小林薫『娘が不登校になりました。 「うちの子は関係ない」と思ってた』

時々学校に行きたがらないぼくの娘

 うちの小4の娘は基本的に元気に学校へ行っている。
 「基本的に」というのは、時々行きたがらなかったり(いわゆる「登校しぶり」)、ほぼ毎日のように微妙な遅刻をしたりするからだ(1時限目が始まる前の時間に登校する)。


 3年生の1学期から2学期にかけてが、親としてはけっこう大変だった。
 理由は今ひとつよくわからないんだけど、教師(担任)の粗暴さへの不満とか、宿題が面倒くさくてやっていないことへの不安とかを、渾然一体によく表明していた。

「もしもの日」

 ぼくら夫婦は娘に二つ提案した。
 一つは「もしもの日」をつくった
 これは吉野朔実のマンガ『ぼくだけが知っている』に由来する。

 吉野朔実『ぼくだけが知っている』 - 紙屋研究所 吉野朔実『ぼくだけが知っている』 - 紙屋研究所

 小学4年生の主人公夏目礼智(らいち)と母親との間でだけ勝手に設けられた「月に1度だけ無条件に学校を休んでいい日」である(図、吉野『ぼくだけが知っている』1、集英社、p.18)。

 その日がある、というだけで、何か救いのような気持ちになるらしい。マンガにおける「らいち」の顔の明るさに、ぼくは、それを見た。娘も吉野は読んでいるのでよく知っている。もともとぼくに吉野を「伝道」したつれあいは言うまでもない。よって、親子3人で勝手に設けた日が「もしもの日」である。
 覿面であった。
 娘は実に月に1度のこの日を楽しみにしており、通知表の「休み」の欄には、きれいに毎月「1」が並ぶ(もちろん、水疱瘡や風邪で休んだ日もある)。

遅刻しても行けばいい

 もう一つは、遅刻しても行けばいい、としたことである。
 どうも宿題がやれていないことがプレッシャーになっている日が多かったようで、親から見るとどうでもいい(「やってません」と言えばいい)ことなのだが、娘にはそれがつらいらしく、「そんなら、やってから学校に行けば」という対応にした。
 いや確かに、前の日にやればいいではないか、とも思う。
 そう思って初めは父母ともにガミガミ言ってきたのだが、言う方も疲れたし、聞く方もうんざりだったようである。
 いつもやらない、というわけではない。時たまどうしても気乗りせずに放置してしまい、深夜になって破綻したことに焦りだすという具合である。
 1日2回だけ確認のために言わせてもらうようにして、あとは言わない、もう任せるようにした。
 まあ、時々本人が朝になって「宿題やってない!」とパニックめいた騒ぎは起こすけども、「学校に行きたくない」というのは基本的になくなった。

もちろん一般化はできないが…

 こうした「経験」の取り扱いがかなり慎重であるべきだということは承知している。まず、年齢も状況も違うさまざまな「不登校」「登校拒否」「登校しぶり」のケースには、一般化できないということ。あくまで、ぼくの家の、ぼくの娘の、この段階での一つの対応に過ぎない。
 また、そもそも学校へ行くことが絶対善ではない、ということも承知している。だから、学校に行かせる前提を立てるという対処が、一般化できないこともそれなりにわかっているつもりだ。

担任が嫌だ、宿題が多い

 それをふまえたうえでちょっと言わせてもらうのだが、やはり小学校低学年では、担任を嫌いになる、というプレッシャーのかかり方と、宿題がいやだ、というプレッシャーのかかり方は、かなり普遍的なものではないかなということだった。


 下記の記事では、百ます計算で有名な陰山英男が答えているが、

第16回 「頭が痛い」と学校を休もうとする小1女子 | 学研キッズネット for Parents 第16回 「頭が痛い」と学校を休もうとする小1女子 | 学研キッズネット for Parents

