アーロン・バスターニ『ラグジュアリーコミュニズム』

 ぼくらが将来について話をするとき(ぼくら自身の将来でなくても子どもや孫たちの将来について話をするときでもいい)、たいていは「暗い」未来予想図で話す。

 あろうことか、革命(選挙による政権獲得)をめざしているぼくの周りの左翼でさえ、「はあ…20年後、この子たちはまともな職にありつけるのかね」とか「年金なんかもう出ないだろうね」「地球環境とかめちゃくちゃになってると思うよ」「世の中みんな年寄りばっかりになって…社会が維持できないような状態になってるよね」などと。おいおい、お前は自分が情熱を傾けているはずの社会変革の未来をあんまし信じてないのかよ?

 日本でのこのテの未来予想は経済・生活・家計にかかわるものが多い。だけど、ヨーロッパでは、特にヨーロッパの左派の中では、日本よりもはるかに環境に関わる未来予想とかが多いんだろうね(なんの根拠もなくて、あくまでぼくの想像に過ぎないけど)。

 日本でも斎藤幸平などは、

〔気候変動を本当に止めるための〕その際の変化の目安としてしばしばいわれるのは、生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである。〔…中略…〕もちろん、こうした生活レベルを落とす未来のビジョンが、なかなか魅力的な政治的選択肢にならないことは、百も承知だ。だが、困難であるからといって、その事実から目を背けて、選挙で勝つために、受け入れられやすい「緑の経済成長」という政策パッケージに固執することは、それがどれだけ善意に基づいていても、環境配慮を装うグリーン・ウォッシングと言わざるを得ない。(斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、KindleNo.1019-1022、強調は引用者)

と言ってるわけだし。

 本書はその暗い未来予想図を打ち砕こうとする。 

 

 

 いま進んでいる技術革新は、完全自動化で労働の欠乏をおぎない、再エネなどでエネルギーの欠乏をおぎない、宇宙開発で資源の欠乏をおぎない、遺伝子をいじって老いと健康の欠乏をおぎない、新しいタンパク食の開発などで栄養の欠乏をおぎなう…などなど、まあ異論はあろうけど、おおむねバラ色の未来を開く。

 本書の多くの部分は技術革新のバラ色を描くことに割かれている(3部構成のうちの第2部)。

 じっさい、ぼく周りの左翼の中には、こういう技術革新の未来にあまり関心がなく、どちらかといえば、そういう技術革新が現在の社会に入り込んでくることへの警戒の方が強いという人が時々いる。

 いやまあ必要な警戒はしたらいいんだけどさ。

 例えばデジタル化によって監視国家や資本による全人格的把握が進行することには必要な警戒が払われるべきだとは思う。しかし、他方で、デジタル化がもたらす恩恵や社会変革については、それなりに認識がないと、口では「デジタル化自体は必要なことです」などと言いながら、思想の根本は本当に「反デジタル」みたいな態度になっちゃうからね。

 本書が紹介する技術革新の数々は、ぼくのような門外漢にとってはまことに興味が尽きぬもので、これだけでいろいろ酒飲みの場で肴にしてみんなで盛り上がれそうである。

 本書でこの第2部が読んでいて一番読み応えのある部分、心を躍らせて読む部分である。少なくともぼくの場合。だけどそれだけだったら、まるで技術革新の紹介本みたいなことになってしまう。ビジネス書でもそんなものはたくさんある。「コミュニズム」を冠する名前の本にはできないはずだ。すなわち本書の本当の意味での意義はこの部分ではない。

 

ハンドルを左に切れ!

