浜谷直人編著『仲間とともに自己肯定感が育つ保育』

 保育園で娘が積極的に挑戦しない、ということが問題視されている。いや「問題」というと、非行少女みたいだけど、そういうことではない。問題のある典型、みたいな感じ。
 うちの娘は6歳で、マンガが大好き。だからマンガばかり読んでいるし、マンガばかり描いている。イラストというよりマンガだ。
 こう聞けば「好きなことに打ち込んでいる。いいことじゃないか」と多くの人が思うだろう。ぼくだってそう思うわけだ。
 好きなことばかりして遊んでいる。好きな友だちとずっと遊んでいる……何の問題もないし、健全そのものの幼児の姿に思えるだろう。


 だけど、保育者、専門家の目から見ると、それだけでいいのか、という問題意識があるというのだ。
 すなわち新しいことに挑戦できない。そして固定的な人間関係の中だけにとらわれていないか、ということ。
 否定的に書くとわかりやすいかもしれない。
 新しいことに挑んで失敗したくない。失敗する自分をさらけだすのがイヤだ。それで自分の評価を下げたくない。自分のポジションやクラスでの自分の居場所を失いたくない。そういう気持ちである。
 固定的な友人関係、というのも、この裏返しである。凝集性のある人間関係は、他者の排除を含み、その集団から外されると自分の居場所がなくなることを恐れる気持ちと一体になっている…という考えである。


 えーっ、とか、おいおいおいおい、とか思うかもしれない。まあ思うよ。俺も思わないでもないもん。


仲間とともに自己肯定感が育つ保育―安心のなかで挑戦する子どもたち だけど、ぼくはいったん保育園側・保育士側の気持ちになってみたいと思っていた。そんな矢先に、新聞で本書の広告をみつけたのである。タイトルにある「自己肯定感」というのは早い話が「自信」のことだろうと思った。また、サブタイトルに「安心のなかで挑戦する子どもたち」にあったので、ははあ、挑戦ということの問題意識がここにはあるし、それに人間関係がからめられているなあ、と思い、内容もあまり見ずに買ってみたのである。

なぜ挑戦できないのか

 この本の問題意識は、
・挑戦できない
・その理由として自信=自己肯定感がない、
ということにある。

思えば誰の人生も、振り返れば挫折と失敗の連続です。ときどき、幸運に恵まれて努力が報われることがあるにしても、思った通りにはいかないものです。でも、生きづらさを感じている大学生も子どもも、そうは思っていません。失敗は許されない。必ず成功しなければいけないと、いつも思っているように見えます。(本書p.3-4)

保育園や幼稚園(以下、園)に行って、子どもたちを見ていると、まちがわないように、遅れないように、認められたいと思って窮屈になっている、そう感じる子どもによく出会います。(本書p.4)

単純な想定を打ち壊す

 ここまで書くと、どういう解決策になるのか、予想がつくかもしんない。
 じっさい、この本の著者たちは、現場の保育者ではなくて学者先生なんだが、次のような予想をたてた。

少しおどおどして引っ込み思案で、目立たないけど、ときどき心配なことをしてしまう、そんな自信のない子どもがいたとき、丁寧に個別に対応して、できることを着実に増やして、そのことをほめてやり、それをみんなで認めるようなクラスをつくっていく。そうすれば、自信のない子どもはしだいに自己肯定感を持つようになる。(本書p.142)

 「ほめてのばす」とかいうアレ。
 しかし、このイメージは、保育実践の前に、覆されていく。
 学者たちが保育の現場の実践をいくつも集め、それを分析していくことで、もともと自分たちがもっている単純な想定をうちこわしてく。本書はその破壊のプロセスである。

しかし、執筆者が実践事例を持ち寄って、各章の事例をみんなで検討すると、そういう自信のない子のイメージは単純すぎて、しかも、狭すぎるということがわかりました。また、子どもが保育の中で自信ができるようになることについて、その理解では浅薄すぎることもわかりました。(同前)

「できる子」の自信のなさ

 1章で登場するカズくんは、「クラスの子どもたちから、頭がよくて、何でもできる子として一目置かれ、クラスのリーダー的な存在でした」(p.21)。しかし運動は得意ではない。だから、「できない姿」を見られたくない、という思いで、運動や遊びには積極的に加わらない。あるいは小さいズルをする。
 とくに、運動会の練習で線の内側をルール違反して走ることがある姿が見られる。そのことについて、保育士とクラスの友人たちがカズにどう対処するのかが面白い。具体的には実際に本書を読んでほしいのだが、「みごとな保育士の保育実践」というより、偶然をうまく生かしてクラスの友人たちの中で解決されていくのであるが、その偶然をうまくこわさないセンスだけが保育士の、専門家としての面目躍如だといっていいと思う。
 「ほめてのばす」という単純なテーゼはおおむねいいと思うのであるが、そこにひそんでいるあやうさについてぼくは本書のこの実践を通じて考えてしまう。