まず1つは、担任の先生への思いです。
一方的に怒っている先生だと、学校そのものが面白くなくなりますし、勉強もつまらなくなるのもわかります。

https://kids.gakken.co.jp/parents/learning/kageyama16/

もう1つは、勉強が負担になっているということです。

https://kids.gakken.co.jp/parents/learning/kageyama16/

という2つの要素を上げている。
 娘が書いている絵に、担任(中年女性)が怒り狂っている様子が描かれたものがあったのを見たのと、懇談会で担任に面と向かって批判している他の親の姿を見た。
 担任に事情を問い合わせたり、場合によっては批判する意見を言う権利は親にあると思うのだが、ぼくもつれあいも、大きな枠組みでは担任を信頼していたし、批判的な意見は表明しなかった。どうしても言いたいことがあれば、子ども(娘)が直接言うべきだというスタンスを取った。


 宿題は、算数で問題文を全部書かされるという宿題の指導方法が苦痛だったようだった。
 まあ、娘の気持ちもわからないではないが、それも担任の指導方法にまかせ、別に意見は言わなかった。ただ、どうしても娘が面倒くさいと思うのであれば、問題文を書きうつさずに答えだけ書いても、全然やって行かないよりはいいだろうとアドバイスしたことはある(娘はこのアドバイスに従ったことは一度もないが)。


 ちなみに、不登校指導・分析においては、「子どものいう『原因』をまともに突き詰めてもあまりアテにならない」としばしば言われることがある。しかし、本当にそうだろうか。担任や宿題の問題、つまり学校の問題というのは本当に大したことじゃないのだろうか。そこには少し疑問がある。

不登校「先生が原因」 認知されず ―学校調査と本人調査のギャップから考える(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース 不登校「先生が原因」 認知されず ―学校調査と本人調査のギャップから考える(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース


 まあ、そのことはちょっとおいといて。
 いずれにせよ、ぼくや娘が体験したわけじゃないけども、こうした低学年の「学校に行かない」という行動と、そのあとの思春期にやってくる「学校に行かない」という行動は、いろいろ質が違うのではないか、とおぼろげに思っている。
 いや、何のデータもないから、ホントに無根拠な感覚に過ぎないんだけど。

思春期の子どもたちの場合はどうか

娘が不登校になりました。 「うちの子は関係ない」と思ってた 小林薫のエッセイコミック『娘が不登校になりました。 「うちの子は関係ない」と思ってた』(ぶんか社)や、高垣忠一郎『登校拒否を生きる 「脱落」から「脱出」へ』(新日本出版社)に出てくるケースは、どちらかと言えば思春期の子どもたちだ。


 理由がよくわからない、というのが特徴。


 『娘が不登校になりました。』でも、理由はよくわからない(特定できない)し、その巻登校拒否を生きる―「脱落」から「脱出」へ末にあるカウンセラー(中山智樹)の解説でもいじめや友人関係のトラブルのように思われがちだが「それが原因となることは少ないようです」(小林p.127)という。『登校拒否を生きる』でも高垣は「大げさな理由は見つからない、でもなぜか学校に行けない」(高垣p.95)というケースを紹介している。
 つまり、「理由がよくわからない」というのは思春期の不登校としては、わりとよくある話なのだ。*1

ドシロートのあけすけな目線

 小林の『娘が不登校になりました。』は中2の娘が布団から出てこなくなって以後の、母親の右往左往とその後の学校とのあつれき、フリースクールの発見、私立中学への編入……などが描かれている。
 小林には「不登校対策にはこうするのがいい」「これはNG」というような“小賢しい前提”がない。つまり、一人の完全にドシロートな親の目線で、不登校になった娘にオロオロし、怒り、心を寄せ、また絶望するということを繰り返しているのが、ぼくのようなやはりドシロートの親が読むぶんには逆に参考になる。
 耐えきれずに、布団に寝ている娘に水をぶっかけて口論し、
「ママなんか死ね!」
(包丁を持ち出して)
「こっちこそ娘なんか産まなきゃよかったよっ」
という禁句暴言まで吐いたことを赤裸々に描いてしまう。普通はこういうものを隠すのではないかと思うのだが、そのあたりのあけすけさも、読みどころではある。「うわぁ…」と思うけど、母子家庭でバッファーがない家族構成という大変さもうなずけるのだ。

専門家の意見は小林の経験と対立してねーか?

