屋代尚宣『黒田官兵衛と宇都宮鎮房』

 NHK大河ドラマ軍師官兵衛」の視聴率が急落だそうである。
http://npn.co.jp/article/detail/70028087/


 観てない? いやぼくも観てないけどね。娘と「ダーウィンが来た!」を観た後観ようととすると娘から「消して!」と言われる。むりやりスイッチを切られる。ドラマ一般が「こわい」からである。とりわけ時代劇は。


 そもそも多くの人にとって「クロダカンベエ? なにそれうまいの?」という状態ではないのか。そういう非常識・非国民な手合いのために、おれがひとつ黒田官兵衛まめ知識をさずけてやる。
 黒田官兵衛というのは、兵庫県あたりの土豪だったんだけど、中国地方に攻めてきた織田信長、その家臣だった豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の軍師、まあ参謀みたいなもんになって、その後秀吉の天下統一を大いに助けた、そういう人物だとされている。
 まめ知識おわり。

黒田官兵衛」の人生のどこにドラマ性があるか

 この人物の生涯のどこにドラマ性があるのかというと、主に3点。
(1)「天才軍師」としての奇策奇略ぶり。
(2)そういう才能がありながら、秀吉の軍師で終わって、本当は天下をとりたかったんじゃね? 疑惑があるという点。
(3)兵庫県土豪だった時代に、「毛利につくか、織田につくか」でさんざん苦労したあたり。


新装版 播磨灘物語(1) (講談社文庫) 小説なんかでは(3)がクローズアップされている。(3)と(1)をからめた感じね。司馬遼太郎播磨灘物語』はモロに(3)と(1)。吉川英治黒田如水』も。


 大河ドラマも、4月になっても兵庫県(播磨)時代を描いているってことは、秀吉の天下統一以後はあんまり描かないんじゃないのか。


マンガでの官兵衛の描かれ方1――横山光輝重野なおき

 マンガはどうか。
風雲児 黒田官兵衛 蛟竜 (KCデラックス) 横山光輝『蛟竜 風雲児 黒田官兵衛』は(3)と(1)。あんまり奇抜な解釈が入らなくて、「正伝」みたいな感じ。「子ども時代に講談で基本的なお話をおさえる」的印象である。「秀吉は墨俣で一夜城を築きました」とか「信長は父の位牌に抹香を投げつけました」とかそういう基本的なエピソードと同じようなもの。描かれたのは1965年だそうだから、『鉄人28号』を描き始めたのと同じくらいの絵柄である。

 重野なおき『軍師 黒田官兵衛伝』。1巻しか読んでいないのだが、たぶん死ぬまでを描くと思われる。ギャグ4コマであるが、重野には歴史ものでこれをやる場合に哲学がある。自身の『信長の忍び』について、自らに課したルールを次のように紹介する。

1つ!! 歴史を変えぬこと! 歴史を変える行動は描いてはならぬ!!
2つ!! 笑いはとってもふざけない!! 
(『ニコ・ニコルソンのマンガ道場破り』白泉社、p.40)


軍師 黒田官兵衛伝 1 (ジェッツコミックス) ギャグマンガなのに「ふざけない」とはどういうことよと思うむきもあろう。たとえば信長は甘党だったが、ポッキーや生チョコパフェみたいなものを出してはいけないというのである。「ギャグだからといって、当時、存在しないものを描いてはならん」「いちいち歴史書で調べるのはメンドーだが、これを怠れば『ナンセンスギャグ』になってしまう」(同p.41)。


 『軍師 黒田官兵衛伝』もこれに忠実に見える。
 なので、実は、黒田官兵衛の生涯を楽しく手軽に知ろうと思ったら、おそらく重野を読むといい。オーソドックスな理解がえられる。

マンガでの官兵衛の描かれ方2――うえやまとち

 さて、これは非売品であるが、うえやまとちがNHKのパンフレットで『マンガで読む黒田官兵衛!」を描いている。「官兵衛と福岡の関係がわかる!」とアオリにあるように、福岡との関係を中心にしている。官兵衛が「うまいぞっ!」とは言わない。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka/kanbe/ayumi/


