「格差は教育費無料でも広がる」のか


 このエントリを読んで思い出したこと。

格差は教育費無料でも広がる 格差は教育費無料でも広がる


 ぼくは無料塾で講師のようなことをやってきたが、この春、ずっと教えてきた中学生のRくんが志望する学校に合格できた。万歳!
 Rくんは前のエントリでも書いたけど、「偶数と偶数の和はなぜ偶数か」という説明をぼくがして、なかなか理解してもらえなかったという話に出てくるコである。

偶数と偶数の和は偶数であることの説明 - 紙屋研究所 偶数と偶数の和は偶数であることの説明 - 紙屋研究所

偶数と偶数の和は偶数である・リベンジ - 紙屋研究所 偶数と偶数の和は偶数である・リベンジ - 紙屋研究所

 Rくんのお母さんの話では「その進学しようと思っている学校の入試の過去問をきちんとやっておけばよい」と担任が言っていたとのことだった。3年分の過去問が実際に中学校から手渡されていた。そこでお母さん、本人と話し合って、入試までも残りの時間は過去問をカンペキにできるようになっておこう、ということを目標にしてやることにした。ぼくは「過去問はカンペキに解けるようにして、本番では半分くらいできるようになればいいだろう」と考えた。
 「偶数と偶数の和はなぜ偶数か」を説明できるようにする、というたぐいのことを入試までに間に合わせるのは、率直に言ってあきらめた。Rくんは文章から方程式をつくるような問題は苦手だった。しかし、順序通りに式を解いていくような問題は、得手としていた。そこで、過去問を解く中で文章題などはやることはやるけども、むしろ式を解いていくような単純明快な得意分野をケアレスミスなくキッチリと点数にしていくという割り切りをした。


 無料塾とは別に週1回2時間、過去問を解いてもらい、間違ったところをていねいに教え、完全に100点になるまでくり返した。いや、100点にならずにタイムリミットになったけど。

2つの戦線:貧困そのものを削減することと、目の前の個別の人を救うこと

 貧困ゆえに教育の機会を奪われる危険性がある。
 ぼくの生き方としては、政治を変えることで貧困そのものを退治していくことがメインである。だからぼくは政治活動に参加しているし、推した議員に貧困削減に取り組んでもらい、ぼく自身も国民健康保険料の値下げや子どもの医療費無料化拡充を求める運動にも参加してきた。
 しかし、目の前にいる子どもが貧困ゆえに教育の機会を奪われようとしていたら? できることは限られているけども、勉強を見るくらいならやれる。そう思って無料塾の活動に参加してきた。
 いわば、貧困そのものを退治する大きなたたかいに加わりつつ、目の前で苦しんでいる人に、自分でできる範囲のことで何か手助けをする、ということだ。


 貧困を削減・根絶する方策は、政治によって再分配を強化するか、経済成長によってパイを大きくするか、どちらかである。そこには論争があるが、大きくはこの2つで、現実にはこの2つのハンドルを両方使って貧困との戦争に取り組んでいる。

教育は貧困対策としてどんな位置を占めるのか

 この大きな貧困対策の中で、教育の占める位置は、ざっくり言ってしまえば、大事なものだが、部分的なものでしかない。「よい教育、レベルの高い教育を受けることで、就業や所得拡大の機会を増やし、貧困から脱出する」というイメージである。
 このイメージは、貧困そのものを減らしたり、削ったりすることとは別のスローガンを生み出す。すなわち「貧困の連鎖を断つ」という言い方だ。貧困に陥った親のもとで、十分な教育資源が得られず、その子どももまた貧困に陥る。教育を受けて、高校や大学に行くことでお金がたくさん得られる仕事についてその連鎖から抜け出す――こういうものだ。
 このイメージ自体が問題をはらんでいないわけではないが、とりあえず受け入れられるものである。しかし、今述べたように、このイメージの中には貧困そのものを削減・根絶する必要は、ロジックとして入り込んでこない。
 下手をすると、貧困そのものの削減・根絶を後まわしにしてしまう危険性をもともと潜ませているのである。


