山本浩資『PTA、やらなきゃダメですか?』

PTA、やらなきゃダメですか? (小学館新書) 『“町内会”は義務ですか?』(小学館新書)の著者として、『PTA、やらなきゃダメですか?』(小学館新書)の著者、山本浩資さんと対談した。ぼくは対談に臨むにあたってぜひ聞いてみたい点が3つほどあった。

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半強制性という奇妙さ

 PTAと町内会に共通する「気持ちの悪さ」は、自主的な体裁をとっていながら、その実、半強制であるという点だろう。この半強制性の奇妙さ、気持ち悪さについて、まずは確認し合いたいと思ったのが1点目である。
 山本さんは、ドラッカーのマネジメント論を生かしてPTA改革にとりくんだのだが、山本さんが参照したドラッカー『非営利組織の経営』(ダイヤモンド社)の冒頭には次のくだりがある。

ボランティアが管理する組織は日本にないわけでもない。むしろその一つは日本でこそ大きく花開いている。戦後の教育改革でとりいれられたPTAである。…私の印象では日本のPTAの方がアメリカのPTAよりもずっと活発で、重要で、影響力をもっている。

 微笑してしまいたくなる表現だが、ドラッカーがいわば「だまされて」しまうほど、PTAの半強制性は公式にはたくみに隠されている。当事者にはいやというほど感じられても。


 ドラッカーが町内会をあげなかったのは、これが強制の歴史、つまり戦争推進と結びついていたせいもあるだろうが、PTAのほうが志願的性格、自発的性格(体裁)がより強いからではないだろうか。


 いずれによせ、PTAと町内会に共通する「半強制・半志願」という組織の「気持ち悪さ」、原理的な不明快さ(それゆえに紛争やトラブルのもとになっているところ)を明らかにするのが、ぼくの対談にのぞむ1つ目のスタンスだった。

 山本さんの本の第1章「限りなく“ブラック”に近い組織」は、その「気持ち悪さ」の解明にあてられている。
 その中でも、「実際は同調圧力で強制するけども、体裁は自発的である」というしかけをあばくところがいくつも出てくる。
 たとえば「6年に1度は委員を」というルールは「暗黙」のものである。規約(会則)や内規に堂々とうたっているPTAもあるが、多くはそうではない。規約にしないで、口頭で役員がいったり、プリントなどで「6年に1度は委員を、ということをお願いしています」と書いたりする。


 「くじで委員決めをおこない、欠席した人にあたり、欠席した人はそれを断れないものと受け取ってしまう」という話も出てくる。実際には断れるのだが、「断れない」という感覚の存在自体が、非常に微妙な同調圧力として会員たちに効いていることがわかる。
 このような感覚は、公式には「引き受けていただいたいのは、あくまで自主的なものです」と組織側が言い逃れられることと裏腹のものである。


“町内会”は義務ですか? ~コミュニティーと自由の実践~ (小学館新書) そして調査票の存在。
 役をやっていない人のリストをつくり、不公平感をあぶりだし、圧力をかけるというものである。
 実は、いまぼくはPTAのある委員会の副委員長をしているのだが、この委員会では委員たちの負担についてのリストをつくっている(何かの役を引き受けたリスト)。委員長も同調圧力をかけることは嫌いな人なのだが、委員内で何かの役を引き受けている人の中で不公平感が高まることと、もともとくじで決まった人たちがアパシーになって完全に放り出してしまうことが気になって「公表はしないが作成しているので、どうぞ積極的に引き受けてください」ということを委員長は委員たちの前で言ったのである。
 つまり、「やりたくないのにやっている」という人がいることを前提としている以上、こうしたしかけをつくりたくなってしまうのだ。

 本書7ページに「キーワードは『ボランティア』」とある。ぼくも自分の本(『“町内会”は義務ですか?』)の中で「基本はボランティア」と書いている。
 まったく同じだ。
 「やりたい人が担う」というふうに原理を転換(統一)することで、「半義務、半志願」という町内会・PTAの「気持ち悪さ」を解消するのが、ぼくと山本さんの共通する主張である。


