昨年ぼくは「ご飯論法」の命名者の一人として流行語大賞をいただいた。「朝ごはんを食べましたか?」という問いに、米飯は食べていないがパンは食べたという事実を隠して「ご飯は食べておりません」と答弁する……このタイプのごまかしを安倍政権がやっているのではないか、という欺瞞の告発が形になったものが「ご飯論法」というネーミングであった。
だがぼくの方の受賞はおまけみたいなもので、実際には、共同受賞した上西充子・法政大教授がこの手法を見抜き、暴いたことがまさに受賞の中心である。
受賞の時に会場の近くのスタバで初めてお会いしたが、その時も、上西はこの論法が従来の霞ヶ関文学による単なる「ごまかし答弁」「あいまい答弁」とはどう違うかを厳密にぼくに語っていた。ぼくのツイッターのタイムラインに上西のツイートが流れてくるが、“リベラルっぽいツイート”に雰囲気で同調したりせず、言葉を緻密に分析する言語感覚の鋭さがある。
まあ、「ご飯論法」という批判の実体を99.9%作った上で、命名だけの部分を律儀に区別して、ぼくに受賞の栄誉を浴させてくれるなんていうこと自体がその緻密さの現れだと思うけど。
その言語感覚の鋭さを縦横に発揮したのが本書である。
まるで魔法のおとぎ話のような題名だが、職場で、家庭で、政治の場でぼくらを一瞬して縛り、動けなくしてしまう「呪いの言葉」が本当にあるのだ。
「嫌なら辞めれば?」「デモに行ったら就職できないよ」「母親なんだからしっかりしなきゃ」「野党はモリカケばっかり」……その「呪い」をどう解くのかを本書で考察する。
呪いが解ける瞬間
ぼくが注目したのは、彼女自身が自民党議員から「捏造」にかかわる攻撃をされたくだりだ(p.156〜)。
裁量労働制の実態をめぐり、安倍首相が“裁量労働制で働く人の方が一般労働者よりも「平均なかた」で比べれば労働時間が短い”という趣旨の答弁をしたものの、実はその「根拠」となったデータは政権の方向性に合わせて都合よくねじまげたものだったことが判明し、安倍は答弁を撤回した。
しかし厚労省側はデータを撤回したものの、一番本質的な点では謝らずに、非常に瑣末的な部分についてのみ謝っていた。
上西は、これに対して
この比較のデータが、うっかりミスで作れるようなものではないこと、これは政権の意図に合うように「捏造」されたものと考えられること、この比較のデータには、捏造と隠蔽の痕跡が多数認められること、そして同年二月の問題の表面化以降に政府が不誠実な対応を繰り返したことを、連載記事で示そうとした。(本書p.165)
……ここまで「意図した捏造」と指摘するからには、「捏造を指示した連絡」などがそのうちきっと証拠として示されるものと期待してます。
このシリーズで上西教授が改めてとりあげている論点は、「その不適切な表の作成が、誰かの指示により意思を持って捏造されたものなのではないか」にあるのだと認識しています。ひらたく言ってしまえば、総理なり厚労相なりが指示して捏造したのではないか、と疑われているのでしょう。
橋本は、上西が連載記事であたかも「指示」という言葉を使っていたかのように引用符(カギカッコ)を使って誤解させ、“捏造を指示した連絡が出てこなければお前=上西の言ったことはデマじゃねーの?”と言わんばかりの圧力をかける。
ぼくだったら相手のロジックにハマって動けなくなっただろう。しかし上西は、相手が呼び込もうとしている土俵の欺瞞を見抜き、打ち砕く。
上西は、相手が“捏造を指示した文書の有無”に土俵を持って行こうとしていることを見抜き、自分がそのようなことを書いてはいないと正確に事を分ける。その正確さはまさに上西の面目躍如たるものがある。
さらに弁護士らに相談し、記者会見を開くところまで準備を整える。
問題は単にやりすごすのではなく、不当な圧力に対してきちんと異議申し立てをすべきだと、この中原さん〔東京過労死を考える家族の会――引用者注〕の姿を見ていて私も思った。(本書p.171)
橋本はあわてて表現の周辺を削除したり、修正したりする。
しかし、上西は次のように判断する。
そうしている間に、カギ括弧内が引用ではない旨を追記したとの連絡が橋本議員からツイッターで入った。けれども、それが引用ではないことが追記されただけで、カギ括弧はつけられたままだった。その修正についても記録を保存したうえで、記者会見はそのまま開くことにした。削除や修正があっても、最初の投稿の事実が消えるものではないと、助言されたからだ。(本書p.171-172)
ここも上西らしい厳格さだ。スタバで話を伺った時の上西を思い出す。