 政府の「子どもの貧困」対策は、この危うさの臭いが強烈に漂っている。貧困の削減目標は設けずに、教育支援のメニューを厚くしている。いや、政府に言わせれば「子どもの貧困対策法にある通り、経済支援含めて4つの柱(教育支援、生活支援、就労支援、経済支援)で総合的にやってますよ」というかもしれないが、そもそも生活保護基準を空前の規模で切り下げたのは、政府自身である。
 その意向を受けた自治体の貧困対策も、こうした偏りが強い。
 例えば、福岡市は生活保護基準の引き下げに連動して就学援助基準を引き下げた全国でも珍しい自治体であるが、新年度予算は「子どもの貧困対策」を大々的に打ち出して、子ども食堂をやっているNPOへの支援だとか、生活保護世帯への「学習支援」(無料塾)などを売りにしている。さらに言えば福岡市は60年間続けてきた生活保護世帯への下水道料減免制度も今年度からなくしてしまった。いわば、貧困世帯に足払いを食らわせておいて、「貧困対策」を売り物にしているのである。

主戦場と局地戦を取り違えないこと

 貧困問題は、主要な戦線と局地戦の関係を誤ってとらえると、反動的なものになってしまうことがある。それは貧困問題自体が、きわめて論争的だからである。つまり自己責任論と社会責任論とがせめぎ合う場であり、決着がつくことのないまま、きわどい政治的バランスの上に成り立っているのが、現実に合意された「貧困対策」なのだ。
 だから、無料塾や教育・学習支援それ自体は正しいものであっても、それが主戦場のように扱われてしまい、さらに本当の主戦場である貧困との戦争が消えてしまったら、反動的になってしまうことさえある。


 北海道大学教授の松本伊智朗は、「子どもの貧困」というけども、「子どもの貧困」という特別な、新しいものがあるわけではなく、大人や家庭全体の貧困と一体のものとして「子どもの貧困」があるのだと指摘する。「親の貧困は自己責任かもしれないが、子どもには罪はない」という保守的・反動的感情とのせめぎ合いの中で「子どもの貧困」という認識・言葉を使った社会合意が結ばれたのである。
 したがって、貧困そのものの対策に向かわずに、「子ども」という部分に過剰に注目していくと、「教育支援による貧困脱出(貧困連鎖の切断)」というスローガンや政策に傾きがちなのである。


ここまで進んだ!  格差と貧困 松本はこう述べている。

注意しなければならないのは、貧困の世代的再生産、あるいは貧困の連鎖を問題にすることには、むしろ「親がだらしがない」「親の育て方が悪い」と「家族そのものに原因がある」という個人主義的な家族主義的な貧困の理解に陥りやすい危険があることです。英米研究史を見ても、貧困の世代的な連鎖、貧困の世代的な循環を問題にする立論はむしろ保守層から出てきています。(松本「子どもの貧困を考えるうえで大切なこと」/「前衛」2015年10月号p.215、以後「松本2015」と表記)

※松本2015は、雑誌「前衛」が初出であるが、『ここまで進んだ! 格差と貧困』という本の中にも収められている。

〔子どもの貧困〕対策法は、「貧困の連鎖を断つ」ことは強調されても、「貧困をなくす」とは言いません。貧困とは、個人・家庭が社会生活を営むために必要な資源(お金や制度、支えあう関係)の不足・欠如で、この不足・欠如が生きていくうえでの不利や困難を生み、結果として貧困という状況がより深刻になります。ところが、そもそも、いまある貧困を緩和することが法律の正面には出てこないのです。(松本2015p.215)

問題が矮小化されるので、とられる〔政府の〕対策も「学習支援」が中心になります。個々の子どもの勉強が支えられることで、教育的不利が緩和されるようなとりくみがあることの重要性を、私はまったく否定するつもりはありませんし、むしろ大事だと思っています。しかし、それは同時に、個人の頑張りに期待することになり、「勉強ができないのは子どもが悪い」という子どもの責任論に転化する危険性があることもおさえておく必要があります。/そして、求められているのは、学習支援だけではないといい続ける必要があると思います。貧困は、経済的不利・経済的資源のなさが大きな問題であり、所得保障の観点がない貧困対策は貧困対策なのかという問題なのです。そうした対策は国際的にみれば通用しません。子どもの貧困対策法ができて、勉強を教えますといっても、それだけでは子どもの学習促進法になるわけです。(松本2015p.216)

