小さい頃、友だちのNという家にいくと、コロコロコミックがあった。というか、その家にしかコロコロコミックはなかった。さらに、その言えには『モジャ公』や『21エモン』など藤子不二雄のマンガがたくさんあった。そして、Nの家以外ではそんなものは見たことはなかった。別に裕福な家でもない。おもちゃ系のものはほとんどなかった。Nの家の親が好きだっただけなのだろうか。いま思うと、Nの家がなければ藤子不二雄のマンガ世界には足をふみいれられなかっただろう。
再読した『フータくん』は面白くなかった?
その中で忘れられなかったのが『モジャ公』と『フータくん』である。
というか、この2作品は、その後どこでも読むことができず、いつか読みたいと思いながら、今日まできてしまった。
以前のエントリで『モジャ公』については書いた。Fの全集が出たことで手に入りやすくなったのである。そして、30年ぶりくらいに手にとってみて、マンガとしての面白さの価値がまったく減じていないことにびっくりした。
ところが、『フータくん』は違った。
1巻を読んで「そんなに面白くない」と思ったのである。実は1巻は子ども時代に読むことはできなかった。
しかし子ども時代にすりきれるほど読んでいた3巻は面白いと思ったのであった。
これはどういうことであろうか。
「読み馴れていなかった」ということだろうか。
『フータくん』を支える二つの要素
『フータくん』を知らない人のためにどんなマンガか書いておこう。
『フータくん』はFではなくAが描いた作品で、主人公のフータくんが、100万円を貯めるために、全国を無銭旅行して回る話で、1話完結形式である。そして、100万円がたまると、今度はそれを使って日本のすべての都道府県を旅していくのである。
子ども心にわくわくしたのは、毎回話の終わりに所持金がプラスマイナスで示されること、そして、都道府県を旅行して回るような気分になれたことである。この二つの要素について、米沢嘉博は『藤子不二雄論』のなかで次のようにふれている。
金もうけ(バイト)という、少年マンガにとって新たなモチーフを導入した作品だったことも特筆すべきだろう。ストーリーマンガの大半はお金とは無関係だったし、ギャグマンガでは主人公をとり巻くのは「小遣い」程度のレベルの金でしかなかった。だが、この頃より、子供たちの今一番欲しいものは「お金」というリアルな夢が、子供白書などでも現れ始めていた。百万円は現実と非現実の中間にある金額でもあった。それを貯めることは、夢の達成であり、ある意味ヒーローへの道でもあった。(米沢p.116、強調は引用者)
また、まだ旅行が簡単にできる時代ではなかったことから、各地へのあこがれ、見知らぬ土地へのあこがれもあっただろう。旅人文学とは、定住することが当たり前だった時代から連綿と続く、物語のルーツなのである。見知らぬ土地の不思議な風景、名物を知ることは知的好奇心を充足させることでもあったのだ。そうして、風のような少年、フーテンでもある風のような「フータ」は、家族の、学校や地域のクビキを離れ、自由に、たった一人で放浪するのである。(同前)
子どもがおカネを稼ぐことが、「小遣い稼ぎ」でイメージできる延長にあるような他愛もない仕事を通じてもたらされている。おカネを稼ぐという自立=オトナの匂いがする行為に、自分も入れるかもしれないという入口として、きちんと用意されている。
たとえば1巻では、体は大きいが、おとなしく、「男らしくない」少年を、「男らしく」するアルバイトを引き受ける。一種の子守りであるが、依頼者の親は切実なので3万円も支払ってくれる。完全に自信がついた少年は、今度は近所迷惑をかけるほどの乱暴者になってしまうのだが……。
そして、節約一方でためる「コドモの貯金」ではなく、より大きなおカネを稼ぐために、所持しているおカネを使う、「オトナの投資であり事業」をおこなう。
1巻では、日給1万円という新聞の求人広告をみて応募するも、あまりにたくさんのライバルが並んでいたために、フータは1000円を使って人を雇い一計を案じてそのライバルたちを排除する。
事業というほど大げさなものではないが、この程度の知恵の使い方なら、子どもはするであろう。そこにリアリティの入口がある。
だが、こうしてはじめた子どもじみたバイトで、中には50万円稼いでしまうこともある。1巻では、クズ拾いのバイトをしているうちに、ものすごい価値の骨董を手に入れてしまうのだ。
逆に損をする、というのも子どもが興奮するリアルだった。
1巻では、仕事の中でおよそ口にできない食事をしてしまい、逆に腹痛をおこして薬を買い、損をするハメになってしまう……などというのがそれだ。
たしかに、米沢のいうように、現実と夢の中間にこの百万円の稼業があり、自分で頭を使って仕事を選んでそれに励む様が、「自由」というよりも「自立」としてイメージされるオトナのように、ぼくには思えた。
関係性のF、スラプスティックのA
他方で、Aの手法をFと比較して、米沢は次のように論じている。
たぶんに、Aの資質として、おなじみの数人のキャラクターだけで日常的なドラマを、手を変え品を変え繰り返していくことは向いていない。(米沢p.115)
