古屋兎丸『インノサン少年十字軍』


 「ユリイカ 詩と批評」2016年3月号の古屋兎丸特集で、「『政治的なもの』を浮かび上がらせる 『帝一の國』をめぐる小考」という一文を寄稿させていただいた。古屋の『帝一の國』では、虚構と現実がどうせめぎあい、どのようにして「政治的なもの」が浮かび上がっているかを書いてみた。


 さて、ここでは古屋の『インノサン少年十字軍』について書く。


 「少年十字軍」というものを初めて知ったのは、高校の世界史の授業だった。
 といっても、授業中山川出版社の『世界史用語集』を読んでいるときに最初に知り、すぐに続いて、いつも反動的なことばかり言っていた世界史の教師が教壇から「少年十字軍」の悲惨な運命について語ったのであった。
 ぼくのつれあいも「少年十字軍」を知らなかった。世界史を選択していたにもかかわらずである。


 「少年十字軍」について知らない人のために簡単に説明しておこう。

少年十字軍 Children's Crysade
 聖地回復を叫んで独・仏の青少年多数がイェルサレムをめざして彷徨した事件。1212年6月、フランスのヴァンドーム付近で、羊飼いエティエンヌが幻視をえ、説教と奇跡により数千の青少年男女を集め、同じころケルンでも青年ニコラスが同様な方法で青少年を率い、ともに聖地へ向かった。あるいは難破し、あるいは送還され、その一部は奴隷に売られたといわれるが詳細は不明。
(村川堅太郎・江上波夫『世界史小辞典』1968年、山川出版社、p.314)

 純粋な信仰心で集まったものの、目的も果たせずに奴隷として売られてしまうという結末に心を痛めない者はいないだろう。つれあいも、この説明を聞いて呆然としていた。


 もっとも史実がどうであったかは様々な議論があるそうで、そのあたりが創作のバリエーションを生む動機にもなっているという。
 どこまでフィクションをまじえて、どこまでを「史実」とするか――この匙加減によって、物語の色彩は大きくかわってくる。フィクションとノンフィクションの度合いは、まさにこのテーマを扱う作家の考え一つなのである。


インノサン少年十字軍 コミック 1-3巻セット (Fx COMICS) 古屋兎丸『インノサン少年十字軍』は、中世の少年十字軍の生成・発展・没落という悲惨な末路を描いたで物語ある。
 『インノサン少年十字軍』において、フィクションとノンフィクションの度合いはどうなっているのか。


 古屋は「あとがき」の中で

この物語はどこまで史実に忠実なのか? という質問をいただくことがあります。

と書き出し、

10年ほど前にヒストリーチャンネルで1時間程の少年十字軍に関する番組を見て以来、ずっと頭の片隅に引っかかっていました。子供達の純粋さが結果、奴隷として売られてしまうという衝撃的な物語。大人によって蹂躙され利用された当時の子供達のあまりに弱い存在

と綴っている。
 つまり、このドキュメンタリーを見て受けた衝撃が、古屋の『インノサン少年十字軍』という作品の核となっている。


 古屋によれば、そこにテンプル騎士団、宗教抗争、当時の子どもにたいする扱い、ハンセン氏病患者・同性愛者・双子への差別などの「史実」をまぜこみ、いわばごった煮のようなスープをつくりあげた。「だからどこまで史実に忠実かと問われればほとんど創作」だと古屋は断っている。
 ただ、そのことによって

当時の人々が抱えていた苦悩や矛盾の一端ぐらいは描けたかなと思っています。

と古屋は誇っている。
 しかし、ぼくは『インノサン少年十字軍』は当時の人々の苦悩や矛盾に迫ったものではないと考える。
 確かに当時の貧しさや差別はその一端が垣間見えるけども、この作品の最大の読後感はそのような部分にあるのではなく、むしろある種の「美しさ」を感じてしまうところにある。
 快楽が残るのだ。
 古屋は自身の『ライチ☆光クラブ』を念頭におきながら、本作『インノサン』について、

未熟なまま組織を結成し摩擦を繰り返しやがて崩壊へと向かう僕お得意の(?)ストーリーを合わせ

たとしており、そのことによって本作は退廃的ともいえる美しさを輝かせる作品になった。



 「退廃的ともいえる美しさ」と今ぼくは書いたが、どういうことか。
 本作の圧巻は、結末部分にある。


ここからネタバレがいくつかあります


 かつてエティエンヌの村の仲間だった子どもたちの大半は悲惨な死を遂げ、ついてきた子どもたちの多くは奴隷に売られ、束の間の休息を与えてくれた村や宗教者たちは「異端」として殺され、エティエンヌが率いた少年十字軍は壊滅する。
 そして、エティエンヌ自身が「異端」とされて縛られたまま重い柱を背負わされる。すでにエティエンヌは生きているのか死んでいるのかわからない。いや、体力も尽き果て、食べる者も与えられず重い柱を背負うエティエンヌは、まるでミイラのようであり、眼も白く描かれ、フィジカルな意味ではすでに死んでいるといえるであろう。
 しかし、フランスの南端・マルセイユで、そんなミイラのようになったエティエンヌがまさに奇跡を起こそうとする。
 磔の柱を背負う姿はイエスの再来を思わせ、なおかつモーセのように海を割ろうとするのだ。
 海が割れようとしたその瞬間、その奇跡を起こさせまいとする教会側の人々によって、エティエンヌはとどめをさされ、奇跡は「阻止」される。