 つまり、学習支援の過度な強調は「教えてもらっても脱出できないお前が悪い」という責め道具になり、「貧困の連鎖を断つ」という言い方は「親が悪い」という攻撃にあっさりと変わってしまう危険があるということだ。

「貧困の連鎖」を問題にするときには、つねに広く社会の仕組みのなかにおいておく、問題を狭いことにしないことが必要なのです。/たしかに実践というのは、狭いところでまず勝負します。実践的な課題を考えるときには、世の中の不平等だけを語っていても実践はできません。しかし、だからこそ、実践的な課題を考えるときには、問題の理解を矮小化しないことを強く意識しないといけないと思います。そうみたときに、〔子どもの貧困〕対策法には、むしろそういう危惧を感じざるをえないコンテクストがあります。(松本2015p.215-216)

 「広く社会の仕組みなかに」という意味は、ぼく流に言えば貧困を構造的に生み出す資本主義経済という「仕組み」であり、あるいは、ブルジョア国家にあってもそれを緩和するはずの再分配装置のお粗末さなのであるが、そこへのたたかいを主戦場として、小さな実践を考えないと、小さな実践を具体的に考えていくうちに、遠近感を失い、あたかも小さな実践を具体的に考えること(のみ)が「現実的」であるかのように錯覚して、大きな「仕組み」を免罪したり、隠したりしてしまう罠に陥る。

「自分の学習をマネジメントできる能力の育成」?

 こういう記事があった。

子どもの貧困連鎖の問題は、単なる「無料塾」をいくら作っても不十分!−支援への依存を助長する危険性あり / ひみつ基地 子どもの貧困連鎖の問題は、単なる「無料塾」をいくら作っても不十分!−支援への依存を助長する危険性あり / ひみつ基地

 この人(毛受芳高)の主張の全体をぼくは知らないので、この記事に書かれていることはこの人の主張のごく部分的なものかもしれないのだが、まず“「貧困で塾へも通えず学習の格差を生んでいるのでそこを支援するのが無料塾だ」という認識では問題の解決にならない”という。これまで書いてきた通り、たしかにこれが問題の完全な解決になると主張すれば間違いになるだろう。
 だけど、この人は、そこから“狭い学習支援だけをしてもダメで、学習を自分でマネジメントできる教育プログラムが必要だ”と主張する。自分のやっているNPOではそういうプログラムを学習支援として提供しているという。ぼくのように伴走して学習支援をすることなどは、むしろ支援者依存をもたらしてしまう! と厳しい。
 もしそういうプログラムがあるとすれば、それは役に立つものだろう。
 だけど、それは公的支援を受けている無料塾だけじゃなくて、そもそも学校教育一般の中で広く行われるべきものではないのか?
 そして、なんといっても、結局これは「教育による脱出」という路線の過剰な強調になってしまう。学習マネジメント能力を身につけられなかったダメな私という気持ちを抱えさせてしまわないかという不安を抱く。
 そこには、あくまで貧困との戦争の局地戦を戦っているのだという控えめな認識が必要ではないだろうか。

教育の持つ選別機能

 松本は、「貧困研究vol.11」(2013年)で「教育は子どもの貧困対策の切り札か?」という論文を書いている(以後「松本2013」と表記)。この中で松本は、

教育は貧困対策の切り札だろうか。この問いは、どのような教育であれば貧困対策として機能するだろうか、という問いにおきかえられる必要がある。(松本2013p.8)

と書いている。
 松本は、識字率の低い社会では教育はほぼそのまま人生の可能性を広げるだろうとしつつ、現代日本では、教育が選別的機能を持っていることに注意する必要があると警告している。
 9割が高校に行く中で「どのランクの高校か」、「どのレベルの大学か」が問われ、教育は「私事」として学費は私的な投資の性格を帯びている中では、高校や大学に行ければそれで自然に就業機会や所得の増大につながるわけではない。
 「がんばって上(の学校)に行こう」というやり方がないわけではないだろうが、それができるのは(あるいは、あるリミットの中で間に合うのは)限られた子どもたちだけだろう。
 先のサイト(毛受)のように、狭い学習支援=進学支援ではなく、学習マネジメント能力を育て、それを通じて「自己効力感を育てる」というやり方もあるだろうが、個人の中にその能力を埋め込むこともまた限界があると言わなければならない。

