架空の戦役とその退役後を描く伊図透『銃座のウルナ』を今日4巻まで読んだ。
本作はまだ結末を見ていない。ゆえに、作品全体をどうこう言うことは今の段階ではできない。
だけど、結末がどうなろうとも、4巻までで、引き込まれるように読んだことは事実。
この作品の何に目を留めたのか。
正直に書けば、主人公・ウルナや戦友の女性たちの肉体、概して豊満なそれ、である。ウルナが縛られているシークエンスでも、縄からこぼれそうになっている乳房に目がいくし、交情が描かれるときのふくよかな肢体の質感に興奮する。
人間は顎を引いたとき、ガリガリの人か、よほど若い人でなければ、「二重顎」のようなラインが入る。萌えを求めたりするようなマンガには当然そんなラインは入らない。そしてわざわざ入れない。*1
本作では、律儀に顎に線が入ったり、入りそうになったりする(下図:伊図透『銃座のウルナ 4』KADOKAWA / エンターブレイン、KindleNo.109/238)。気になる。気になるというのは、ウルナが少しふくよかな女性なのだということが常に意識させられるということなのだ。もちろん他にも首や二の腕の太さが全体としてそういう印象を強く与えるのだが、顔まわり、顎は特に意識させられる。
戦場は暴力に満ちた現場であり、そこでの強姦や各種の性暴力は対象への圧倒的な支配欲の表れであると思うが、本作で描かれている戦場のセックスは、そういう性暴力的な支配欲とは違うような気がする。
死ぬこと、殺されることとの絶対的な対比としての生命力の表現のようにして肉体の交わりが、これでもかというほど肉感的に描かれている。復員後の銃後社会でのセックスも同じである。死の影がつきまとうかつての戦場と対比されるように、描かれている。
こうした描写が結局何を意味するのか、どんな効果なのかは、作品の結末を読んだ時でないと最終的には何もいえない。
ただ、4巻までで、ぼくはそこに目をずっと注いでいるという事実だけがある。
ぼくは戦争を描いているマンガなのかどうかということに一つは関心がある。
「戦争の悲劇」が描いてあれば戦争マンガだとは思えない。戦争はあくまでモチーフであって、何かのドラマや娯楽を見せようというマンガもある。もちろん、それがいけないとか、そういうものは駄作だということでは全くない。それが戦争マンガに比べて上だとか下だとかいう話でもない。単にジャンルが違うというだけの話なのだ。(そういうことを拙著『マンガの「超」リアリズム』でも書いたので、興味ある人は読んでみてほしい。)
別の言い方をすれば、現実の戦争を詳細に調べていくことの豊かさに、フィクションが勝てるのか、という問題意識がある。
戦争そのものを描きたいなら、現実を精緻に調べ抜いてその事実をリアルに描くことで圧倒的な力が生まれる。貧相な虚構など要らないではないか、と。もちろん豊穣な虚構が薄っぺらい現実を乗り越えていくことも往往にしてある。
他方で、戦争ではなく、あくまで戦争を「ダシにして」、例えば何か美しいものが描きたかったのか、あるいは、何か不思議なものが描きたかったのか――それならそれでいいのだが、本作は結局どちらの作品になるのか、今後の展開を待っていたい。