子どものできる一面だけが取り上げられたり、うまくできた結果だけが認められるような環境では、子どもは結果にこだわり、できること以外の場面を避けるようになってしまいます。また、その子どもの一面が強調されることで、周囲の目も、それがその子のすべてであるように錯覚してしまい、あの子はできるというイメージができあがっていきます。そのことが、子どもをさらに追い込み、できることへのこだわりを強くしていきます。そして、弱い自分、できない自分を出すことができなくなってしまいます。(p.30-31)


 いまぼくの娘のクラスは運動会にむけて、跳び箱と逆上がりと棒のぼりをやっている。
 そこには「できる」ということへのこだわりがなければ、モチベーションも生まれようがないことは容易にわかる。実際、ものすごいプレッシャーだなと思うほどに、娘は「できる」ようになろうとしている。ぼくでさえ小学校中学年ぐらいにできた「棒のぼり」をやりとげてしまおうとしている。クラスの表にシールが貼られている。ちょっと過酷ではないかと思うほどに。
 しかし、ここでは「こだわり」への批判が書かれている。
 娘が通う園でも、「できる・できない」だけで子どもを見てしまう子ども観は保育者から批判されている。さらに極端になると「早くできるかどうか」という基準でみてしまうことがしばしばあって、その見方も批判される。
 だけども、ここには明らかな矛盾がある。
 こだわりのないところにモチベーションも成長もないけど、その固執も批判されているからだ。
 この矛盾はどう考えられるべきなのか。

できない自分に向き合えない

 その答えは、ひとつは、「できない自分に向き合う」ということができるかどうか、ということである。
うちの娘は、どうぶつ将棋をぼくとやっていて、負けが込むと将棋をぐちゃぐちゃにしてしまうことがある。「負け続けている自分」を認めたくないからである。なぜか知らないが本人は「自分はクラスで頭がいいという評価を受けている」という自己認識があって、そういうイメージを傷つける現実に耐え切れないのであろう。「挑戦しない」という姿も確かに自己イメージを損なう、という思いが裏にあるのかもしれない、と思い当たる。

年中から年長クラスにかけて、子どもたちは、コマ回しのような技術を磨く遊びに熱中するようになります。自分自身の成長を振り返り、前よりもできるようになった自分を誇らしく思えるようになった証といえるでしょう。/一方このような技術を磨く遊びは、「できる、できない」がはっきりと現れます。どの子にとってもできない自分に向き合うのは大変なことです。なかでも、「できる自分」にとらわれている子どもにとって、「できない自分」を他者の前にさらすことは容易なことではありません。(本書p.73)


 うちの娘も、ぼくに似て手先の技術系遊びが弱い。遺伝とかいうんじゃなくて、ぼくもつれあいも熱心にしないから、家でもそういう遊びが少ないせいだと思うが。

「ごめんね」が言えないのも同じ根っこから

 本書の中では「ごめんね」が言えない子どもについても書かれている。親としては「ほら、ごめんねって言いなさい」とつい形式からうながしがちなものである。もちろん、謝罪という文化を形式から伝えることは意味のないことではない。そもそも表現方法を知らないと困るし、知っていてもすっと言えるようになるためには「慣れ」も必要だからだ。それをふまえたうえでの謝罪というものの内実をここでは問題にしている。大人としては「いちいち本気で謝っていたら身が持たない」という思いが強いから、どう本気で謝っているように見せるか、たとえばネットなどでは記者会見での謝罪シーンの表現形式にばかり目がむいてしまうけども、子どもにとっては出発点として謝罪の本質を考えないとやはりエラいことになってしまうだろう。

子ども自身が心から「ごめんね」が言えるということは、自分が実際してしまったことから逃げず、向き合い、やってしまったことを認められるようになるということです。先生に怒られるかもしれない、認めてしまったら友だちに嫌われてしまうかもしれない。いろいろな不安の中で、それなら「ごめんね」は言わない。そう思っていた子どもが、まさに陸斗くんでした。(本書p.102)

