かれていることがある。
とくに、こういう身の上になってしまったので、SNS(具体的にはXだけど)では自分が知らないところでいろいろ叩かれるようになった。(なぜかブログにはほとんど反応はないのだが。)
SNSは、直接のリプがなければあまり気づかない。なので何か言いやすいのだろうか。
どうしようかとは必ず一瞬思う。何の因果か、見続けて接触時間が長くなると反応したくなる気持ちが増える。見なきゃいいのに。
例えばその指摘によって、自分の論理が決定的に穴が空いているな、そこを指摘されているな、と思えば反応することにしている。たとえ相手が間違っている場合でも、自分の議論が全然そこをカバーしていないと思えるものは、補足をする意味で対応する。
しかし、「もう自分としては言いつくしているし、あとはオーディエンスがどう受け取るかだけだ」みたいなときは、基本的に何もしないことにしている。ただの悪口や冷笑だけにはなおさらである。そもそもXのプロフィールには「あまり反応しませんのでご了承を」と書いているくらいだから本来反応しないのがぼくのモットーではある。
まあ、それでも煽りがうまい人はいるもので、なんか言いたくなってくる、ということはある。
さて、そんな折に読んだのが本書である。
ぼくがすすんで手に取ったわけではなく、リモート読書会で「これを読みたい」とテキストとしてあげられたでの、正直自分としてはまったく読む気のない本だった。だけど、まあとにかく売れているということもあって、どんなものかを読んでみるのも悪くはあるまいと思って読んだ。
このエッセンス部分は、実は、以前書評をしたロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか 科学の知見で解く精神世界』ではないのかと感じた。
現代にヨーロッパで支持されている仏教観は、原始時代、つまり狩猟社会の一員だった人間の中にあった生物としての衝動が、現代ではバグになってしまっている。仏教は科学的な手段が乏しい中でそれにどう対処するかを考え抜いたものだった。
現代では、様々な心理や認知の科学があるが、これにマインドフルネス=瞑想を加える。 あるいは様々なチップス(Tips「チップス」または「ティップス」と読み「問題解決に役に立つちょっとしたヒントやアドバイス」)も。自分の中に起きているバグを見つめる。
ただし。
そのバグが完全に統制できるということはない。統制できないことも含めてできるだけ冷静に見つめようとするのが現代仏教だ。
ライトの著書にはこんな記述がある。
一つ例をあげると、私は過去二〇年間のアメリカによる軍事介入のほとんどがあやまちであり、脅威に対する過剰反応とそれによる深刻化の実例だと考えているし、軍事介入を強く支持してきた人たちには腹が立ってしかたがない。そして、ある程度はこのまま腹を立てていたいと思う。瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい。しかしそのような地点までたどりつく危険性は、少なくとも私にとっては間近に差し迫ったことではない。とにかく、設問は、そうした人たちとのイデオロギー闘争を賢明かつ誠実に展開できる地点まで私がたどりつけるかどうかだ。それはつまり、私の自然な傾向より客観的に、ある意味でより寛大にその人たちを見ることができるかどうかだ。(ライト前掲書p.310-311)
これはすばらしい記述だ。 「闘争心がなくなる」などということはないし、そんな境地はどちらかといえばディストピアだ。しかし、そうした人たちとの争いをせめて「賢明かつ誠実に展開できる地点まで」たどり着きたいという作者の気持ちが大事だ。
自分の精神を完全にコントロールできるなどというのは見果てぬ夢だ。そんな方法はたぶん存在しないし、そんな仏教もない。
せいぜい、気持ちがいきずぎてたかぶるのをちょっと抑えるくらいのコツがわかればいい——そのような気持ちで本書も読む。
例えば自分は裁判をしようとしている。これはある意味で本書(『反応しない練習』)で批判されている「反応しようとする心」そのものであり、執着し判断する気満々であり、闘おうとすることであり、誰かに勝とうとする心そのものである。
だけど本書(『反応しない練習』)に従って、そういう自分の生き方をまず肯定してみる。それが自分にとっての「快」なのだと思うし。
本書では次のような心構えを説いている。
この生き方に間違いはない。
自分の中に苦しみを増やさない、「納得できる」生き方をしよう──そう考えるのです。私たちに必要なのは、自分が「最高の納得」にたどり着く
