「今日、母は私の名前も言えなかった。」――で始まる、このACジャパン広告学生賞の作品が日経の夕刊に出ていたのを眺めていて、なんだかホロリときてしまって、不覚にも涙が出た。
https://www.ad-c.or.jp/campaign/cm/pdf/np-semi-grandprix.pdf
「これが涙。」「私、泣いてるの? なぜ、泣いてるの?」状態。
一体、ぼくはなんでうるうるしているのか。
よく考えてみると、自分の娘が大きくなって、自分が認知症とかになって娘の名前を言えなかった情景を思い浮かべているのだった。しかもその間にあるであろう、親としての自分がいたす、各種の苦労まで想像して。いや、まだその苦労をやってないんだけどさ。図々しいにも程がある。
子目線の広告なのに、読んで泣いているのは、親の俺。
はっ、と気づくと、「ぼくの母親がぼくの名前を言えなくなる日」という情景はいささかも思い出さなかった。
読売新聞のコラム「編集手帳」の一文を思い出す。
親が子を思う情はいつの世にも、「永遠の片思い」であるという。片思いに応えられる年齢になったとき、親はいない。墓前にたたずめば人は誰もが、「ばか野郎」となじってもらいたい親不孝な息子であり、娘であろう。
http://diary.e-yazawa.her.jp/?eid=864560
子どもからすれば、親の介護は、注いでくれた愛への恩返しではなく、「まあ育ててくれた恩義は忘れちゃいないけど、大人になった今、こっちはこっちでいろんな事情があるんで、ぶっちゃけ面倒。まあ放ってもおけないので、やりますか」みたいな感じではないのか。
介護(というか福祉)は愛情の問題と結びついて語られることが多い。家族愛とか夫婦愛ね。
愛情がある家族は、介護をするだろう。
しかし、それは介護の必要性が問題になるのではなくて、家族介護をするのか、社会サービスとして介護を利用するのか、という問題として現れるはずだ。愛情の表現として自分自身が介護をしなければならないという思いにとらわれてしまい、この広告にあるように自分も倒れてしまう。社会サービスとしての介護を使うことを、愛情がないことのように思ってしまう錯覚である。
この広告は、
冷たい?
https://www.ad-c.or.jp/campaign/cm/pdf/np-semi-grandprix.pdf
いいえ、それが私の
精一杯の愛情です。
と結んでいる。この理屈は、「社会サービスとしての介護を利用することは愛情の表現である」という説得になっている。
それはそれで一つの理屈だ。
理屈だけど……。
愛情の問題に還元しなくてもよくはないか。
愛情で介護は成り立つのか。
もちろん愛情によって成り立つ介護もあるので、否定はしない。
だけど、愛情が薄い、とか、それどころか愛情なんてさらさらない、とか、むしろ反感や憎しみさえ覚えている、という家族というものがいて、そいつの介護をどうするのか。そのあたりの方が深刻じゃなかろうか。
渡辺ペコ『1122(いい夫婦)』1巻(講談社)には、故人となった父に暴力をふるわれ、それに何も抗しなかった母を半ば憎み、半ば「かわいそう」と思う主人公の女性(いちこ)が登場する。
母だって
ずっと
やさしくなんか
してくれなかった
のにわたしが
大人になって
向こうが弱った
からってやさしく
なんか
できないよ
わたし
あの人の
介護なんか
できない
今だって
殴りたく
なるんだもん
主人公の夫(おとやん)は「やんなくていいよ」と声をかける。
「やらなくていいのかな……」と不思議そうに戸惑う、いちこ。おとやんはいちこの肩を抱きしめながら提案する。
そういう
ときが
きたらいちこちゃんが
辛(つら)くならない方法
考えようよ俺もいるし
「辛(つら)くならない方法」とは、家族介護ではなく社会サービスとしての介護を利用することだろう。
憲法13条にもとづく個人の尊厳を守る。そのために憲法25条にもとづいて国はお金を出す。それが公的な介護である。
子どもが親をどう思っていようが、老後の尊厳が守れるようにしたい。
ぼくがこんなにいつもハラハラ思っている娘は、ぼくのことなどなんとも思わず、大人になればもう家に寄り付かないかもしれない。それどころか、反発して絶縁状態になるかもしれない。
しょうがないよね、別の人格だもの。
娘に依存しない老後。
愛情と介護は、手を切った方がいい。
愛情による介護は否定しないが、場合によっては愛情を根拠に介護を求めることは暴力的でもある。
この学生の広告が、広告として人の情動を揺さぶったことは間違いない。ぼくは泣いたのだから。だから広告としてとてもよくできている。
他方で、政治的な公正さから、複雑な思いも抱いた広告であった。
悪いとはおもわない。この間、『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題で感じた、「創作とポリコレ」の応用問題の一つなのだ。