自分に自信がなくて、謝ってしまったら自分が悪いことをしたことになってしまう。もしかしたら、自分自身を否定されるのではないかという恐怖さえあったかもしれません。不安な気持ちが非常に強く「ごめんね」を言った後の友だちとの関係を想像できなかった陸斗くんにとって、自分自身がやってしまったことと向き合うのはとても大変なことでした。(本書p.103)


 ここでも、自分の失敗に向き合えない子どもが登場する。挑戦しない、という問題と同根の問題だというわけである。
 しかも「謝罪する真心がないからだ」というふうに問題が立てられていない。そういうふうに問題を立ててしまうと、「ごめんね」がいえない子どもは、「真心」を持っておらず、相手をないがしろにしている、ということになってしまう。

自信や謝罪を「単体」の心の問題として扱う罠

 失敗に向き合う、できない自分に向き合う、ということは、どうやったらできるのか。「失敗」とか「できない自分」というものが物理的に存在し、その物理的な場所に向かって子どもの首を固定し、目を見開かせる装置をはめたら「向き合える」ような気もするが、そうではない。
 あるいは、くどくどくどくど、親がそれを言語化して指摘することであろうか。
 ぼくたちがハマりがちな罠というのは、「できる・できない」という問題をその子単体の問題としてとらえてしまうことだろう。同様に「あやまれない子ども」を「謝罪の真心」という具合に、やはりその子どもを孤立して、単体的にとらえてしまうところにある。
 前者は「できる・できない」問題として家庭・親へのプレッシャーとなって現れ、親を家庭での能力開発への投資に駆り立てる。後者は、「真心」を「育てる」道徳教育への一方的な強調や場合によっては「心という商品」への投資をあおる結果となる。つまり親はついつい子どもを能力においてもその心においても単体としてそれをとらえてしまう罠に陥りがちなのである。


 本書は、単体としての子どもという狭いイメージを破壊し、たえず集団の中での子どもの問題に引き戻す。
 本書では、「できない自分、弱い自分をさらけだせる人間集団としてのクラスづくり」をどうやって行なえるかという問題意識を貫いている。
さて、そう聞いたからといってそんなクラスづくりがどうやったらできるのか、わからないだろう。クラスの前でホームルームの時間にみんなの前で「さらけ出さされて」いたたまれなくなった地獄を思い出すかもしれないが、そういうことではない。

固定的な人間関係を流動化する

 そこからは賛否両論あろうとは思うけど、本書の中で行なわれている一つは、クラスでの「固定的な人間・友だち関係」をできるだけ流動化するという実践である。同じ人間集団での同じ遊びが繰り返されると、たしかに居心地はいい。楽でもある。反面、見せる能力は固定化され、仲間にむけるまなざしは単純なものになりがちだ。
 それが流動化されることで、人間の能力の多様な面が浮き彫りになり、仲間にむけるまなざしが多様なものになる。

クラスのなかで関係が固定化し、決まった子どもだけが活躍するのではなく、遊びや活動に応じてそれぞれの子どもが活躍できるようにしたのです。「ある活動でちょっと失敗したり、悲しい気持ちになっても、こっちの活動は得意だからみんなに認めてもらえる」そんな感覚があれば、ある場面でうまくいかなくても、悲しい気持ちになりにくくなります。その失敗場面だけで自分自身が評価されることはないと安心できます。そうなれば苦手な場面を避ける必要がなくなります。「むずかしそうだな」「苦手だな」と思える活動へ、挑戦することができるようになります。(本書p.68-69)

ウルトラマンごっこ」に熱中する5人組を「流動化」

 本書第3章では、「ウルトラマンごっこ」に熱中する5人組の子どもグループが登場する。ウルトラマンは暴力的で商業主義的だからいけない……というのでは無論なく、イメージを共有する遊びとしての楽しさは評価しつつ、「できる・できない」が問われない技能的な遊びへの挑戦が妨げられ、そこにいることが楽でもあるし、そこから出ていけない不安と表裏一体のものではないかと保育士は考えたのである。
 この章の執筆者は、「成功体験を用意して、自信をつけ、自己肯定感を高めてあげると、うまくいくのでしょうか」(p.60)という問いかけをし、そういうやり方ではなく、仲間関係の流動化によってクラスが安心できる活動の場になることで、挑戦を引き出そうとしている。
 「ウルトラマンごっこ」に興じる5人の子ども、というのは、どこからどうみてもほほえましいもので、そこに問題性を見出すことすら、ぼくら普通の親には困難である。
 もちろん、この集団を保育士が暴力的に解散させるのではなく、他の遊びの声かけをしたり、友だちの誘いを組み合わせたりして、「自然に」解体、というか流動化させていくのである。
 