 技術革新がもたらす莫大な恩恵。しかし、その恩恵は、そのままでは受け取れない。その受け取りは「避けがたい未来」として自然にやってくるものではないのだ。

 選ばなければならない。選び取る政治が必要だ。

 その政治が「完全自動のラグジュアリーコミュニズム」(FALC)だ。

 こうした技術革新を無邪気に喜んで、「すばらしい未来が待ってるよ!」だけというのは、「Society5.0」であり、ぼくのいる福岡市では高島宗一郎市長がいろんなところで吹聴している方向だし、また現にそう考えてナイーブに進めている政治の中身でもある。「社会システムとしては資本主義しかないんだから、資本主義で行こうよ、この方向を加速させるだけだ」という、本書で言うところの「資本主義リアリズム」であり、「加速主義」である。

 本書は、資本主義が進める技術革新の方向を喜ぶ。そこから逃れて・逸脱したりして、別の理想社会を構想したりしない。あるいはこの動きを壊したり反動したりしない。その意味では「加速主義」の一味である。

 しかしそうやって進んでいく技術革新のハンドルを左に切る。「このまま行こう。しかしハンドルは左に!」というわけである。

 どうやってハンドルを左に切るのか?

 ここが実は本書の変革方向部分のキモである…とぼくは考える(第9章)。

 それは次のようなものだ。

  1. 選挙・投票で変える。
  2. グローバリズムに対しては国民国家という装置を使ってコントロールに参加しろ。

ということである。

 「え…当たり前じゃない?」と思う人。それでいい。

 どうしてかといえば、左派の中には往々にして「選挙では変わらない」という考えがあり、選挙による政治変革を脇に置いてしまった上でのローカルな行動や実験・実践などに「のみ」走る傾向があるからだ。著者・バスターニは、いろいろ不十分でも選挙で世の中変えようぜ、とする。

 そして、グローバリズムへの対抗をインターナショナリズムにおく。つまり、国民国家という縛りを軽視しない。国民国家をコントロールし、そこから世界の問題に関与するのである。左派の中でありがちな、国民国家への侮蔑、それはもう役に立たなくなったガラクタだ、という偏見を乗り越える。

 もちろん、バスターニのこの見解の中には、実は政党という枠組みへの批判が入っているなど、ぼくから見てそいつはおかしいんじゃねえのか、政党という中間項を否定したら人民は無力になっちまうぜ、という要素も含まれているんだが、選挙と国民国家を抜き出して擁護したのはとても正しい。そこが狂うとダメだとぼくも思うからだ。

 第10章ではFALCの根本原理、第11章では資本主義国家の改革方向が示される。いや別にそんなに難しいもんじゃない。新自由主義への対抗を意識して、次の3点に要約される。

  1. 進歩的な調達と自治体による保護主義を通じた経済の再ローカル化
  2. 金融の社会化と地方銀行のネットワーク化
  3. ユニバーサル・ベーシック・サービス(UBS)の導入による国民経済の大部分の公有化

 この3つだ(p.283)。

 この3つをバラバラに見てしまうんじゃなくて、あるいは本書に書かれている個々の案についていちゃもんをつけるんじゃなくて、共通している思想方向を感じ取るのが大事だろう。この3つが言いたいことは、経済のコントロールをできるだけローカルなものにおろしてこようという態度である。そこはぼくも共有できる。

 えっと、別の言い方をしよう。本書を批判する際に、第3部のFALCの個々の対案を批判して「ゆえにFALCには同意できない」としてしまわないことが大事だと思う。

 FALCが提起している点で大事だと思うのは、以下の2点である。

  1. 資本主義が進めている技術革新の方向には明るい未来があり、左翼としてそこは大いに進めていこうぜ、とはしゃいでいいと思うのである。左派加速主義である。
  2. だけど、技術革新がいくら進んでも、政治が変わらないとその恩恵は巨大資本が独り占めをして、どうかすれば我々を丸ごと支配し抑圧する間違った方向に使われだけになるから、政治——選挙で国政を変える、そしてできるだけローカルなコントロールを取り戻す、そういう政治をつくろうぜ。

 こういうシンプルな視点を得ることが本書の醍醐味なのだ。ぼくは左翼として、技術革新のもたらす豊穣を学び、それを生かす政治の方向を示せた点に本書の最大の長所を見出す。

 

「訳者あとがき」にみる本書への3つの批判を考える

 なお、本書の「訳者あとがき」で翻訳者である橋本智弘が本書に対する批判点3点を紹介している。

  1. 技術革新の将来に楽観的過ぎない?
  2. 選挙を特別視し過ぎていて、階級闘争を忘れてない?
  3. 「贅沢な(ラグジュアリー)コミュニズム」っていうけどその「贅沢」が何を意味するか、あんまりハッキリしてないんじゃない?