 不思議だったのは、さっきもあげたんだけど、巻末のカウンセラー(中山)の解説(不登校に対する見方・方針)と、小林の体験はかなり対立しているように見えちゃう、ってこと。
 例えば、このカウンセラー「保護者はいったいどうすればいいのでしょうか?」として3つの「NG」をあげる。

  1. 原因を聞きすぎること
  2. ハードルを下げすぎること
  3. 無理やり学校に連れていくこと

 ではどうするか。

基本的に保護者は、「何もいわずに見守る」ことが大事です。1週間以上不登校の状態が続いたら、担任教師やスクールカウンセラーに相談にいき、第三者を介入させましょう。(p.129)

不安でしょうが、直接子供に対して登校を促進することは第三者に任せて、「子供が話をしてきたら聞く」というスタンスを変えず、子供にとって家庭を「安心できる場所、よりどころ」にしていきましょう。(同前)

 小林の体験を読んでいると、最初の公立中学での担任教師やスクールカウンセラーの対応に、無茶むちゃ不安を感じてしまう
 担任は、テンション高めの粗雑な感じで、「仲のいい子に迎えに行かせる」という、娘にとってイヤな対応をしたり、直接会いに行ってしまってますますこじらせているからだ。
 担任はカウンセラーとの相談をすすめ、本人抜きで会いにいくのだが、

「困ったね」といい合うばかりで
なんの解決にもならなかった(p.22)

という状況なのである。
 NGであるとされる1.と3.についても小林は、それをやらかしちゃっているように見えるし、2.は、学校側が「保健室登校」というハードルを先に設定して「不登校ゼロ」という帳面消しをしているようにも読める(p.27)。
 任せられないだろ、これは


 あー、うん、でも、巻末の3ページだけで不登校についての対応を過不足なく書け、と専門家(中山)に要求するのは酷かもしれない。だから、この巻末アドバイスの3ページはあくまで一般原則として、一応聞き置く程度に。不登校の子どもにどうのぞむのかは、もっと専門家や子ども自身とよく話し合わないといけないだろう。
 つうか、もっと言えばこの巻末の3ページはおまじないだろ。小林の体験談だけで本にしてしまうと「これが小林流不登校対応です」という特殊処方箋みたいになってしまって、それを何の考えもなしに真似してしまう人が出るから、専門家の一般的処方を載せてエクスキューズにしたのである。
 だから「わかった。この本を読んでこの体験を安易に真似してはいかん」というふうに頭の片隅においたうえで、小林の体験を「楽しむ」というのがこの本の正しい読み方だということだろう。

「心の仕事」をしている

 小林の体験に出てくるような思春期の子どもの「学校に行きたくない」という行動については、高垣『登校拒否を生きる』を読んで二つのことが印象に残った*2


 一つは、思春期の「学校に行きたくない」という行動は、子どもが「心の仕事」をしているのだ、という把握。「第二の誕生」をやっているのだ、というわけである。
 親や周囲が外的な原因を探し回りその「除去」に腐心することをやめて、自分の中にある小さな違和感や思いを言葉にするような作業を対話などで重ねさせていく「非日常的な時間をもつ機会」(高垣p.103)を保障すべきだと高垣は述べる。
 そして、その子どもの中での「主観的に真実味のあるイメージの世界」(高垣p.77)の再構築ができるようになることをめざす。子どもにとってのリアリティは「主観的に真実味のあるイメージの世界」がかかわっており、そこには「物語世界」があるのだという。
 これはマンガ・虚構のリアリティの議論に近い。
 「不本意な道を選ばされた不幸な娘」から「親の愛に包まれた娘」という物語の書き換えを行ったケースを紹介している。