ある活動だけで評価されることがなく、得意な活動でも苦手な活動でも自由に行き来できるからこそ、一つの活動や人間関係に固執する必要がなくなるのです。保育のなかでの安心とは、こんなふうに、自分の役割や立ち位置が固定化されることなく、流動的に移り変われることなのかもしれません。(本書p.71)


 「保育のなかでの安心とは」と大上段にかまえてその答えを「自分の役割や立ち位置が固定化されることなく、流動的に移り変われること」だとまで言い切ってしまえるほど、この問題が要をなしていると考えているのかと、ぼくはびっくりした。

リレーのできる子をアンカーから外す

 もっと驚いた実践は、第4章で、ここではリレーが得意な2人をアンカーから外すという方針を保育士自身が繰り返し、意識的にとっていた。

保育者は、このまま二人をアンカーに選んでしまっては、できる自分を仲間に見せることにしかならず、二人にとっての成長につながらないと考え、くり返しアンカーから外すという方針をとりました。(本書p.79)

保育者は、タカシくんの「自分だけががんばればできる」あるいは「自分だけがカッコよかったらいい」といった閉じた自信を、「まわりの友だちの力があるから自分は楽しい」といった、関係性のなかにひらかれた自信に変えていきたい、と考えていました。(本書p.79-80)

 ここでは、「できない子ども」の能力発露としての「できる子」のアンカー外し、ではなく、「できる自分を仲間に見せることにしかならず、二人にとっての成長につながらない」という具合に「できる子」の成長としてのアンカー外しがおこなわれている。

ところで、いくらリレーの練習をしたとしても、足の遅い子どもが急に速くなることはありません。結果、足の速い子どもは他者に対してくり返し「できる自分」を見せ、足の遅い子どもは「できない自分」を見せ続けることにもなります。(本書p.81)

 このために保育者がクラスのなかでおこなった実践は、カードゲームなどによって、別の能力や輝きを発揮する場面を用意して、ちょっと言い方がアレすぎるかもしれないが、リレーが速い子たちが到底およばない姿を見せつけるということだった。

結果的に、タクミくんのできる姿(カードゲームが得意である)に気づかせるとともに、シュンくんやタカシくんにとってもできる自分(運動面)とできない自分(カードゲーム)の両方があることを気づかせる機会となっていました。(本書p.81-82)

 この実践はこの二つの側面だけとらえて紹介すると、「できる子とできない子の平等な能力発揮機会の提示」の話のように見えてしまう。そういうふうに問題をとらえると、「リレーで順番をつけない」うんぬんのような話になっていってしまう。
 この実践の前提は、リレーができる2人は体を動かす競技は得意なのだが、コマを回すような技能系の遊びが苦手で、その苦手さを隠すために、クラスの前から消えてこっそり練習する、という態度に保育者が注目したことにあった。
 まあ、こっそり努力すること自体を保育者は否定しないだろうけど、「クラスの前で『できない自分』をさらけ出せないクラスの人間関係」という点に問題の中核を見いだし、「少なくともリレー問題では2人にモノが言えない非民主的な人間関係」を問題にしているのである
 したがって、この後、この実践は、リレーができる子が、足の遅い子が全体の足を引っ張ると一方的に非難するのをクラス員が反論していく事件や、リレーができる子が何かの遊びのときに「おれ、できないかもしれない」と弱音をもらし、「失敗は成功のもとでしょ」などとリレーができない別の子に励まされている様子などを紹介する。すなわち、民主主義的に自分の思いを伝えられる空気や、できると目されている子どもが安心して「できない自分」をさらけだしている一瞬を紹介するのである。

そこには、子ども一人ひとりが自分自身を安心して表現できる空間を確保する保育者の配慮と、また固定化しがちな人間関係を組みかえていった保育者のねばり強い関わりがありました。(本書p.86)

年長になった時には、子どもは自分で、どういう友だちと組んで活動するか判断できるように育ちます。活動が最大に楽しく充実するために、園生活でのパートナーを自分で選択することができる力を育てること、これが保育の重要な目標ではないでしょうか。(本書p.150-151)

 この本を編集した浜谷直人は、「自由に遊ぶ」という方針が単なる放任を意味するのであれば、子どもはしばしば同じ子どもとしか遊ばなくなる、その結果「自分のやりたいことよりも、一緒にいたい人を優先している子ども」になってしまう、と危惧する。
 ところが、具体的なイメージがあるとき、たとえばリレーで勝つとか劇を成功させるというときは、「仲良しの馴れ合い」ではなく、真剣にそれを成功させる相手を選ぶものである、という子どもの目の色の違いを指摘する。

