舘野仁美『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』


 ぼくの仕事は裏方的なものだ。
 仕事とは別に、左翼の運動についてもぼくのやっていることは裏方である。
 芝居でいうと、議員とか候補者は俳優にあたる。
 でも芝居には、照明とか音響、舞台美術、メーキャップの仕事も必要だし、そもそも脚本とか監督という仕事もある。チケットを売ったり、宣伝したりする仕事もある。
 裏方から芝居を見たら芝居というものはまったく別の見え方をする。
 政治についても、裏方からみるとまったく別の見え方をする。

 
エンピツ戦記 - 誰も知らなかったスタジオジブリ 『エンピツ戦記』は、ジブリのアニメーターだった舘野仁美の回顧であり、回顧を通じての宮崎駿論、ジブリ論にもなっている。
 舘野の役割は動画チェック。「アニメーターが描いた線と動きをチェックする仕事」(p.14)であり

アニメーターの仕事の中で、いちばん地味で目立たない裏方で、まさしく縁の下の力持ちであることを求められます。(同前)

裏方論として読む

 本書の魅力の一つは、裏方論である。
 といっても、裏方について抽象的に論じられているわけではない。
 裏方である動画チェックの仕事を通して語られていることが、アニメとは別に、仕事一般に通じるエッセイとして読むことができるということだ。
 本書では宮崎論や他のアニメーターたちについて書かれた後に、この裏方の仕事のことを書いている。


 スケジュールが遅れて焦っている。
 焦っているものを効率的にさばこうとして、外注する。
 外注するとクオリティの低いものが返ってくることがあって、逆に修正やチェックに時間・費用を割かれる……。

ですから、なるべくリスクを避けたり(難しいカットは仕上がりを予測できるベテランにお願いして、比較的簡単なカットは若手や外のスタジオにまわすなど)、事故がおこってしまったときにはダメージコントロールをしたり(誰に頼めばリカバーできるのかを迅速に判断して手配するなど)、といったリスクマネージメントが必要になってくるのです。/「なにを大げさなことを言ってるの」と思われるかもしれませんが、品質管理をするのが動画チェックの任務ですから、じつはこれはすごく大事なことなのです。(p.148)


 本書は舘野のエッセイであるから、舘野は自分の才覚について書くわけにはいかない。ときどき舘野の仕事ぶりをえがいた大橋実のイラストが載せてあるのだが、あわせて秀逸なコメントを書いている。

カット出しのとき、舘野さんはカットの内容を見て、誰にどのカットを渡すか、すぐに決めていました。ぼく〔大橋――引用者注〕も『思い出のマーニー』で動画チェックのチーフを担当しましたが、とても舘野さんのようにテキパキはいきませんでした。舘野さんの蓄積が半端な量ではないことを感じました。


 さらに、このカット出し分配についての、舘野の細か過ぎる気配りが、舘野自身の筆でこう書かれている。

実際にカット出しをする上で、いくつか気をつけていたことがありました。似たようなカットばかりまわってきたら描く人も飽きてしまうでしょうから、苦労したカットのあとは少し楽なカットにしたり、人気のあるカットを「ご褒美」としてあいだにはさんだり、という操作をしていました。人間は機械ではないのですから、ただ仕事を詰めこむだけでは壊れてしまいます。そういうバランスも考えつつ、新人や若手には、力がついてきたら、少しずつレベルの高いカットを渡していくようにしていました。上がってきた動画を見れば、その動画マンの上達の具合がわかりますから、それを考慮してまた次のカットを渡すことができました。(p.149-150)


 ここにあるのは、スケジュールの遅れによる強烈な圧力のもとで、膨大な仕事対象(ここでは大量のカット群)を選別し、それにふさわしい人的資源を選び、実際に引き受けさせ、なおかつそこに労働条件的・教育的な配慮を差し込むという「超人」的な仕事ぶりである。さらに仕事を外注することとそのリスクについても考えさせられる。