Aの連載が意外と短いのは、世界や設定から延々日常的ドマラを展開していく作劇作法とは違った位置にいるからである。基本的に短編作家であり、ストーリーは語り終えられることを前提としている。それは、思いつきやひらめきによる、次々と新たな作品へ向かっていこうとする方向性であり、創り上げた世界を営ませていく継続性にはあまり向いていないといってもいいののだろう。(米沢p.115〜116)
米沢は、『フータくん』の後期や、『怪物くん』などが「赤塚ギャグ的な言語やキャラを多用するようになっていった」(米沢p.120)として、「ナンセンスでスラップスティックな動きやギャグを演ずるようにもなっていった」(米沢p.121)と指摘する。
作家の筒井康隆は日本では「独裁者」時代のチャップリンのような風刺喜劇だけが評価されてマルクス兄弟のようなスラプスティックやナンセンスが理解されていないことを憤ったことがあるが、米沢は「フータくん」「怪物くん」を「スラップスティックの匂いが濃い」(米沢p.122)と評している。
コメディが人間の心理の動き、関係性によって生み出されていくのに対し、ギャグは見えるものが全てであり、意表をついた裏切り、ズレなど一発性の驚きが身上だ。(米沢p.122)
FとAについて米沢は、
Aのギャグマンガには、Fには見ることのできないスラプスティックへの指向が時折見える。動きによるスピード感、ナンセンスな行動。それは、目に見える動作の面白さによる笑いである。Fにはその指向はない。関係性の生み出す笑いがそこではメインだ。(米沢p.118)
と述べているように、米沢によるコメディとギャグの対比に、対応している。
スラプスティックは超歴史的ではなくむしろ歴史性に縛られることも
もしそうであれば、たとえば米沢もあげているように、『トムとジェリー』などはスラプスティックの流れに属するもので、大人になってから娘といっしょに何度見ても見飽きない。関係性のもたらす笑いが、時代の雰囲気や心情に左右されやすくすぐ古びてしまうのではないかという想像を働かせ、それを超越したナンセンスやスラプスティックこそ、いつまでも古びないのではないかという感覚がぼくにはあった。
ところが実際には、Aのギャグはいかにも古い感じがしたのである。実は最近『怪物くん』や『ハットリくん』を読んだときにも感じたことであった。オトナになったぼくにとって、Fの作品ほどスンナリと自分の中に入ってこないのである。
『フータくん』の1巻を読んだときもまさにそうだった。
古びたスラプスティックを見せられた――まずその印象が強かった。
では2巻、3巻、4巻、とくにすりきれるまで読んだ3巻を読んだとき、俄然面白さがよみがえったのはなぜだろうか。
それは、おそらく、先ほどあげた「金もうけをめぐるオトナ的な自立・自由」という、子ども時代に『フータくん』を読んだ、あの空気を一気に思い出すことができたからに違いない。オトナになってその感覚はまったく失われてしまっていて(頭ではわかっているつもりだったが)、どうしてもスラプスティックなギャグのところだけが先行して目に飛び込んでくる。
ところが、3巻のあたりにくると、作品の筋やセリフだけでなく、朝日ソノラマのサンコミックス版のなつかしい手触りや日焼け具合までもが、記憶を呼び覚ます装置になって、子ども時代のあこがれの感覚を引き起こしたのである。それがギャグの古くささを超えたのだ。
別の言い方をすれば、Aのスラプスティックは、『トムとジェリー』や筒井康隆のそれとくらべて、完成度が低いということでもある。
スラプスティックの方が、関係性や心理をベースにしたコメディよりも超時代的だというのは、ぼくの錯覚だといえる。なぜなら、スラプスティックといえども、その行動(動き・アクション)がなぜ通常と違っておかしいのか、あるいはなぜ論理が飛躍するのか、ということは、その乗り越えられるべき「通常の行動」や「通常の論理」に逆に大きく規定されていることになるからだ。
乗り越えられるべき「通常の行動」や「通常の論理」が普遍的でなければ、それを超越したナンセンスは、ちっともナンセンスではなくなってしまう。
『フータくん』の1巻で、ふだんはいかめしい面をしているが、テレビにでると福々しい顔になる噺家が出てくるが、頭を金槌でなぐっているうちにその変化の切り替えの調子が狂ってしまい、ふだんは福々しく、テレビではいかめしくなってしまうのである。ところがこれが大ウケ……という話があるが、これなどは、お笑い芸人の様々なバリエーションを見せられた現代のぼくたちにとっては何とも古びた「飛躍」「転倒」に映る。
しばしば『フータくん』に出てくるマッド・サイエンティストだって、現代ではiPS細胞をめぐって騒動をおこした森口尚史の方が、1000倍は面白いだろう。
『トムとジェリー』のスラプスティックというのは、アクションに特化している。
高い所からおちてトムがひび割れるとき、あるいは、コップの中におちてコップ状の形になってしまうとき、「たしかにその形状になるわw」と思わしめる確かさ、リアリティ、それこそシュール・リアリズムがそこにある。
あるいは、置いてあるスコップに、急いで走ってきたトムがひっかかり、顔をひどく打つシーンでは、そのテコの原理のリアルさ、音のそれっぽさ、顔のへこみ具合が、心に突き刺さるように「まことにこんなふうに痛くなるよね」と感じる。
この感覚は古くなることはない。
ところで、旧版の『フータくん』は、「精神病院」についての記述がごろごろしていて、現在ではとてもそのまま出版できないだろうという感じになっている。