「生の裸の現実」(そんなものがあればの話ですが)にはリアリティはありません。サルトル流にいうならば、「嘔吐」するような剥き出しの無意味な存在かもしれません。物語の方がずっとリアリティがあります。つまり、人を動かす力があるのです。というよりも物語をかぶせて現実を見たときに、はじめて人を動かすリアリティが生じるといってよいでしょう。
 人は自分の物語にすがりついて生きています。そのリアリティが崩されようとするときに、それに必死ですがりつくこともあるし、新しい物語に書き換えることもできるのです。(高垣p.81)

 このくらいの分量で言われると、なるほど外的な原因を探してうろつきまわるよりも「第二の誕生」の苦しみの援助は、静かな、非日常での対話しかないのかもしれない、と思える。


 ただ、自分の中での物語の書き換え、ということだけ強調すると、何だか自己啓発セミナーのように聞こえるな。周りの環境に合わせて自分が納得するように思い込む、みたいな。
 そこで、この本で印象に残った、もう一つの要素について話を移そう。

「私化」現象への批判

 もう一つ、高垣の本で印象に残ったのは、「『本当の自分』を自己の内部に求める傾向」「『私化』現象」(高垣p.84)ということである。

 高垣は「アダルトチルドレン」など心理学的な用語を使った人間類型(の把握)が1990年ごろから盛んになったことを片桐雅隆の議論を紹介する形で述べた後、

「本当の自分」を社会や国家などの中に位置づけるのではなく、身近な自分や「自分の内部」に求めるという自己の語り(同前)

を批判し、

日常の人間関係が「他人と共にありながら、あるがままの自分である」ことの非常に困難な関係になっていること。そして「苦しみを共有し、共に悩む」ことのできる関係が失われてきていることの現れなのではないかと考えます。(高垣p.85)

と考えるのである。
 もちろん、これは単純に自分の問題を天下国家の話に絡めろ、というのではなくて、自分の身近にいる他者とどう生きていくのか、という問題なのだと高垣は注釈をしているのだが。

サバイバルとして学校と社会

 これはぼくの解釈だが、高垣が不登校を不適応と把握し、自分の中にのみ問題原因を探る対処を、高垣が強く批判しているように読めた。


 高垣は、現在の思春期の子どもたちが「グローバルに展開する企業社会に動向に合わせた『教育改革』の渦中」(高垣p.153)にいて、「学力競争」はもちろんのこと、道徳の教科化に見られるような「人格的なありようまで点数化し、競争させる『よい子』競争」(p.154)に巻き込まれていると指摘する。
 そして、その親たちはといえば、中年期にさしかかり、

企業社会の側からは、一九九〇年代後半以降の労働力市場の大きな再編と不況の波をもろにくらい、リーマンショック以後のリストラにあわせて自分自身をリストラ、再構築していくことを迫られているのです。(高垣p.153)

 つまり、親子ともに新自由主義的な生存競争の荒波にさらされている、というとらえ方だ。

子ども時代に競争原理の洗礼を受け、今またさらに過酷な競争にさらされている親は、ともすれば競争原理に支配された目で子どもを見、企業社会の「下心」を受けたかたちで、「下心」を持ってわが子と接することになりがちです。その結果子どもは、「よい子」でないと見捨てられるという脅しを受けながら、自分の頭で考え、自分の心で感じたことに依拠しながら自由に自分の人生を選択していく主人公になることが困難になるのです。(高垣p.154)

 つまり社会に適応できない子どもという把握ではなく、外側にこそおかしさがある場合、不適応である子どもは、社会から「脱落」しているのではなく「脱出」しようとしているとも言える。
 高垣が「不登校」という言葉ではなく、主体的・意志的な要素を含む「登校拒否」を使うのは、そのあたりの把握に関係がある。