 NHKや行政側の手法にありがちなことだが、黒田官兵衛が天下統一を助けたことをもって、「戦乱の時代を終わらせ太平の世の中をつくるのに貢献した」という角度から描きがちである。うえやまのマンガもそうなっている。
 うえやまがそう思っていたのでNHKパンフに採用されたのか、NHKの意向にあわせてうえやまが描いたのか、知らないが。


 関ヶ原の戦いが行われていた頃、黒田官兵衛は九州で西軍討伐をおこなう。
 この動きについては論争があり、関ヶ原のどさくさにまぎれて天下とりを狙ったものだという意見と、そうではないという意見である。
 前者は(2)につながっていく。


 西日本新聞でも3月28日付で「官兵衛は天下取りを狙ったか?」という記事をのせている。


…第1問「官兵衛は天下取りを狙ったか?」への回答は「YES」6人、「NO」5人と割れた。
 豊臣秀吉没後の動乱の中、隠居して中津城大分県)にいた官兵衛は、城中の金を出して雇った浪人や農民の軍勢で九州各地の城を落とした。その動きを、YES派の識者は天下取りへの意欲、NO派は徳川家康への忠節とみる。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/desk/article/79320


 官兵衛自身が野心家であり、秀吉はその恐ろしさを見抜いていたので、全国統一を成し遂げた後も、官兵衛にはその働きに比して小さな領地(豊前12万石)しか与えられなかったというものである。
 しかし、天下が再び大争乱になる気配をみて、官兵衛は九州で勢力固めをはじめようとしていたが、関ヶ原がたった1日で終わってしまったため、その野望が潰えたという見方だ。
 このNHKパンフはむろんそうした見方ではない。先の西日本新聞のNO派の「徳川家康への忠節」ですらなく、天下太平を願っての行動だというのである。
 うえやまは、というかこのNHKパンフはわざわざ「官兵衛は本当は天下を狙っていた?」というコラムまでもうけて、この主張に反論している。


関ヶ原の戦いは、長期化する。その間に九州を制圧して大軍をまとめ、東軍西軍どちらが勝っても、ボロボロに疲れきった勝者に戦いを挑んで天下をつかむ――。官兵衛にはそんな野望を胸に九州の関ヶ原を戦っていたと考える人も多くいるようです。しかし、天下太平をずっと願っていた官兵衛のこと。「戦いの行方によっては世の中はまとまらない。ならばいっそ自分が…」と、よい世の中にするために、天下取りの戦を起こそうとしたのかもしれません。

 いわば、天下取りと野望を統一させた描き方をしている。……いやいやいやいや、無理がありすぎるだろ
 「毛利か織田か」で織田につき、「豊臣か徳川か」で徳川につく。先物買いが得意というか、その意味では時代を読むというか、別の言い方をすれば無節操というか日和見主義というか。


 まあ、NHKも福岡市も、黒田官兵衛=平和待望論者という点よりも、強調したがっているのは「福岡という街の基礎をつくった」という見方である。都市開発の話につなげていきたいんだろうけど、拠点を選んだというくらいで、「福岡の礎をつくった」というのも、無理筋だろ。開発イデオロギーへの忠勤である。

「生涯の汚点」としての宇都宮鎮房暗殺

 さて、こうした「官兵衛」本、あるいは「官兵衛」マンガが中心な中で、ぼくが驚いたのは中津市大分県)が監修している屋代尚宣『マンガ 戦国の世を生きる 黒田官兵衛宇都宮鎮房』(梓書院)である。


 何が驚いたといって、まさか宇都宮鎮房(しげふさ)の謀殺をこんなに正面から描くなんて思いもしなかったからである。


 秀吉の九州平定後、官兵衛は豊前大分県)に領土を与えられるが、秀吉に協力した土豪宇都宮鎮房は伊予(愛媛県)に領地を移すよう秀吉に求められる。また、太閤検地によって兵農分離がすすめられ、中間搾取者としての地付きの小勢力の武士(国人)は農民になるか俸録(給料)制の家臣になることを迫られた。
 これらの不満が一体となって、大規模な反乱となる。
 黒田は大苦戦を強いられ、最終的には和平とみせかけ、政略結婚まで用意しながら、城内に誘い入れ、謀殺。一族皆殺しにしてしまう。


 どこが不敗の軍師だよ、何が平和を願った男だよ、と言われてしまう官兵衛の「黒歴史」である。「あれは子の長政がやったことで、官兵衛の所業ではない」という言い訳もあるが、かなり苦しい。