 海があやしく波立つ様は、オーバーに描かれている。
 そして、本作に初めから特徴的な描き方なのであるが、ページを見開きで使って水平線や地平線をおいて、その向こうに明瞭な流線を用いた雲を描く。
 ぼくは、この古屋が描いた地平線の向こうの山々と雲、あるいは水平線の向こうの雲を見るたびに、雄大な、そしてなぜだか懐かしい感覚を受け取る。雲が必ず風や流れを意識させるはっきりとした線で描かれることは、その画面に風ような動きを感じさせ、特に最終話で海を割ろうとするその絵の雄大さに、不気味さえ覚えた。


 さらに、その70年後に十字軍に参加した元少年(ニコラ)の一人が海を背景にそれを回顧する寂寥といったら、ない。記録をしたためた文書ができあがったとたん、海に散らばるシーンは、子どもたちを襲った苛酷な運命を、すべて「美しさ」の中にくるんでしまっている。それがぼくのいう「退廃的な美」なのである。
 倫理的にみればこんな終わり方が許されるものではない。

当時の人々が抱えていた苦悩や矛盾の一端ぐらいは描けたかなと思っています。

という古屋の言い分とはまったく異なり、ここには現実や歴史の苦しみではなく、まさに退廃の美を味わわされる快楽を、読者は受け取っているのである。それゆえに、この作品は素晴らしいのである。虚構を媒介して現実(史実)をいっそうリアルに示す、というのではなく、史実を利用して、あるグロテスクな美を描いたのである。



 『インノサン少年十字軍』は、史実から受けた衝撃を出発点に、現実の豊かさを様々に切りとり、利用しながら、できあがってみれば、歴史や現実とは別の、古屋のイメージした頽廃美に奉仕するものが描かれたのである。


啓示のシーンを山岸凉子と比べる

レベレーション(啓示)(1) (モーニング KC) エティエンヌが神の啓示を受けるシーンが、上巻にある。*1
 それは巨大なキリストを見たという幻視として表現されている。
 馬鹿でかいのである。


 山岸涼子は最近『レベレーション』、すなわち「啓示」というタイトルでジャンヌ・ダルクを描いている。山岸が描くジャンヌの啓示は、一種のホラーな体験として描かれていて、これまでの山岸の描いてきた霊体験の集大成のような見事さがある。
 ひとことでいって、怖いのである。慄然とする。
 俗な言い方になるが、ぼくのような俗人でいえば、「オバケを見た」という感覚に近い。


 これに対して、古屋が描くエティエンヌの啓示、すなわち「巨大なキリスト」は、精神・意識のうえで何か「事故」があったような感覚、脳のある部位が周りの風景とは異質な画像を感覚してしまったような、そんな描かれ方なのである。


 どちらの啓示の描き方を好みにするかは読者の嗜好次第であろうが、どちらも卓抜な描き方だ。啓示のような研ぎ澄まされた経験の描き方には、作家の技量がもろに現れるのだろう。


皆川博子『少年十字軍』とのかぶりっぷり

([み]5-1)少年十字軍 (ポプラ文庫) 皆川博子が『少年十字軍』というタイトルの小説を書いているが、古屋との「かぶりっぷり」にびっくりする。
 エティエンヌを奇跡の中心におくこと、体に十字の入れ墨を入れて自分の「聖性」を誇ろうとする少年がいること、アウトローの少年、テンプル騎士団……などなどである。
 皆川はあとがきで、自分の小説を4分の3くらいまで書いたところで、古屋の作品を知り、思いあまって原稿とともに作者に手紙を出している。設定やら書きぶりがあまりにかぶってしまっているんだけど、このまま出していいものか、ということを率直に聞いたのである。
 古屋の『インノサン』という先行作があるよということをどこかに書いてもらえれば、それでいいです、と返事がきたので、皆川は『少年十字軍』を上梓する決意をしたのだという(もともと四十数年前に皆川は児童劇団の脚本として皆川がこのテーマを扱っていることも書いている)。

ふたたびネタバレがあります

 古屋の苛酷な、そして残酷な美の結末に比べて、皆川の結末には一種の「ぬるさ」がある。ぼくは、創作としては断然古屋に軍配をあげるのだが、このあたりの比較は、ぜひ両作品を読み比べてみてほしい。

平田松吾の『インノサン』評

 「ユリイカ」の古屋特集の中で平田松吾が『インノサン少年十字軍』の批評をしている。
 平田は、少年の世界を描いたものとして『インノサン』をとらえているが、その論考の結末で本作がどのように真の意味で「悲劇」であり、そのことによってどのように少年たちにとって「鎮魂」になっているかという解説をしている。
 それは、古屋が

当時の人々が抱えていた苦悩や矛盾の一端ぐらいは描けたかなと思っています。

と書いたことに対応すべきものだといえるだろう。
 ぼくは上述のとおり、古屋の描き方が人でなしの素晴らしさを示していると思っているから、平田の意見には与しないのであるが、平田の評によって気づかされることも数多くあった。

*1:この「啓示」にはある種の仕掛けがあったのだが、それが何であるかは、本作そのものを読んで楽しんでほしい。