山口つばさ『ブルーピリオド』

 『このマンガがすごい!2019』で2018年(2017年9月〜2018年9月)のマンガのベスト5を回答した(オンナ編)。

 「オンナ編」しか選んでいないので、では「オトコ編」でトップを選ぶとしたらどうなるか。(実は1つだけアンケート回答しているのだが、それは除外して考える。)

 

このマンガがすごい! 2019

このマンガがすごい! 2019

 

 

  それは山口つばさ『ブルーピリオド』(講談社)だろう。

 勉強もそこそこできるし、私生活もリア充っぽい男子高校生・矢口八虎が「絵を描く」ということに突如取り憑かれ、美大を目指し始める物語である。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

 絵は下手でもいいなら誰でも描ける。それだけでなく、絵を見て「これはうまい!」ということも誰でもできそうである。

 いや……ホントにできるのか?

 ネット上で「ものすごく上手い絵」というのが賞賛される記事やツイートが流れてくることがあるが、それは「写真のようだ」という上手さであることが多い。例えばぼくのような素人が「写真のような」絵を描けば、「上手い」と言われるだろう。

 じゃあ、「写真のような」絵を描くことが「上手い」ということだろうか。

 ピカソの絵*1は「写真のような」絵ではない。

 このあたりに来ると次第に「絵が上手い」ということの輪郭が、ぼくの中でぼやけ始めてしまう。『ブルー・ピリオド』の冒頭は、ここから始まる。

 ピカソの絵は何が「上手い」のか?

 いやそもそもそれは「上手い」のか?

 あれなら、自分にも描けるのではないか?

 本作は、絵が「上手い」、あるいは絵が人に感動を与えるとはどういうことか、それを八虎が絵を学んでいくプロセスをロジカルに追うことで明らかにしている。というか、絵について素人であるぼくのような読者に話しかけるように物語っていく。

 読者の中で実際に絵筆を持って絵を描き始めるという人は少なかろう。だけど、例えば美術館に行って、絵の前に立つことは、日常の中で頻度は高くないとはいえ、あることだろう。

 だから、八虎が美大予備校の友だちと美術館に行く時の話は、ぼくらにとって「実践的」である。

 美術館の絵ってどう見たらいいんだ? ということに対する問いである。

 友人の橋田悠(はるか)は、絵を全部見る必要なんかないんだ、もっと自由に見ていいんだとまずぶちかます

 橋田は、自分が絵を買い付けるつもりで見てはどうかと提案する。その提案を受けて、八虎は解説を「全部正しく覚えなきゃ」という思い込みから解放される。金を出す、生活を共にする、自分のものにする……という基準が八虎の中にできる。

 鑑賞がずっと自由になるのだ。

 もし、そういう基準にしたら、「写真みたいな」絵を選ぶんじゃないのか。「えっ、これ絵ですか? 写真みたいですね〜」って驚かれたいから。

rocketnews24.com

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 絵画鑑賞を印象と知識の二つの柱で考えた場合、最近の世の中の流れはどちらかといえば、後者を重視する方に傾いてきている。『武器になる知的教養西洋美術鑑賞』『名画の読み方』などといった本が書店の店頭に並んでいるが、これらはどれも西洋絵画のバックボーンである歴史やそれにともなう約束事を教える体裁を取っている。

 

「色がきれい」「名画はやっぱりいいなぁ」

あなたは名画を前に立った時、そんな感想を持っていませんか?

こうした「感性を重視した鑑賞」は、とても大切です。

ですが、同時に実にもったいない。

なぜなら、感性に頼っている限り、どれだけ多くの作品を鑑賞しても、

「西洋美術の本質」には触れられないからです。

(秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』の「商品説明」より) 

 

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

 

 

 中山公男『絵の前に立って 美術館めぐり』(岩波ジュニア新書、1980)は、やはり絵画を印象で捉えることと、同時にそれを知的に読み解くという2つの柱を立てるのだが、タイトルが示すように、まず絵の前に立つこと、印象の重要性を説いている。

 

絵の前に立って―美術館めぐり (1980年) (岩波ジュニア新書)

絵の前に立って―美術館めぐり (1980年) (岩波ジュニア新書)

 

 

 中山はその理屈をこう述べる。

 

 感覚とは主観的なもので、したがって相対的なものでしかない。しかし、すぐれた芸術家は、そのような主観性――つまり、その芸術家が生きている時代や社会の動向もふくめた個性や気分――を尊重し、それらを根拠としながら、そこから普遍的なものをみちびきだしてくれる。画家の目は、私たちを、別な時代、別な国、そして別な感じ方へとみちびき、同時に、そこに普遍的なもの、人間的なものをみいだすのを助けてくれる。(中山同書p.2)

 

 

 つまり、ある歴史的な時代にとらわれない、どの時代にも共通する人間の本質的なものが名画にはあるはずで、それを感じろと言っているのである。今流行りの歴史を読み解く作業とは正反対だ。

 だけど、これをやるのはなかなか難しいような気がする。

 それよりは、『ブルーピリオド』の中で橋田が述べているようなことの方が指針となる。

 

 橋田の唱えた名画鑑賞法は、“絵画の中に普遍的なものを見出せ”という中山公男の主張よりは、誰でも実行しやすい、はるかに「実践的」な方針である。

 そして、絵画に対しての距離を自由にしようとしている。

 絵、特に絵画(西洋絵画)は、ぼくらが考えているよりももっと自由なものだということだ。

 夏期講習で自由に絵(油絵)を)を書いてみるという課題を与えられた八虎は、周囲の予備校生たちがカンバスを削り始めたり、テープを貼り始めたりする姿を見て呆然とする。え? ここは油絵をやるところじゃないの? と。

 そして八虎は同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。

 

また表面的なところで思考停止するところだった

画材って絵の具とオイルのことだと思ってた

 

絵って思ってたよりずっと自由だ

 

 

 この「自由」という言葉を最近どこかで聞いた。

 そうだ、石塚真一の『BLUE GIANT SUPREME』だ。

 空港に置かれたピアノで、有名なクラシックのピアニストと連弾したジャズピアニストの演奏を聴いて、自身もピアノを弾くオーディエンスの一人が、

 

ジャンルをのみ込んで、

自由に表現できて…

ピアノって

こういう楽器だったんだ…

 

と再認識させられる。自分がピアノ弾きであるにも関わらず、ピアノという楽器の自由さに驚かされるのである。

 

 

 

 芸術に形式はある程度必要なものかもしれないが、その形式の中にある本質に触れ、形式の四角四面さを打ち破る時、自由さを感じるのだろう。そしてそれが本質や普遍性に触れるということでもある。

 絵の自由をどう取り戻すのかということが、創作する側にも、鑑賞する側にも求められるし、それがテーマになっている。

 

 だから、『ブルーピリオド』に出てくる女装男子・鮎川龍二の姿や言動からぼくは目を離せないでいる。

 2巻末に載っている鮎川の自由さはなかなかにシビれる。文化祭の出し物が「悪ノリ」で決まることに抵抗し、そう発言する鮎川。「やば 空気読む気ないじゃん」とつぶやく八虎。鮎川が皮肉っぽく返す。

それで何も言わないなら

君は空気そのものだね

  空気であったことが八虎のそれまでの人生だった。そこから自由さを取り戻すということが絵画であり、絵画とは自由なものなのだ。

*1:ピカソの絵」って言ったって、いろんな時代があるけどね。