ナディア・ムラド『THE LAST GIRL』

 「イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語」というサブタイトルの通りで、性暴力のすさまじい実態が告発されている。書名は「この世界で私のような体験をする女性は、私が最後であってほしい」という意味である。著者は昨年ノーベル平和賞を受賞した。

 

 

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

THE LAST GIRLーイスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語―

 

 

 

 だが、ぼくは、本書を読む際に、日本人のぼくらが心しないといけないことがあると強く感じた。それは「こんなひどい国に生まれなくてよかった」――本書を日本のぼくらと切り離してしまう罠に、いかにも陥りそうだからだ。

 

 性暴力は性欲を動機とするのではなく、支配欲――支配と抑圧を中心動機としている。本書の記録において性暴力が「武器」として使われていることからもそれはわかる。痴漢やセクハラのような日本の日常にある性暴力と地続きなのだ。

 

 「こいつを支配したい」という欲望は、「その人間は支配してもよい・どう扱ってもよい二級市民である」という人間観につながっている。

 その「二級市民」が「ヤズィディ教徒」であったり「日本の職場にいる女」であったりするという、それだけの違いに過ぎない。

 

 「職場のハラスメント研究所」代表理事の金子正臣は、セクハラをする人(ここでは男性)は「特別な人ではありません」と言う(「しんぶん赤旗」2018年10月15日付)。酒の席で、なりゆきで……などと言い訳にもならない言い訳でやってしまう。金子はその理由を二つ挙げている。

 

ひとつは職場でも異性を「性的対象」と見る傾向が男性に強いことです。それは性差ではなく、社会的な刷り込みによるものだと考えます。日本では女性の「性の商品化」が著しく、幼いころから女性を性的対象としてみる機会が非常に多く提供され、後天的にその性向がつくられてしまっています。(前掲)

 

もうひとつは女性差別の構造です。日本社会に根深い女性蔑視を背景に、職場でも女性にはサポート役や「職場の潤滑油」的業務を求める性的役割分業意識が強い。また子育てなど家庭の役割のため、残業が当たり前の「男社会」の働き方ができない女性は、労働力として「二流」だという思いがある。さらに管理職比率は圧倒的に男性優位です。職場のドアを開けたとたん、普通のお父さんが部長や専務になると、自分が格段の権力を持ったと錯覚し、部下を見下す視線が生まれます。(前掲)

 

 「その人間は支配してもよい・どう扱ってもよい二級市民」の出来上がりである。ぼくはこの金子の話を読みながら、ナディア・ムラドの本書にそれを重ねた。

 

 ナディア・ムラドが連行されるときに、戦闘員である男に胸を執拗になぶられ、ナディアが激しい憤りを覚える描写がある。

 この箇所は、あとのレイプのエピソード以上にぼくらの日常と「地続き」であることを感じた。

 人間としての全体性を持っているはずのナディアは性的な存在にだけ矮小化され、性的な対象とされ、しかもその全体から胸というパーツだけをあたかも切り取られるように徹底的に部分化される。まさに「モノ」となる瞬間である。

 これは「おっぱいを過剰に大きく、して性的に強調するイラスト」(画像)などのように、日本の日常できわめてよく目にする物象化だとすぐ気づくだろう。

 

 ぼくも何度も書いていることだけど、ぼく自身がそれを虚構だという線引き・エクスキューズのもとに、日常的に「楽しんでいる」。一応「理屈」としては、現実の女性ではなく、空想・虚構・つくりごとの女性であるから、日常の制約から解放されてそういう妄想として「楽しめる」のだ、ということになる。したがってそこで「楽しんだ」規範――「女性を性的な対象として、特にそれとしてのみ見て、楽しむ」――は現実に持ち帰っては絶対にならない。1グラムでも。

 

 だが、それは建前であろう。

 絶対に持ち帰っていないといえるだろうか?

 虚構世界での許されたはずの女性観はぼくらの現実の規範のどこかに巣食っていないだろうか。あるいは少しでも影響を与えていないだろうか。あるいは、999人は影響されていなくても、1人は影響されていないだろうか。

 「虚構作品は現実に影響を与えるよ。そんなのはどんな作品でも同じじゃないか。戦争を肯定するマンガが現実の戦争観に影響を与えるからといってぜんぶ禁止・規制されたら何も表現できなくなるぞ」というのがもう一つの反論としてある。まったくその通りである。

 しかし、だからと言って、ぼくらは開き直りっぱなしにいるわけにはいかない。

 そもそもお前はその「楽しみ」を手放す気はないのかと言われれば、今のところは「ない」。

 ならば“あなたが「楽しんでいる」ポルノは、現実の男性の女性観に悪影響を与えている”という批判に向き合うべきなのだが、どのようにして向き合うべきなのかは、何か確立されたものがあるわけではない。ぼく自身も手探りでそれをやるしかないのである。