ええーっと思う人もいるかもしれないが、とりあえず本書に従っている。そう考えてみる。
本書にあるものはそのためのTipsであり使えるものは使う…そんなふうに読んだのである。
つまりぼくにとっての裁判闘争のような戦略的なもの(大状況)ではなく戦術的(小状況)なものへの対処として使うために読んだのだ。いいとこ取りをして読んだ、と言ってもいい。
例えば第1章。
前述の通り、SNSでは私のことをほとんど知らない人で、組織の幹部のいうことを盲信している人がいきなり私の悪口を言ってくることがある。これをなどはまさに第1章と第3章が役にたつ。自分の心に起きている感情を冷静に見つめてみる。相手について冷静に考えてみる。その上で、自分の反応しようとする感情をじっくり眺めてみる。
あるいは、自分が追放された後に、もともといた組織の人たちが自分について勝手な解釈をしている話をよく聞く。紙屋がルール違反したんだとか、紙屋がパワハラだと言って回っているのは嘘だとか。
そして彼らがそんな言説をどういうメンタリティでやっているのかをつい想像してしまう。そうすると頭に血が上ってきてしまう。私を追放して涼しげな顔をしている人間でじゃないか! と。
しかし、そのように相手のことを勝手に想像して自分の中でイメージを膨らませてしまうのは、本書で言うところのぼくの「判断」であり、わかりやすく言えばぼくの「決めつけ」であり、ぼくの「妄想」なのだと、本書に従って考えてみる。
もともといた組織の人たちがどんな気持ちでそれを言っているのか、あるいはどんな状況でそういうことを言っているのか、本当のところはわからないではないか、と。
そんなくだらないTipsが書いてあるのかよ! と思うかもしれないが、そういうふうに思って気持ちを流すのは結構有効なのだと、本書の効能をちょっと見直したくらいには有効なのである。
著者・草薙が結構散歩を進めているのは頷ける。とにかくやたらと体を動かしなさいと命じてくる本である。でも煮詰まってしまった時に、意識を他に向けるために体を動かすと言うのはものすごく大切なことだ。意外と役に立つ。
前掲のロバート・ライトも次のように言っている。 彼は心理学で「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ぶものについて述べている。
私たちが特に何もしていない時、人と話したり、仕事や何かの課題に集中したり、スポーツしたり、本を読んだり、映画を見たりしていない時に活発になる。意識はこのネットワークに沿って彷徨う。研究によると、意識が彷徨う時その向かう先は大抵過去か未来にある。ごく最近の出来事や遠い昔の強烈な思い出をあれこれ考えることもある。来るべきできことを思ってビクビクすることも、反対に待ち焦がれていることもある。(ライト前掲p.63)
この「彷徨う」意識のことだ。これは草薙のいう「妄想」に当たるもので、実際に、ライトも「妄想」についてなんども述べている。
ライトは「ある意味ではデフォルト・モード・ネットワークをおとなしくさせるのは難しくない」と言い「ただ何か集中を要することをすればいい」と言う。まさにこの方法だ。妄想を湧き上がらせない。(ちなみにライトは「難しいのは大して何もしていない時にデフォルト・モード・ネットワークを黙らせることだ」と言って瞑想の話をする。そちらがライトの本論だ。草薙は簡単なTipsの方を教えてくれているのである。)
うっとうしい相手からは距離をおけ、と言うのが草薙の教えだが、ぼくの裁判というの方法はこれと真逆のように見える。
うん、ある意味ではそうかもしれない。
ただ、これまで「内部の問題は内部で」と言われ密室で全て辛い査問やいじめに遭ってきたが、裁判になって初めて全てを社会に述べることができるようになる。ぼくにとっては「快」であることこの上ない。しかも相手の密室での攻撃からは逃れることができるようになり、私にとっては距離を置くことになった。
以上、都合のいいところをつまみ食いしているように思えたかもしれないし、実際そうなのだろうと思う。しかし、仏教とは無神論であり、原始の人間が動物の本能として埋め込んでしまった感情とどう付き合い、折り合いをつけるかという意識対策の技術だという原点に戻るなら、こうした部分的なTipsとして活用することが本書の一番大事な使い方ではないだろうか。
あまり生真面目に読まないことが大切な本だ。
前後の矛盾とか、じゃあ、こういう場合はどうすればいいんだよとか、全部を実行しようとするとか。