高田かや『カルト村で生まれました。』


カルト村で生まれました。 ヤマギシ*1の村で育った著者の半生。
 題名ほどのセンセーショナルさはなく、ヤマギシ会が営んでいた共同体での出来事を描きながら、周りとの齟齬や抱いた違和感を綴っている。
 著者・高田かやが育ったのは、平成になってからの話であるが、今はこのときからかなり緩和されている。だから、そのまま「ヤマギシ会の現状」とすることは正しくない。その前提で読んでほしい。
 

 子どもは親から隔離され、共同体で育てられる。世話係の大人が育てる。昔風の保育士とか学童保育の支援員、学校の教師のようなイメージを持ってもらえばよい。
 しかし、村に学校はないので、一般の学校に通う。「村の子」として括られる。とはいえ、そこに差別があったという感じではなく、一般社会でもよくある「団地の子」的なくくりのように思われた。


 貨幣、テレビ、マンガ、電子ゲームなどがほとんどない世界。
 「青年の家」とか児童施設に行くとあるようなアナログなゲーム、遊び道具、「健全」な図書類にとりかこまれ、自然味豊かな農産物を食べて暮らす。
 と、こう書けば、これはある種の教育理想を求める人たちにとって、ユートピアとさえ思えるのではないだろうか?


 ぼくの娘が通った保育園の文化や、いま娘を通わせている少年団のようなサークルの文化は、この本で書かれた理想に近い。もちろん、ここで描かれた体罰や管理主義的な空気はまったく違うのであるが。
 しかし、自然の中で遊び、育つことや、ゲーム・テレビなどを否定的にとらえることなどは、ひどくよく似ている。「村の子の四季」で描かれる質素かつ自然の中での遊びは、「カルト村での恐ろしい出来事」というより、「無理解な大人たちに抗しながらの、よき思い出」のようにしか読めなかった。

村ではたくさんの果樹を育てていて果物の実る季節になると「屋外食」と称し果樹の下でお弁当を食べ、食後は頭上の果物をもいで好きなだけ食べ放題(p.64)

 このような満腹は普段のひもじさ*2やお菓子などのなさと裏腹なのだが、いやー、子どもの体験として、なんか悪くないんじゃない?


 ぼく自身は、特に今現在アウトドアが好きというわけでもないし、日常的には子どもを外で遊ばせるということさえさせていない(ほとんどの日、娘は家でマンガを読み、テレビを見ている)。だから、そうした自然回帰的な傾向をぼくが真正面から理想だと考えているわけではない。娘が通っていた保育園は、テレビやデジタルゲームの文化はもちろん、機械で音楽をかけることにさえ批判的であり、そういうことにたまに辟易したものであるが、しかし、まあそういう空間で保育されてみるのも子どもの頃くらいはいいではないかと思って、預けていた。そして、ぼく自身はネットにズッポリハマっている生活を送っているし、食べるものにも全然気を使わない(例えば「無農薬」とか「有機」とか「国産」のようなことにあまり神経を使っていない)。


 だから、ぼくはこのような自然回帰的な傾向について、半分くらいは斜に構えて見ている。他方で、ある限定された条件下であればそれもいいかもしれないと思っている。小さいときから日のほとんどをそこで過ごした保育園での生活を、小3の娘は極めて肯定的に振り返る。あたかもそこが家庭の一つであったかのように。


 ゆえに、ここに描かれた「カルト村」のグロテスクさは、(本当に体罰や管理主義を除けば)「悪くないんじゃない?」というアンビバレントな気持ちで読むことになった。


滝山コミューン一九七四 (講談社文庫) 原武史『滝山コミューン一九七四』は原が小さいときに、自分が育った東京の多摩地区(東久留米)で体験した左派系の教育の息吹とグロテスクさを扱ったノンフィクションである。団地の民主化、子どもの「自治集団」化、班による集団主義教育など、ある種の左派が理想とした教育がここにあったわけだが、それは今振り返ればグロテスクなものと一体だった。
 理想に燃えた時代がユートピアのようにもディストピアのようにも見えるというこの錯視。こうしたものを扱った作品を読むとき、ぼくは酔いに似たような、不安定な感覚を受け取った。ぼく自身が左翼であったり、またはそのような理想主義にとりつかれた人間であるからである。


 本書で描かれたことを本当にただの「カルト」だとしか思えない人は、おそらく半分くらい損しているし、それならばもっとグロテスクなディストピアの話を読んだ方が「面白い」だろう。自分の中にこのような共同体を理想とするところがある人が読むと、例えようもないほどのめまいを覚えることになるはずだ。

*1:本書にはそう特定する記述は一切ない。

*2:子どもの腹時計に合わないだけであって、例えば夕食は「腹十二分目まで食べる」というのが「村の方針」。