学習支援や食の提供そのものよりネットワークを作ること

 ぼくたちのような民間の社会運動として「今すぐ」できることは何だろうか?
 くり返すが、まずは政治に対して貧困を削減・根絶するための取り組みを求めるという大きなたたかいをしていくことは前提である。
 そのうえで、できることは何か。
 ぼくたちが今すぐにできることとして、狭い学習支援や生きていく能力を身につけさせること自体を否定する必要はない。
 が、一番効果的なのは、支え合いや問題解決のためのゆるやかなネットワークをつくることではないのか。
 先に挙げたサイト(毛受)も次のように述べているのは、こういう話につながるものだ。

学習支援事業の中でただ勉強を教えているだけでは不十分で、信頼できる大人・地域との出会いを生み出し、大人との多様な人間関係づくりを、様々なイベント、講座などで行っています。地域の方と一緒に竹切から準備をした「流しソーメンパーティ」や、「異文化の人々との交流」、「3Dプリンター講座」などを実施し、子どもたちは、様々な大人との出会いの中で、初めてきた時とは違う自発性が育まれ始めています。

http://children.publishers.fm/article/9418/

 
 実は、ぼくの参加していた無料塾でも、来ていた子どもたちはいわゆる「貧困層」だけではなかった。というか、そういう世帯はいたけども、限られていたのではないか。ぼくが支援を続けてきたRくんの家も、貧困世帯であるかどうか、ぼくはまったく知らない。目の前に進学機会が失われそうな子どもがいたので、貧富の状況はどうであろうが、無料塾に来ている以上手助けしようと思ったのである。
 ぼくの参加していた無料塾は「貧困世帯の進学支援」にはまったく限定されておらず、いわば単なる「宿題をみんなで集まってやる会」みたいなものだった。わからないところはボランティアの「先生」に聞くという程度のものだ。
 そこでは、子どもたちが交流したり、親たちが交流したりする場であることが第一だった。ぼくの家は「貧困層」というわけではないが、小学1〜2年生だったぼくの娘はこの無料塾に来ていた。娘は保育園時代からの友だちといっしょにやってきていた。二人で話したりするのが楽しかったのだ。主催者も歓迎してくれた。いや、まあ、走り回るなどして迷惑をかけて申し訳なかったのだが。
 また、ときどきこなくなる子がいて、どうしたのかと親御さんに声をかけてみると、不登校になっていた。ぼくはただその悩みを聞くだけだったが、別の親御さんが懇切なアドバイスをして、半年くらいして学校に復帰するようになった。復帰するかどうかはともかく、子どもが「学校に行かない」と言っている間、親御さんがどういう気持ちで過ごし、子どもに接したらいいか、親御さん自身がひどく悩んでいたのである。そこにこの交流のネットワークがあったことで、親御さんの不安はだいぶん緩和されたし、最終的に解決されたのである。


 子ども食堂が最近流行っているが、ぼくの知り合いが子ども食堂にかかわっていて、その取り組みがテレビで報道された際「貧困の子どもたちに食事を提供する」という紹介をされた。そこで食堂に行った子どもの親が「うちは貧乏人じゃない! あの場はそんな場だなんて聞いてない!」と怒鳴りこんだという。
 「地域にいる貧困の子どもたちのうち、さらにその中から食事をろくにとっていない子どもを選定し、連れてきて食を提供する」などということはおよそ不可能なことだ。
 結局、無料で何かを食べられる、くつろいだ空間があって、そこに子どもや親や地域の人が自然に集まってきて、その中に貧困で食事が食べられない子どもたちも紛れ込んでいる、というのが現実的でもあり、理想でもある。
 前に『最貧困女子』を書評したとき、「夜中でも食事を提供し、何も容喙しない学童保育がもしあったら」ということが書かれていることを紹介した。

どんな学童がよかったかと聞けば、小学校が終わったらゲームやテレビもふくめてすごせて、遅くても親が迎えにきてくれればそれでもいいし、食事も出て、親が荒れているときには夜遅く行っても泊めてくれるような場所だという。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20141103/1414971642