そして記者会見で、同席弁護士からこれは政治家による「学問の自由」の侵害だという指摘を聞いて、それ自体が上西自身になかった観点だと気づく。
相手の土俵を打ち砕く、まさに「呪い」が解かれる現場を見る思いがした。
このエピソードには、本書で書かれている“呪いを解く”という点で重要な問題がいくつも詰まっている。
理論武装
一つは、“呪い”を解くためには、理論武装、学ぶことが必要ではないかということだ。
巻末に「呪いの言葉の解き方文例集」という“一口切り返し”が載っている。確かに「呪いの言葉」はまるで通り魔のように突然どこからともなくやってきて、ぼくらを傷つけ、支配する。自分が傷つかないようにするためには、とっさに切り返すことは結構大事なことだとは思う。
しかし、根本的には、その呪いが持っている「実感」の強さ、「理論」的体裁の強度を打ち砕く知性がないと呪いは解けないことを、上西の本書は物語っている。
例えば、本書のp.38からある、「そんなことをしたら店が回らなくなる!」的な呪い(経営側からの過剰な要求にも労働者は従う義務があるという呪い)については、上西はドラマ『ダンダリン!』の主人公・段田凛の言葉を紹介しながら、労働基準法をはじめとする労働法の精神を解いていく(労働条件を壊すような過剰な要求には従う必要がないし、労働者自身がそれを主体的に変えていける)。逆に言えば、労働法を知らなければ、この呪いは解けないのである。
先ほどの裁量労働をめぐるエピソードでは、相手の土俵の欺瞞を見抜く論理の力、これが学問の自由への侵害だと認識する力、相手の“修正”に腰砕けになってしまわない戦略力などだ。そうした知恵がなければ呪いは解けない。
サポートの存在
二つ目は、その知恵は、必ずしも一人ではなく、他人からのサポートや気づきがあって初めて得られるものも多いということだ。
先ほどの裁量労働をめぐるエピソードを見ても、上西でさえ気づかなかったことは少なくない。記者会見でしっかり異議申し立てを行うこと、相手からの“修正”があっても最初の投稿の事実は消えないこと、これが学問の自由の侵害にあたることなどは、他人からの助言・指摘を受けて、初めて気づいている。
一人で気づきを得ることは難しい。
たとえ気づいたとしても本当にそれでいいのか、自信をもって主張し続けられるかはわからない。相当厳しいと思う。
ぼくも、高校生の頃、全く組織とか仲間とかを持たずに、学校の校則押し付けに反対しようとしていた時、教師から一喝されて、泣きながら作ったビラを廃棄したことがある。自分のやっていることは間違っていないと思うだけに、誰からも肯定されないしサポートされない不安によって、ぼくは涙を流しながら自分の信念を破棄せねばならなかったのである。
しかし、いったん組織(サヨ組織)を知り、知り合い・仲間ができたとき、自分の主張と行動にびっくりするような力強さが生まれた。同じことを主張していても、そこには理論の裏付けがあるし、自信がなくなりそうな部分をいろいろサポートしてくれる仲間ができたからである。
ぼくは、この一つ目の部分は本書でいう自分の中から湧き上がってくる「湧き水の言葉」、二つ目の部分は他人から励まされたり気づかされたりする「灯火の言葉」に対応するのではないかと思って読んだ。
どうしたら「湧き水の言葉」を得られるか
ただ、上西のいう「湧き水の言葉」はもっと奥深いもので、自分の生き方の肯定によって得られる確信を意味している。それを理論武装によって得られることもあるであろうが、上西が紹介しているのは、『カルテット』というドラマを題材にしたもので、「自分の生きかたを自分の言葉で肯定す、受け入れ合う」(p,253)という自己肯定である。このドラマに出てくる人たちは別に勉強して理論武装したわけではない。登場人物の4人が支えあうようにして生きかたを認めるのである。
呪いというのは、ある種の生き方の否定であり抑圧なのだから、そのような呪いにかからない肯定感があれば、呪いはかけられないのだとも言える。たとえ反論できなくても、「何言ってんだコイツ? アホなの?」と思えれば、呪いにはかからない。
アカネチャンのような態度。
だが、それを方法論として示そうとすると存外難しい。この最後の「湧き水の言葉」は、結論としてはその通りなのだが、ではそのために自覚的にぼくらが何をやればいいのかと言えば、はたと困ってしまうのではないだろうか。
ぼくはまず、学ぶこと、理論武装することから始めたらどうかと言ってみたい。それによって自分の生きかたを肯定し、呪いから抜け出せるのではないかと思うからだ。