 「やりたい人(必要だと思う人)が担う」というのは、サークルのような原理に転換するということだ。半強制によって組織体の側がラクに頭数をそろえるのではなく、サークルの勧誘のようにして人を集めるということを意味する。人を集めるコストが、組織する側に転嫁されるのだ。「こんなに面白いからやってみない?」「こんなに大事だから、ぜひやってよ」という工夫を組織する側がおこなわなければ人は集まらない。集まらない組織、集まらない事業部門は滅亡する。
 この工夫が、組織を自己改革させていくテコになる。
 たとえば防災。どんな旧態依然の防災訓練・防災活動でも無理やり員数をつけて集められるなら、そのまま続いていく。小学校に町内ごとに動員をかけた人たちが消火器をかける訓練をする…みたいなやつね。だけど、そういう半強制が効かず人が集められなくなったら、「みんな防災の大切さがわかっとらん!」と住民をいくらののしっていても、そのまま消滅していくだけである。今すでに始まっているが、夏祭りのようなイベントのなかで防災活動をゲーム的にやったりする町内会もある。「防災ピクニック」のような非常食・非常グッズを使ったピクニックを子どもと楽しむという方法をとっているNPOもある。


 東京や首都圏あたりとかなり温度差があるなと思ったことだが、福岡でPTAの任意加入の話をするとたいていの人はきょとんとする。想像もつかない感じで、せいぜい「ネットで騒がれている、役を逃れたいだけのジコチュー、モンペの言い分」くらいの扱いをされる。
 何よりも、任意制にすれば(つうか法的には明らかに任意なのだが)、人が集まらなくなって崩壊すると確信しているのだ。「意義がある」「大事だ」と繰り返し強調されながら、心の底では「こんなつまらない事業にはだれも集まらない」と思っているのが、福岡のPTAの現状である。
 実際つまらない。
 それがボランティアという原理に転換することで、どう楽しいPTAになるかを示したのが本書である。実際には多くの人が加入しつづけ、しかも楽しくなっている。そういうことを実例として知ってもらえるのだ。福岡にいると、そういう実例があること自体が信じられないといった感覚である。

校長や町内会からどう合意を得たのか?

 山本さんの本を読んで、ぼくが対談の中できいてみたいと思っていた第2点は、「校長や地域(町内会)は文句を言わなかったの?」という点。つまり、合意形成・合意調達をどうやってやっていったのか、という点だった。


 山本さんの本の中にも、反対者や不安・疑問に感じている人にどう向き合ったのかは出てくる。特にアンケートがなんども出てくるけども、相当にていねいにやっている印象を受ける。改革の宣言に対してレスがなかったり、人が全然集まらないのにめげずにやっているあたりは、スゲェ…って率直に思う。
 だけど、ぼくが想像する一番の反対者は校長であり、もしくは地域の有力者、具体的には町内会関係者なのだ。
 これを読んでいる人の中で、校長が反対者になるのはわかるけど、なぜ町内会がPTA改革の反対者になるかわからない人もいるかもしれない。
 町内会はたいていどこでも小学校区くらいの広さで連合体を組んでいて、その単位で子どもの登下校などの「見守り」をしていることが多い。それ以外にも、このような小学校区単位で子ども会の連合体など「青少年健全育成」という枠組みでPTAを引き込んで仕事をしていることが多いのである。
 もしPTAが任意制であるとされて、担い手が減ってしまったら、一体この仕事は誰がやるんだ! という不安と怒りが炸裂しても不思議ではないのだ。
 したがって、ぼくは校長や地域の人たちがそもそも反対したのか、その場合、どう説得したのか、合意調達したのかを知りたかった。


