長谷川摂子『子どもたちと絵本』・せなけいこ『ねないこだれだ』


子どもたちと絵本 (福音館の単行本) 「マンガをどう語りたいか」という問題についていえば、ぼくはまず文体や語り口へのあこがれから入っている。
 よくこのブログで書いているように「関川夏央のように書きてえ」というのが出発点なんだけど、子どもを育てて絵本をいっしょに読むうちに、長谷川摂子『子どもたちと絵本』(福音館書店)に出会い、「こんなふうにマンガを論じたい」とも思うようになった。


 この長谷川の本について、ぼくは、ブログの中で、『よつばと!』を論じたときに、紹介した。

児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所 児童マンガとしての『よつばと!』 - 紙屋研究所


 ぼくは今度4月に出す拙著『マンガの「超」リアリズム』の中で、「2. いわさきちひろはどう批判されたか」という章で、長谷川摂子による痛烈ないわさきちひろ批判を紹介している。長谷川のいわさき批判はこの本(『子どもたちと絵本』)に書かれている。
 どこを見ても「いわさき賛美」しかない左翼業界に暮らすぼくにとって、なかなか新鮮な一文であり、引き込まれるように読んでしまった。


 そんな長谷川の本の語り口は、子育てとの関わりをリアルに結びながら、一見「エッセイ」の体裁を取りつつ、骨太の絵本論になっている。長谷川個人の特殊性・個別性に甘んじることなく、長谷川個人の感想が持っている特殊性・個別性の中に潜む普遍性を見事にすくいだしている。
 このようにマンガを論じたい、という気持ちでいっぱいの、一つの手本であった。


マンガの「超」リアリズム 例えば、『ねないこだれだ』は「しつけ絵本」かという問題を考えてみる。
 絵本につい託してしまいそうな機能として「道徳」「しつけ」がある。
 歯を磨いたり、早く寝たりするような「きまり」を教え込む絵本というのは書店にいけば、山のようにあるのだ。
 そういう「しつけ絵本」の「正しさ」に、乳幼児の親であったぼくは、2%くらい期待したけど、98%くらいはげんなりしたものだった。
 そして、そういう「しつけ絵本」と一見似ている絵本が、せなけいこねないこだれだ』(福音館)である。
 表紙を見て思い出す人もいるだろう。
 夜更かしをしている子どもを、最後はおばけが連れて行ってしまうのである。
 筋だけ聞けば、完全に脅迫系しつけ絵本だ。


 しかし、長谷川は、せなの「いやだいやだの絵本」シリーズ(『ねないこだれだ』をふくむ『にんじん』『もじゃもじゃ』『いやだいやだ』の4冊セット)を次のように評する。

 大人はこわいものの話を、子どもをさとす方便に使っているけれども、子どもはこわさをバネに、想像の世界を色濃く紡ぎ出しているに違いない。大人のほうでも、現実と幻想の境界を見定めない子どもの迫真の想像力に便乗して、幼児のいる暮らしの心豊かさを味わっているのだと思う。
 わたしは、せなけいこの〈いやだいやだの絵本〉……を、そんな幼児のいる暮らしの正直な産物として受けとって、とても楽しんできた。(長谷川p.102)

 そして、これはいわゆる「しつけ絵本じゃねーの?」という疑問を「一面的」と退けた後で、次のような見方を披露する。

世の中の母親というものは、毎日子どもを叱り、なだめ、着替えや食事、睡眠と、暮らしの流れに子どもをのせていかねばならないのだ。その中で、子どもに話しかけねばならないことが、どんなに多いことか。けれど、「〇〇しなさい」「××しちゃだめ」といった命令と禁止の言葉の連続で一日が過ぎていくのは親も子もたまらない。食べさせたり、ねかせたりするとき、そんなあからさまな命令や禁止の言葉でなく、イメージ豊かな楽しい言葉かけで、子どもが生活のリズムにすすんでのってくれれば、どんなにか暮らしが、平和で落ちつくことか。そこのところが、幼児をもつ母親の生きる術(すべ)のようなものだとわたしは思っている。そういう親子の切実な関係から、せなけいこの絵本は生まれてきた。(長谷川p.103)

ねないこだれだ (いやだいやだの絵本) 長谷川は、しつけ意識ではなく、生活の野太いリアルを土台にした、しかし日常からの跳躍という、いわば想像力がせなの世界なのだとする。
 したがって、『ねないこだれだ』は「しつけ」として夜、寝る前に読むもんじゃない、と長谷川は批判する。むしろ、真っ昼間に、雨の日で室内でエネルギーを持て余している時なんかにキャーキャー騒いで楽しみながら読むものだと、長谷川は考える。

次々に出てくる、みみずく、どらねこ、ねずみ、泥棒、おばけたちはみんな、背後に夜の闇をただよわせてこわいのだけれど、子どもたちの心とまっすぐ手をつなぐおおどかさがあって、すばらしい表情をしている。(長谷川p.104)

 「おおどかさ」とは「おおらかさ」という意味である。
 本当にただ脅かして怖がらせるだけなら、『SIREN』の1シーンでも載せておけばいい。そうではなくて、「子どもたちの心とまっすぐ手をつなぐおおどかさ」がそこにはある、と長谷川はいう。
 だから、ラストのおばけに連れていかれるシーンは確かに「掛け値なしにこわい」と長谷川はいう。こわいよ。ぼくら夫婦、ぼくら親子も「KOEEEEEEEEEEEEEEE」とか言いながら読んでたもん。
 だけど、その「掛け値なしのこわさ」を長谷川は再解釈する。

けれど、最終ページ、星空を手をつないでとんでいる大小のおばけのシルエットは、じっと見ていると、どこかしら茶目っ気があって、こわさの余韻の果てに子どもの心の風景そのものを見ているような、ふしぎな奥行きを感じさせる。(長谷川p.104)

 「こわさの余韻の果てに子どもの心の風景そのものを見ているような、ふしぎな奥行きを感じさせる」という表現はまさに長谷川一流のものだ。子どもの心とつながろうとする長谷川の意思が、そこはかとなくにじみ出ている。
 

 そしてこの文章の終わりに、巷間にあふれる「しつけ絵本」を想定したかのように、長谷川は鋭い一撃を加える。

このたぐいの絵本は、イメージが思いきって飛躍せず、日常から横すべりしただけのものだと、作者の母親意識があらわに見え、子どもも大人も遊べない絵本になるおそれを、多分にはらんでいるのだ。(長谷川p.105)

 この一文は、子育ての現場での親と絵本の向き合い方が実によく出ていながら、それでいて痩せたしつけ・道徳論に堕さず、絵本のリアル・絵本の想像力というものを短く、鋭く剔出している。
 「こんなふうにマンガと子育てを論じられたらいいな」というあこがれで文章を書いていた。書いたものは似ても似つかぬものになってしまったが、ぼくが『マンガの「超」リアリズム』のもとになる連載を書いていた時、そんな思いで筆を走らせていた。