 最近読んだ新聞記事で、「行儀作法を教える子ども食堂」というのがあったんだけど、「うーん…そんなところ、子どもたちが行きたいと思うかなあ」というのが正直なところだった。大人の側の一方的な思いの押し付けではないのか。(いやまあ、実際に行ってみたら気さくで、みんなが寄り付くのかもしれないけどね。)


 つまりそういうことである。
 無料塾にしたって、子ども食堂にしたって、学習支援や食の提供は大事だし切実なんだけど、それは貧困層を選別して提供するものではない。むしろ地域のみんなのゆるやかなネットワークをつくる「手段」だといってもよい。
 結果的に貧困層がそこにこなくてもいいのである。
 いずれ来るかもしれないし、来なかったとしても何かの情報が交換できればそれでかまわないのだ。
 そこでは学習支援や食の提供も大事だが、それ自体以上に、居場所があって、情報の交換がなされることの方がよほど大事なことである。問題を発見する場だと言っていい。
 ぼくたちが今すぐできることは知れている。
 「知れている」範囲でいいのですぐ始められるのは、ゆるやかな居場所をつくることなのだ。

「子どもに関わる費用をすべて社会が負担する社会」とセットで

 さて、最後に、最初に取り上げた記事に戻る。

格差は教育費無料でも広がる 格差は教育費無料でも広がる

 これな。

 松本は「子どもの貧困」という言い方は、まさにこの元増田(当該「はてな匿名ダイアリー」の匿名執筆者)のような「親の責任」論を生み出すことを警告している。

子どもの貧困や子どもの虐待もそうですが、子どものことを語るとき、子どもが不利な目に遭っているということが、ともすれば親責任の強化につながりかねない面があるという点です。しかも、家族の格差が子どもの格差につながりやすい構造が強化されています。子どものことは親が全部やるのが当たり前となっていればいるほど、親の経済状況が直接子どもの状況に関係するのは当たり前です。その結果、「子どもの貧困」は、親を責める言葉として使われる危険性があります。(松本2015p.218

 まさに元増田は親を責める言葉として「子どもの貧困」を使っている。典型例である。
 そこで松本が提案する方向は何か。

そうではなく、「子どもの貧困」という言葉を使うのであれば、親世代の格差が子ども世代に跳ね返らないために、みんなで子育てにかかわり、費用調達も含めて社会全体の問題なのだとしないと、家族責任が強化されてしまいます。「子どもにかけるお金は、世の中全体で負担しようではないか」と考えるべきなのです。そうすることによって、親世代の格差が子ども世代に跳ね返るような仕組みを緩和していくことができます。(同前)

 松本は、さらにそこから夫が主な稼ぎ手で、妻が専業もしくは補助的な労働でそれを支えて、子どものケア労働を担当する「標準家族モデル」がいかに危機やトラブルに脆弱かを述べる。
 そして、もし子どもに関わる費用をすべて社会が負担するようになれば、親は自分の食い扶持さえ稼げばよくなり、シングルでもダブルでも不利や不公平は解消すると述べる。これこそが「強い家族」なのだと。

なぜ、このようなことをわざわざ言うのか。それは、家族責任が強化され、家族がバラバラにされていく方向に社会があるときには、「子どもの貧困」という言葉は、そういうことをむしろ強化していく方向に使われかねないからです。そういう意味でも、「子どもの貧困」は論争的な言葉です。だから、私たちは、どういう社会をめざすのかということを根っこにおいて、この言葉を考える必要があるのです。(松本2015p.220)

 「私たちは、どういう社会をめざすのかということを根っこにおいて、この言葉を考える必要がある」というところまで問題を進めないと、「子どもの貧困」という問題は、容易に家族責任論・親責任論へ転化すると松本は批判するのだ。その見事な「例証」が、元増田であろう。


 もし小学校や中学校のように、高校や大学に誰でも行けることはおろか、医療も住宅もそして食事や文化に触れる機会も、子どもが無料でアクセスできるようになれば、その時初めて子どもの貧困は親の責任から切り離される。そこまで社会を進めることの覚悟とセットでなければ、容易に元増田のような非難に遭遇するハメになる、と松本は警鐘を鳴らしているのである。