 新書『PTA…』でも、そして対談でも、PTA内部の反対者についてはいろいろ書かれている。だけど、実は、PTAの中についての反対者についてはぼくはあまり心配していない。ぼく自身も町内会長や保育園の保護者会の会長をやってきたからわかるけど、組織の中心にいる人たちは、すでに1〜2年一緒にやっていると「こいつの言うこと・やることなら任せて安心だな」という信頼感があるからである。どうしてもやろうといえば、不安はあってもついてきてくれる。
 しかし、「外部」はそうはいかない。
 特に、別の論理で動いている人たち。PTAに対して校長とか、地域の町内会(や連合体)幹部というのは、基本的に「外部」の人である。
 そこをどう「説得」=合意調達したのかは、新書ではあまりにあっさりし過ぎていて、対談でそのあたりを詳しく聞いてみたかったのである。


 「ていねい」さがそのまま時間をかけた民主主義になっている。特に、山本さんが反対者に対する「公聴会」を設定した様子を紹介しているので、そのあたりを読んでもらうといいだろう。
 新書『PTA…』でも、山本さんがPTAの連合体の中で衝突することなく、粘り強く改善を引き出している経験がラスト近くに紹介されている。
 対談が終わっての帰り道、いっしょに来ていた編集関係者から「連合体に吊し上げられたり、発言で場が凍りついちゃう紙屋さんとは違いますね〜」などと笑われた。くそう。残念ながらその通りである。


 「ボランティアで大丈夫?」という点と、「地域の反対はなかったの?」という両方にまたがることだが、例えば「子どもの登下校の見守り」のような、要はこんな面倒くせぇ仕事は、絶対引き受け手はいないだろうな、という問題は、どうなったのかも興味があった。
 山本さんの本では、「ベルマークはぜひ続けたい」という「奇特」な人がいたことは明らかになっているけども、「登下校の見守り」はとてもそんな人がいるとは思えなかった。山本さんの本には、「自主的に登下校の見守りをしている人もいたので」(p.165)とあるが、信じられない思いだった。
 これについては、対談の中でやはり山本さんから明らかにしてくれている。

行政からの圧力はあるのか

 対談に際して、明らかにしたかった3点目は、行政からの圧力との関係だった。
 対談でぼくのほうが述べていることなのだが、PTAは家庭教育を担わされる機関としての役割を文科省側から期待されている。
 奥村典子『動員される母親たち 戦時下における家庭教育振興政策』を読むと、戦時下で国策として家庭教育振興が行われ、その動員ツールとして父母組織があったことがわかる。
 PTA、とくにPTAの連合体で強調される「家庭教育」は一貫して保守の側にある願望だが、また、本田由紀『「家庭教育」の隘路』を読むと、1990年代後半に急激に強化され、各種審議会や社会教育法・教育基本法改定に「実った」ことがわかる。本田は「家庭教育」の強調が各家庭の焦燥感や格差を広げると警告している。
 現在、PTAはこうした役割を担わされつつある。
 例えば下記は、福岡県のPTA連合が出している冊子である。
http://www.fukuokakenpta.gr.jp/others_kenp/pta.pdf
 ここには、PTAの実践として家庭教育が華々しく紹介されている。
 「家庭での基本的生活習慣を」ということ自体には反対しづらいものがある。それは「防災」や「防犯」に町内会が反対しづらいのと同じである。しかも、教育基本法の改悪によって「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」(第10条)とされてしまった。家庭教育の強調は、「しっかりした家庭」を個人責任の中に押し込める責め道具に転嫁しないだろうか。


動員される母親たち――戦時下における家庭教育振興政策 ただ、「家庭教育などをPTAが学校・教育委員会文科省の下請けとなって現れる」という点は、ほとんど話し合われなかった。上記のような福岡県の実態は少なくとも山本さんの学校では「なにそれ?」みたいな感じであろうか。
 そのかわり、学校ではなく、地域行政(山本さんのところで言えば区)とのかかわりは対談の中でかなりリアルな様子が聞けた。それにきっぱり断りをしたという点でも面白かった。
 ここでも「半強制」というあいまいな下請け性が、山本さんの実践によって暴露され、明確な拒否をされているからである。