 こうした視点でもう一度『娘が不登校になりました。』の小林の娘(「娘ちゃん」)を見直してみる
 「娘ちゃん」が最初に学校に行かなくなった中学は、「公立の中では地元一番の進学校」「学区外の遠い所からわざわざ通っている子もいてなんかみんな賢そう」「そのうえスポーツも盛んで全国体力づくりモデル校」(小林p.8-9)というような学校である。担任のマッチョさは、その校風に合ったものだろう。
 そして、フリースクールを経て通うことになった私立学校は担任もかなり公立の時とは違った雰囲気で、さまざまなことにもフォローが入れられていたようだったが、小林は、

中高一貫だったせいか、高校受験がない代わりに、中学の時点でもう大学受験を見すえている雰囲気があった。そこには娘はかなりプレッシャーを感じてしまっていたのかもしれない。(小林p.76)

とつぶやている。
 結局小林の娘が居心地のいい場所として最終的に選択するのはフリースクールに戻ることだった。


 このプロセス全体は、高垣の指摘することにきれいに当てはまるような気がする。あからさまに、もしくはそこはかとなく立ちのぼる競争主義的な空気に居心地の悪さを感じたのではないか、ということだ。


 もしそうだとすれば、「娘ちゃん」が布団に引きこもろうとすること、フリースクールのユルい雰囲気に馴染んだことは、まさに「心の仕事」をする時間を「娘ちゃん」が欲していたのだということだろう。

不登校・登校拒否の理論・実践には長い歴史があるが…

 実のところ、不登校・登校拒否をめぐる理論・実践は、長い歴史があり、いまぼくが述べたような観点――学校に行かないのは、その子の問題ではなく、学校やそれをとりまく社会の方に問題があるのだ――は、反精神医学の影響も受けながら、すでに1980年代には登場してきた意見である。そして、そのニュアンスもさまざまである。
 だから、そういう理論や実践をすべてさらった上で、どうこう言えるという立場にぼくは全然ない。
 だけど、やっぱり世の親は(ぼくたちの家庭を含めて)どうしても子どもの方にだけ問題を求めてしまう。子どもの性格や「障害」の問題としてのみ現れるということだ(実際、小林の娘は「適応障害」の可能性を医師に言われたようである)。
 明確な解があるわけじゃないけど、学校や社会の側に何かしら問題・患部があって、敏感なセンサーを持つ子どもがそこに警戒をしている……という把握を頭の隅に置きながらコトに当たるしかないように思う。

今のところのぼくの暫定的な対応

 今のところのぼくの暫定的な対応は、

  • 学校に行かない、行きたくないなという行動が出始めた最初の頃は、できるだけ学校に行ってもらうモードで対応する。
  • でも無理やりモードはダメ。「月1〜2日くらいは休んでもいいけど、あとはがんばって行ってみよう」「遅刻してもいい」というハードルを下げて行かせる。
  • 原因探しは良くないとされるが、一応何に悩んでいるかは探る。大げさにせずに対応できそうなら対応する。
  • 学校に行かないことが長引き始めたら(文部科学省の定義では年間30日以上。うちは月1日ずつ休むので年間12日だ)専門家に相談する。

くらいであろうか。間違っているかもしれない。特に小林の本に載っている専門家(中山)の意見とは違うもの、というか禁則にモロに触れているようになっている気もするが、まあ当面はこれでいい。
 教育は教育科学にもとづくものであるが、一般的な原則を当てはめるのではなく目の前の子どもを具体的にみて対処する営為なのだから。

*1:それなのに小林のこの本のアマゾンでのカスタマーズ・レビューを読むと「それにしても甘すぎる」だの「この娘さんは今後相当苦労するのではないでしょうか。日本の社会は『何となく嫌で行かなかった』にかなり厳しい目を向けますから」だの「悪気なく家族をダメにしてしまう人」だの、その冷たさといったら…。鬼かよ。

*2:高垣は心理臨床家で、立命館大学元教授であり、登校拒否・不登校問題全国連絡会世話人代表