活動に応じた友だち関係の組み換えを経験することで、子どもは、友だちの持ち味のすてきなところに気づくことになります。そうすることで、子どもはお互いに自分のことを友だちが認めてくれている。自分は、このクラスにいていいんだという、深い安心感が生まれてきます。それが自己肯定感の根っこになっていくのではないでしょうか。(本書p.150)

娘の小さい変化

 結局、ぼくの6歳の娘は、いまこれを書いている時点で、運動会でやる跳び箱・逆上がり・登り棒ができるようになった。朝早く保育園にいって練習したい! という程度には挑戦の気持ちが出てきた。「きょうは逆上がりができなくなった」「跳び箱が3段しかとべなくなった」と、仕上がりの不安定さを見つめられるようになった(泣いていたが…)。
 だけど、「まだできていない自分」に向き合って、練習を重ねて次第に安定にむかっていったし、保育士から園での様子を聞くと、「教え合いっこ」をしているのである。「鉄棒はこぶし4つ分くらい開くといい」とか「かけ声はこう」とか。保育士ではなく、同じクラスの仲間からのアドバイスの方がわかりやすいのだという(驚異的な話だが)。それから、「(いつもは全然目立たない)Sちゃんは18回連続で逆上がりができた!」と興奮して親に報告し、素直に人の成功に感心している姿をみかけた。本人は1回やるのがやっとこさなのに。
 前に、保育参加で園にいったとき、娘があやとりをぼくに教えようとして全然うまくいかなかったときに、他の子が「こうだよ」と教えようとしたら「教えんでいい!」と娘がその子をつきとばしたことがあった。
 あと、七夕の短冊に他の子がみんなのことを書いていたのをみて、ぼくとつれあいで「すごいねー」と感心していたら、娘が泣いたことがあった。友だちが親に評価されたのを見て、自分が劣ったもののように評価されたのだと感じたのかもしれない。
 そういう姿からするとずいぶんと変わったなと思える。
 しかし、この前、グーグルの15周年で「棒で布袋をたたくと落ちてくるアメの数を競う」というちょっとしたゲームがウェブに出たとき、娘は4個しか落とせず、2回目やろうとしなかった。「ハイスコアが出せない自分」をさらけだしたくなかったわけで、まあ運動会の練習の成功体験があるからといって、それで何もかも変わるというわけではないのだなと他方で思う。
 それでもこういう運動会の練習の経験は、一つの自己肯定感の小さな変化にはなったに違いない。

俗流の教育論を自己点検するために

 この前、床屋でそこの主人と話になったのだが、ぼくの通わせている園は「リレーで順番をつけないんでしょ」と言われた。これは事実認識として間違っていて、順番をつけるリレーもあるし、相撲で強弱基準の選抜をしたりもする。
 順番がつくというのは強弱の序列をつくるというスポーツのエートスであり、スポーツの暴力性を導入するかどうかは、教育の場面場面の必要に応じて取り入れたらいいとぼくは思う。だけど、何の考えもなしに序列をつけ、それが実社会の競争の厳しさを教えているのだと錯覚するような単純さは勘弁してほしい。床屋だって、順番なんかつかないだろ。市内で来客数の順番は自然についているのかもしれないけど、それを個々の床屋が知っているわけでもないし、「生活するに必要な客がいて、その客が十分に満足しているかどうか」という基準で何が悪いのだろうか。
 インターネットでときどき話題になる教育や子育ての「ライフハック」なんかもそうだけど、俗流の教育論・子育て論の乱暴さにクラクラするときがある。一片の真実をふくんでいるからそういうテーゼはしぶといし、人口に膾炙しやすい。だけど、いつでもどこでも使える「普遍の真理」みたいに押しつけられると、本当に暴力的に作用する。やめてほしい。


 この本から学んだことは、自己肯定感をめぐる細々した実践やテクニック、テーゼのことではない。ぼくは保育者でもないし。自信というものが単体の「自分」の中に孤立して生じるものでもないし、その挑戦の下地となる「できない自分に向き合う」ということも、単体としての「自分」ではないということ、それを学ぶ。「できない自分」を安心してさらけ出せる民主的な集団の中に自分がいるかというものと密接にかかわっている。


 自分の中の何もかもがこの本で覆されたわけでもないし、同意できない、美しすぎる物語ではないか、と鼻白む気持ちもある。しかし、保育の専門性の立場から自分の俗流の教育論や子ども感を点検する、いい機会にはなった。