「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち 町内会にしてもPTAにしても、その同調圧力の根源に、行政からの圧力がある、とぼくは考えている。ほとんどの構成メンバーを組織するこれらの団体は、行政からみれば、垂涎するメリットがある。新自由主義新保守主義の政治のもとでは、それをできるだけ利用しようという思惑が働く。その思惑への警戒抜きに、善意だけでこうした団体の中に飛び込むわけにはいかない。危険なのだ。同調圧力は、「日本的組織だから」という問題もあるが、それだけではない。

改めて任意加入の徹底と民主主義を考える

 最後にであるが、山本さんの本『PTA、やらなきゃダメですか?』は、もう一度基本に立ち返って、任意=ボランティアであり、その発想をベースにしたところで組織を大きく組み替えることでエネルギーも活力も出てくる、という最も大事なことが押さえられる。そのことを改めて噛み締めておきたい。

 例えばこう言う記事がある。

「やってよかった」こうすれば辛くないPTA役員 働くお母さんのための実践的アドバイス | JBpress(日本ビジネスプレス) 「やってよかった」こうすれば辛くないPTA役員 働くお母さんのための実践的アドバイス | JBpress(日本ビジネスプレス)

 PTAについてネガティブな記事ばかりが最近増えているけど、PTAは悪いことばっかりじゃなくて、とてもやりがいがあるんですよ、というわけである。
 うん、そのこと自体は、そうだと思うんだよね。
 特に、やりがいもってやっている人には。
 でも、そうではないという人のことを考えてほしい、というまずは、消極的な意味でPTAの任意制の徹底が必要なのである。
 憲法学者の木村草太が、わざわざPTAの強制加入と沖縄問題の「異同」について触れている(2015年4月6日付「沖縄タイムズ」)。

【木村草太の憲法の新手】(5)PTAへの強制加入は許されない | 木村 草太 | 沖縄タイムス+プラス 【木村草太の憲法の新手】(5)PTAへの強制加入は許されない | 木村 草太 | 沖縄タイムス+プラス

 PTAで嫌がらせが生ずる原因は、多くの場合、「本当に困っている人」への想像力の欠如にある。多くの人にとっては、PTA強制加入の不利益は、ちょっとの我慢でやり過ごせる。嫌々でも付き合っておいた方が、改革に向けて努力するよりも楽だ。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 木村は「しかし」と続けてこう述べる。

しかし、一人親で多忙を極める人にとっては、子どもとふれあう貴重な時間を奪うことになる。センシティブな病を抱える人にとっては、耐え難い心労となる。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 このような人への想像力が民主主義の基盤となる、と木村は言う。

 こうした「本当に困っている人」への想像力こそ、異なる人々の共同的な意思決定、つまり民主主義の基盤だ。基地問題に「本当に困っている」沖縄の人々であれば、PTA強制加入の深刻さも理解して頂けるのではないかと思う。

http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=234

 まさにこれである。PTAの強制性を「いやだなあ」と思っている人でも、多くの人にとっては「少し我慢すればなんとかなること」なのであるが、それに耐えきれない人がいることは、「いやだなあ」という程度の人でさえ想像の範囲外にある。そこへの想像が及ばないのだ。
 「やってみると楽しいよ」「大事だからやらなきゃ」「大変なのはみんな同じ」という言い分でPTAの強制性が覆い隠されてしまう。
 むしろ楽しんでPTAをやっている人たち以上に、「いやだけど、いろいろ手はずを整えてちゃんとやっている私」みたいに感じている人の方が、耐えきれない人々への想像力を欠きやすい恐れがある。


 山本さんやぼくの新書が強調している任意=ボランティアにすることで活力が生まれるという点の大前提として、そもそもPTAや町内会に入って仕事を担えないという生活に想像力を及ぼすということが、民主主義にとっては一番大事なのかもしれない。


 最後にであるけど、この対談を企画し、まとめてくれたライターの大塚玲子さんには本当にお世話になった。改めてここに感謝を申し上げておく。