『NANA』は「多様性ある家族像を根底から否定する前近代的な家族観」か?

 「しんぶん赤旗」で中川裕美が「少女マンガとジェンダー」という連載をしている。毎回楽しみにしている。

 2月15日付は、第7回。ゼロ年代のマンガとして矢沢あいNANA』が取り上げられている。

 すでにツイッターで簡単な感想を書いた。

 

 中川の評では、主に『NANA』に関連してジェンダー上の2つの問題が指摘されている。

 一つは、「貞操主義」。

 もう一つは、「母性神話」。

 

貞操主義?

 まず前者の「貞操主義」。これは『NANA』が貞操主義だというわけではなく、むしろ『NANA』の主人公の一人である奈々がヒロインであるにも関わらず、貞操主義を打破している、もしくは貞操主義的な類型ではない、とされている。「何人もの男性と恋をし、時には性行為もする」(中川)からだ。

 

 

 貞操主義について、中川は「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」という簡単な規定を与えている。

 ぼくは、この記事を読んで、果たして中川がこの貞操主義にどのような評価を持っているのかを直接読み取ることができなかった。

 ただ、「貞操主義の打破」という題名の語感(これは著者の意向とは別に編集部がつけている可能性がある)、そしてこの貞操主義の話題の後で「その一方で」として批判的な叙述が始まるので、おそらく「貞操主義の打破」はその反対物、つまり肯定的な評価を持たれているのではないか、と思った。確言はできない。ただのニュートラルな指摘だという可能性もある。

 

 その上で、いくつかの違和感について書いてみる。

 第一は、「貞操主義」の定義の不安定さだ。

 一人の恋愛対象に熱中し、やがて破綻し、そして次に新しく恋愛し、また……こういう繰り返しを「反貞操主義」といえるだろうか。その期間を見れば一人の人と誠実に向き合っている可能性もあるわけで、それを「反貞操主義」「貞操主義の打破」と果たして呼べるのか、ぼくには疑問が残る。

 

 第二に、「貞操主義」という規定がジェンダー上どのように評価されるのかがよくわからないことだ。

 「一人の少女(女性)は一人の少年(男性)としか恋愛をしない」ということを「貞操」という言葉でまとめられるであろうか。中川のいう「貞操主義」、つまり一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことは、なんら問題がないように思える。ぼくはこうした態度がジェンダー上どのような問題を引き起こすのかあまりよく理解できない。

 あえて言えば、一人の対象に熱中し、そこから心を動かさないことを「美徳」とする固定的な考えが生じた場合、その熱中から冷めてしまうことを「不誠実」と詰る空気が生じるかもしれない。「もう乗り換えるなんてサイテーじゃないか?」みたいな。別の言い方をすれば「一人の人を一途に思うのが良い恋愛である」という刷り込みをしてしまう恐れがあるということだ。

 いや、しかしだよ。

 どんなマンガだって、何かしら作者の価値観を読者に押し付けるものだから、何かの価値の刷り込みにはなると思うのだが。

 反対のことを考えてみればいい。「貞操主義の打破」は果たして無条件に良いことになるのか。多数の人と「不倫」をする場合は明らかに「貞操主義の打破」といえるけど、それはジェンダー上望ましいこととは必ずしも言えないような気がする。そういう行為を称揚する価値観がマンガに描かれ、それに刷り込みを受けて多数と「不倫」をする現実の行動は、その人を不幸にしかねないのではないか。

 

 第三に、作品における、奈々の「移ろいやすさ」は「貞操主義の打破」という意思的な行動としてまとめられるものではないということだ。

 「空っぽのあたしは 性懲りもなく恋をする事でしか 自分を満たせずにいた」という奈々の独白は、貞操主義の打破ではなく、ゼロ年代に猖獗を極めた「自分探し」の裏返しである。ミュージシャンを目指すもう一人の主人公・ナナとの対比で自分が「空っぽ」であることへの焦燥として恋愛に走っていることが描かれているのだから、貞操主義の裏返し、一人の恋愛対象と安定した関係が築けない「問題行動」として描かれているのではないのか。

 

「父母が揃った家庭」を「唯一無二の理想」としている?

 もう一人の論点、母性神話についてはどうか。

 中川は、『NANA』という作品について

「父母が揃った家族」を唯一無二の「理想的な家族像」として描き、そこに育たなかった者を「普通ではない」とする

 との規定をしている。「理想的な家族像」とされるのは奈々の両親・実家であり、それは両親が「揃って」おり、母親は母性神話に満ちた描かれ方をしているのだという。結果として『NANA』について、

多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観

 だと断じる。『NANA』を読んだことのあるものにとっては非常に違和感のある規定だが、ジェンダー・バイアスが隠されたものであるかもしれぬので、ぼくらの素朴な「読みの実感」からのみ出発するのは公平ではないだろう。

 中川は『NANA』においては「家庭が不和」だったキャラクターは「性格的な欠落」を抱えているとするが、別に奈々(ハチ)だって前述の通り「性格的な欠落」を抱えている。奈々は「満たされたいい子」ではないはずだ。

 そして、家庭不和の環境は、必ずしも「両親が揃っていない」ということではない。ナナは「両親が揃っていない」といえるかもしれないが、他の「親の愛を受けずに育っている」キャラクターは「家庭不和」ではあっても「両親が揃っていない」わけではないのだ。

 

むしろ多様な家族の走りではないか

 『NANA』は家庭や家族に問題を求めすぎるきらいがあるとは思うのだが、それはおいておくとしても、むしろ血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうとするのが『NANA』の特徴であり、矢沢あい作品にしばしば見えるテーマである。

 むしろこの血縁ではない新しい絆の共同体をつくろうという作品は、「家族」の新しいあり方を示しているとさえ思う。シェアルームで始まった奈々とナナ、そして仲間たちの関係は、現代的にみれば「シェアハウス」のような友達共同体や、それこそLGBTの家族などの嚆矢のようにさえ思えるのである。

 ぼくは、とてもここから「多様性のある家庭像を根底から否定する前近代的な家族観」を見て取ることはできなかった。

 

 前の回の『星の瞳のシルエット』評でも、お嫁さん=専業主婦になるのが夢というのはジェンダー上の問題があるとする指摘を中川はしていたが、専業主婦になるという結論が作品の結論上非常に大きな反動性(ジェンダー上の問題)を引き起こす場合もあるし、全くなんの問題にもならない場合もある。それはまさしく作品によるのである。

 

星の瞳のシルエット(1)

星の瞳のシルエット(1)

 

 

 

 中川の評は、作品のコンテクストを離れて個々の要素の「刷り込みの危険」だけを過度に強調してはいまいか、という危惧を持ってぼくは読んでいる。

 

 うん、まあ、こう書くとなんかものすごくトゥリビャルな連載のように思えるが、そういうことも含めて自分があれこれ考え、議論をしたくなるので、この連載を楽しみにしているのである。もちろん、純粋に知らないことも多いので、それを学ぶこともある。