 2.は斎藤幸平が行なっている批判だとも橋本は言っている。

 ぼくなりにそれらについて言っておけば、1.は「そうだね。ちゃんと(技術の反動的利用・資本主義的利用ではなく)技術自体が内包しているマイナス面もよく考えないとね」というくらい。だけど技術革新そのものを徹底的にポジティブに書くことのインパクトは本書の魅力なのだ。

 2.は、そんなふうに言う奴こそ、選挙の大事さを忘れてない? と言いたい。選挙を通じて革命をすることが現代では大道なのだ。

 3.は、技術革新でもたらされる余剰を余暇時間の増大に回し、自由時間を増やし、そのことで人間が全面的な発達を遂げる——これが共産主義がもたらす「贅沢」の本質じゃないか? と言いたい。

 

UBSかUBIか

 さて、本書における小さな点について、最後に触れておく。

 本書ではUBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)とUBS(ユニバーサル・ベーシック・サービス)の比較を行なっている。

 UBIは魅力的な選択肢には違いないが、この間、ベーシックインカム竹中平蔵や維新の会が持ち出して、いわば「福祉を削るための方便」「雀の涙の手切れ金」扱いになっていてどうにも評判が悪い。うんまあ、BIは新自由主義者も左翼もどちらも肩入れできるものだから、そうなるのはしょうがないんだけどね。

 だから本書では、UBIよりもUBSに軍配をあげる。

ただたしかなのは、それ〔UBI〕がどんな結果を生むのかは、導入される政治環境に左右されることだろうということだ。進歩的あるいは社会主義的な政府のもとでは、きっとUBIは一般庶民に力を与え、より高い賃金を求める能力を人々に授けてくれるだろう。反対にそれは、福祉国家の市場化を完遂するための有力な手段とも十分なりうる。——つまり、新自由主義への代替ではなく、完全な降伏である。UBIは、解放をもたらしうる一方で、サッチャリズムの強化版にもなりうるのだ。(p.304)

だからこそ、UBSのほうがより望ましいプログラムなのだ。(p.305)

 UBSとは、医療・教育・住居・食料などといった人間の生活に不可欠で基本的なサービスを公共体が提供する政策のことである。本書ではユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの世界繁栄研究所(IGP)の報告書を紹介する形で次のように書いている。

NHS〔イギリス政府が運営する国民保険サービス〕やイギリスの医療モデルに近い形へと再構成すべき公共財として、医療の他に六つを挙げている——教育、民主主義、司法サービス、住まい、食料、交通、情報の六つである。(p.291)

 この範囲は固定的・決まったものではない。何をベーシックなものとするかは、政策的判断による。日本では立憲民主党がその部分版を基本政策として打ち出している。

 バスターニは、これらを地域の労働者協同組合が運営するモデルを考えている。

地域の労働者協同組合が、住宅、病院、学校を建設し、食事の提供、整備、清掃、支援サービスなどを行うに際し、国家の役割は極めて重要になる。(p.294)

 げー、そんなものを国有化・公有化・協同組合化するつもりかよ、と思うかもしれない。まあ、ぼくもその形態・範囲については、いろいろ思うところはある。

 だけど、日本でもまず田舎で始める場合は、こういうのは全然アリじゃない?

 つまり自治体が「公社」になってこういうサービスを完全に引き受けてしまい、そこに地元民を大量に雇用するのである。まあ、協同組合化してもいい。税金も投入する。そうなれば田舎で生活するメドもたつんじゃないかと思うんだけど。そしてコントロールしやすいので、経済の循環、エネルギー・食料の地産地消も成り立ちやすいと思うが。どうかな。