娘が中学校を卒業し、新しい進路に向かうけども

 娘が中学校を卒業し、新しい進路に向かう。

 中1が終わったときに次のような記事を書いたが、そこからここまでこられたこと自体が奇跡のようだ。2022年の1年間で自殺をした小中高生は512人と過去最悪になったという。

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 それにしたって、娘が死んだり壊れたりしなかったことを安堵するのは、親心として仕方がない気がするのだが、例えば戦災で多くの子どもが亡くなっているというのに「ああ、自分の子どもは死ななかった。よかったー!」という心情になるのはどうにもおかしなことだと思う。戦争の代わりに新自由主義という災厄がぼくらの社会にはある。その社会という枠組み自体が問われないといけないのに、個体が生存競争に勝ち抜いたかどうかだけにしか関心がいかないその思考方法に自分自身がハマっているのだと思うと暗澹たる気持ちになる。

 

 振り返ってみて、結局高校受験間際になって親として娘と話していたことは、「偏差値」であったし「効率的な受験勉強」のことばかりだった。地理の知識、歴史の知識、公民の知識、そういうものをぼくら生活している現実と全く切り離して暗記させることばかりやっていた。それって、「ノートの空白を埋めろ」とせっついた、中1の時の娘の担任とどこが違うのだろう。

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 そんな時、藤のよう『せんせいのお人形』を久々に読み返していたら、難関である編入試験に合格できそうもない主人公・スミカに対して、頭脳明晰な同級生の辺見類が勉強を教えるシーンがあった。それまでスミカについてきた家庭教師たちが効率のよい解法や受験勉強を教えようとして失敗してきたのに対して、辺見は数の不思議・数というものの面白さを示すところから話を始める。

 それをみていた保護者(照明)は「数学に興味を持たせるところからか…」と考える。

 ぼくもその部分を読んでいて、そんなことをしていてはおよそ間に合わないのではないだろうか、とじれったい気持ちになる。目の前の受験で悩んでいる人に、「勉強に興味を持つところから始めても…あんまりにも迂遠じゃないのか?」という白けた気持ちになるのだ。

 しかし、スミカはそこから照明との食事の際に会話の話題をして、古代ギリシアの哲学にたどり着く。

 スミカは「最近授業で聞いたことのない話ばっかり聞く…」と思う。

 そして教科書には何が書いてあって、何が書いてないのかという興味へ繋がれる。

 やがてスミカは教科書と事典から、数学と哲学がつながっていたことに気づき、神話や神を媒介しなければ世界を説明できなかった原始的な世界観から脱却するために数学が生み出されたことに気づくのである。

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 そんなにうまくいくわけないじゃないか!

 …と思う。

 これはつくり話だ。現実はそんなに甘くはない。

 しかし、である。

 しかし、これは大事な理想ではないのか。

 短期間でそこに到達できなかったとしても、自分は他の保護者や教師たち、住民たちと本当はそういうことを学んで、できうれば子どもたちもそこに巻き込んで行けるようなそういう運動が本当は必要ではなかったのか? とも思ったのだ。

 受験勉強という枠組みから脱出できない知の在りようを問い直して、学問が世界を解釈し生きていくために必要なことだと思えるような、そういう楽しさをまずは自分が、(大人である)自分たちが獲得していく、そういう運動や作業が本当はほしかった。とぼくは思い至った。

 だけど、そんなことにすら気付けないうちに中学生だった娘の保護者の期間は終わってしまった。

 PTAがそんな取り組みの枠組みになるような気が、全くしない。かといって、自分でその運動を起こしていくには時間も手段もなさすぎた。自分一人でそれを起こしていけばいいのだろうか?

 「しんぶん赤旗」の連載小説「立春大吉」は、愛知県の奥三河での地域医療をめぐる住民運動の物語であるが、その地域医療をめぐる運動が、実は戦前史、戦争、東日本大震災不登校など実に様々な問題とつながっていることを示していく形式、いわゆる多声性を持った小説になっている。

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 今ちょうどこの小説は、不登校の子どもたちが主人公の一人・雄介の主宰する作文教室に通うシークエンスを描いている。雄介が受講者の子どもの母親の一人に向かってこういうくだりがある。

「……言葉は不思議です。自分を行動に駆り立てたり、気持ちを表現できたりする。僕は、就職活動で何十社も落ちたけど、その悔しくて苦しい気持ちを日記に書くことで乗り越えられた気がします。ここでは読書と作文に慣れてもらいます。慣れないと苦行になっちゃう。で、作文の基礎は、やはり日記です。こんなこと、学校では教えてくれません。でも学校を出た後でも大丈夫です。読むことと書くことは、いつでもどこでも挑戦できることです。もちろん大人でも…」(「しんぶん赤旗」2023年3月25日付)

 辺見が教えスミカがたどり着いたこと、あるいは、雄介が作文教室で意図しようとしていたことは全然別のことのような気もするが、同じようなことにも思える

 生きていく上で人間は世界を解釈しなければならず、そのために学問があり、学校の知はそこと切り離されてはおらず、その一部を構成しているという体感を得ることが大切なのだ。

 学習参考書の会社で働く人たちを描いた佐原実波『ガクサン』の3巻には、主人公・茅野うるしの姉と娘が登場する。娘(うるしの姪・ゆかり)は小学校5年だが、勉強に興味が持てない。

 うるしはこれがいいのではという参考書を提示するのだが、ゆかりは興味を全く持ってくれない。もう一人の主人公であるうるしの同僚・福山は、「…興味うんぬん以前に 『読む』ための基礎ができていないのでは?」とうるしの姉にアドバイスする。

 読むことができない、つまり読むために細かに設けられたルールを知り、自覚的にそれを操れないために、大きな差が開いている。

 それは中学受験のためのお勉強ができないということではなく、生きていくための世界解釈ができないことを意味するのだという趣旨のことを福山が説く。

 画面を見るとわかるが、ここには個人の生存競争としての焦燥と、個人が共同して世界を構成していくさいの問題の提示が同時に行われている。あくまで前者にそれは偏っているのだが、ここには「競争社会の落ちこぼれになっている」という母親の焦燥が描かれると同時に、世界への接続が断たれているという普遍的な問題が描かれている。

佐原『ガクサン』講談社、3巻、p.32

同前p.33

  娘が中学生だった3年間にぼくは保護者として何も(社会的運動が)できなかった。だけどそれは課題を見つける3年間だったような気がする。だからと言ってこれからすぐに何かできるというわけではないが。しかし、別に娘が生徒や学生であるという「当事者性」の上に運動を築いていく必要は必ずしもないことを気づいた3年間でもあった。