 一般企業でもこういう役目の存在はいる。
 ただ、ここに示されているのは、チェック役でもあり、同時に教育係でもあり、さらに人の配分の役目、進行の配慮という1人数役、しかもどれもが相当な力量を必要とするそれである。仕事そのものについての知識・経験の相当な蓄積、調整力、そして教育力が必要になる。しかもそれは徹底して地味な仕事なのである。地味過ぎる。まさに裏方。
 「うちの会社はもっと整然とマニュアル化されているよ」というむきもあるかもしれないが、マニュアルでは難しい機微がここには必要だろうし、さらにいえばたとえば動画の選別のような能力は高度な蓄積が必要とするものだろう。


 政治の運動のなかでもこういう役目の人はいるかな、と考えてみる。「人の配分」と「教育係」というのを兼ね備えているような人は、いる。選挙対策(選対)の関係の部門などはまさに「人の配分」を司るわけだが、しかしながらこの「人の配分」が戦争での人的資源の配分のごとくであることが通常で、その人の成長や教育、さらに仕事の快適さまで配慮されていることは少ない。


 現場の組織から、報告や数字があがってくる。
 単にそれらを数字の多寡と定型の基準でみるだけでなく、現場で困難が起きていないかとか、逆に先進的な経験があるんじゃないかとか、そういう経験値の高い観察が必要だ。たぶん、舘野的チェック役を政治運動や選挙運動におきかえたら、こんなふうになるんじゃないか。これと、人的配分、教育係の機能をあわせもたせるわけだから、並大抵のことではない。 


 しかしながら、こうした仕事が「もしなければ」と思うと、ぞっとする。
 特に人の配置・配分の失敗は、直接的に事業を破綻させる(主に期日との関係で)。ついで事業をチェックする力の不足は、事業の出来をあからさまに左右する。終わってみて、あるいは終盤にいたって、問題が顕在化してくるのだ。
 さらに、教育や、仕事の快適度の調整は、長い目でみてボディーブローのように後でじわじわ効いてくる。職場環境が不快であれば一人ぬけ、二人ぬけ……と、スタッフがたえきれなくなって辞めていくだろう。
 低質な教育(もしくは教育の不在)はもっと長期的な影響を与える。後継が育たない。「人の仕事を見て盗んで育つことができ、不快な職場を堪えぬける人間」だけが残り、こうしたメンバーに依存して「我慢の修羅場」を「今回だけ」「今だけ」「次からは改善する」などと姑息にくぐり抜けているうちに、10年後には後継者のいない深刻な高齢化が職場を襲うのだ。


 この本には、ジブリが若手を育てるための事業をおこしたことについても書かれているが、いずれにせよ、そうした裏方の仕事というものの役割の大きさに思いをいたすことができる。

水鳥に「おまえ、飛び方まちがってるよ」と言った宮崎駿

 本書の魅力の二つ目は、「ジブリ名人列伝」ともいうべき部分で、宮崎駿高畑勲、それ以外の著名なアニメ関係者の凄さを、舘野の目を通して知れるところにある。


 本書の各書評などで紹介されているのですっかり有名になった部分だが、宮崎駿の次のエピソードは白眉である。

 1994年の秋に社員旅行で奈良を訪れ、猿沢池のほとりを歩いていたときのこと。園鳥の種類がなんだったのか覚えていないのですが、池には水鳥の姿が見えました。たまたま近くに宮崎さんがいたのですが、空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。
「おまえ、飛び方まちがってるよ」
〈えええーっ!?〉
 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。(p.53-54)

 舘野は、宮崎が常々写真やビデオを見たままに描くな、と要求していることを記したうえで、

宮崎さんは、ただ現実をそのまま描くのではない、現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを探求しているのです。(p.54)

と紹介している。
 創作の方法として、単純にフィクションとノンフィクションという分類があるが、別の問いを立てると「虚構と現実とどちらが豊かなものか」ということになる。
 虚構側の言い分は「現実なんてつまらないものだ。想像や空想なら宇宙の果てまで行ったり、世界を征服する独裁者になったり、世界中の女とヤッたりできるのに」というものだし、現実側の言い分は「日々科学の力で解き明かされている現実の自然や社会がもつ無窮の豊かさに比べたら、人間の想像の範囲にとどまる虚構の薄っぺらさといったら、ないね」というものだ。
 虚構は必ず現実にしばられている、というのが唯物論者たるぼくの考えである。その意味では現実の方がより根源的であるから、虚構はなかなか現実にはかなわない。
 しかし、人間の意識に強い印象を残すのは、虚構であることが多い。
 そのような虚構とは、まさに現実を調べつくして生み出される「典型」であるし、さらにいえばその「典型」を批判し、「典型」をこえて生み出される理想である。理想によって「典型」や現実は批判され、没落する。


 それは政治でも同じである。
 現実の批判のうえに理想が成り立つ。
 理想が空想でないのは、厳粛な現実批判に立脚しているからであって、よき対案・よき建設的提案が、徹底した現実批判から成り立つのは当然のことである。よく「批判ばかりで対案がない」とか「責任政党として対案を」みたいなことが言われるが、質の高い批判なしに対案など生み出されようもない。「安保法制を批判する輩は対案がない」と言われ、あわてて現実の土俵に無批判に乗り込んで、「何かに対処する」っぽい急場しのぎの「対案」を用意する営為は、その思想の貧しさに目を覆いたくなるほどだ。
 マルクスの経済学(『資本論』)は、共産主義の何らかの空想的なプランではなく、資本主義への批判であり、サブタイトルにあるように「経済学批判」、つまり現存する経済学への批判である。だからこそ、「マルクスは死んだ」と、もう5万回以上言われてもしつこくよみがえるのは、そのような透徹した現実批判をベースにしているからである。


 宮崎駿自身、憲法9条の支持論者であるが、日本国憲法は、現在の保守支配層がこの憲法を邪魔者に扱いし、これを葬り去ろうとするなかで、憲法規範そのものが現実に対するラディカルな批判としてそこにある。憲法は厳しい現実批判をベースにした理想として存在している。

大橋実のイラスト

 三つ目の本書の魅力は、大橋実のイラストであろう。
 驚くべきことに、本書にはアニメーションの動きの解説のイラストがほとんどない。かなりの箇所で作画のうまい・下手を、その動きに従って説明しているのに、イラストによる解説をせず、ほとんど言葉の力でやりとげているのである。61ページで「すべる歩き」「すべらない歩き」を解説している部分は、図による解説を使っている、数少ない一例だろう。
 それなのに、すごくよくわかる。
 それは舘野(および構成を担当した平林亨子)の筆力によるものだろう。


 こうした中身の説明としてのイラストとは別に、本書のところどこに添えてある、舘野の仕事姿を描いた、大橋実のイラストと絵解き(イラストの説明文)が秀逸である。


 とくに63ページの2つは楽しい。
 絵解きだけ紹介するので、実際にどんな絵かは、本書を読んで確認してほしい。

作画スタッフに注意しに行くときの舘野さん。妖怪アンテナが立っています。行きたくて行くわけではなく、さんざん迷った結果、「やっぱり言わなきゃいけないから行くしかない」という気迫、緊張した空気が漂っていました。(大橋)

注意した後で、「ちょっと言いすぎちゃったなあ」と落ち込んでいる姿。ぼくの記憶にある舘野さんは、たいてい机に向かっている後ろ姿ですが、このしょんぼりした背中もときどき見ました。声はかけられなかったです。(大橋)

 この姿の中から、チェックおよび教育的に接するという裏方仕事の厳しさ・難しさも伝わってくる。


 本書は決してアニメファン、ジブリファンだけにむけたものではない。仕事をする全ての人、なかんづく、裏方仕事をしているあなたが読んで、楽しきエッセイである。