 司馬遼太郎はこの一件を次のように評している。


留守居の官兵衛の嫡子の長政がこれらと戦い、とくに最大の土豪である宇都宮鎮房との戦いで惨敗した。宇都宮氏は城井(きい)谷を根拠地とし、鎌倉以来の地頭で土地の者からよく崇敬されていた。長政がこの鎮房をもてあまして陰惨な謀殺をやっているが、このことに官兵衛は無縁とはいえず、この男にとっては生涯の汚点といっていい。(司馬『新装版 播磨灘物語(四)』講談社文庫p.331、強調は引用者)


 「生涯の汚点」。
 相当に厳しい言葉である。
 宇都宮氏はすでに一族としてのまとまりがないほどに分立していたが、少なくとも鎮房の本家に関しては、黒田によって根絶やしの凄惨な弾圧が行われる。政略結婚のために嫁ぐことになっていた13歳の鶴姫は磔(はりつけ)にされるのだ。


 NHKパンフの描き方にみられるように、大河ドラマの主人公が謀殺などをした男であってはならず、このエピソードがとりあげられることはまずない。特に何かにつけて教訓くさく大河ドラマの主人公を押し出したい行政などにとっては、タブーではないのか、とぼくは思っていた。


 ところが、である。


 このマンガは、中津市が「監修」にもかかわらず、このエピソードを取り扱う。いや扱うどころじゃねえ。タイトルがそもそも『黒田官兵衛宇都宮鎮房』であり、まさにド真正面から扱っているのだ。

異色のマンガ『黒田官兵衛宇都宮鎮房

 職場でこういう話が好きな人と、「まさかあのエピソードは扱うまい」と話題にしていたので、こんなマンガを中津市が出したという新聞記事(読売新聞)を読んだとき、びっくりして「ぜひ読まねば」と思った。


 ところが、書店はおろか、Amazonでさえ入手できなさそうである。現地でお土産としてしか売ってないらしい。
 記事に、中津市教育委員会に電話しろとあったので、電話した。本体が700円、送料が740円もする(さらに少額小為替の換金手数料が200円かかった)。しかし、何としても手に入れたいと思い、郵送してもらった。
http://www.city-nakatsu.jp/docs/2014022000106/


 絵柄がすごいね。
 中津市のホームページには「親しみやすいマンガで」とあるのだが、全然親しみやすくねえ。まあ、マンガという表現形式が一般的に親しみやすいという意味だろうけど、一人残らず目が切れ長の劇画調。怖い


 官兵衛の半生も手際よくまとめているが、中心は宇都宮と黒田の相克。
 ヤマ場は、やはり和睦の酒宴ということで入城した宇都宮鎮房を暗殺するシーンである。「官兵衛は謀殺に関係ありません」という立場をとらず、子・長政に実質的な指揮命令をして殺したのが、まさに当の官兵衛であるという考証に立っている。


再び一揆が起これば今度こそ黒田は詰め腹を斬らされる
喰うか喰われるか
これが世の中の流れじゃ


とミもフタもない弱肉強食の世界観を口にする官兵衛。
 いいねえ。リアル。
 いや、これがホントのところだと思うよ。
 正直。
 マンガにも書いてあるけど、同じ九州(熊本)で、佐々成政が過酷な圧政と検地を行ったために、同じように反乱がおき、秀吉に失政の責任を問われて文字通り詰め腹を切らされた。
 官兵衛は秀吉の怒りを恐れて、徹底した弾圧を決意していたとみるのがまあ正当なところだろう。太平の世を願って……とかそういう寝ぼけた主張はアレですわ。

「中世対近世」という解釈の正当性

 本書に「刊行にあたって」という中津市長の言葉が載っている。

敵を殺さず戦に勝つといわれた官兵衛も、この時ばかりはそうもいかず、鎮房と徹底的に交戦し、最後は謀殺という非情な手段をもってこれを鎮めました。新しい世の中をつくるために避けられない戦いだったのです。(本書p.109)


 うむ、これだけではなかなか苦しい。
 観光の目玉としたい行政であるにもかかわらず、このテーマを正面から扱ったことには拍手を送りたいが、「新しい世の中をつくるために避けられない戦いだったのです」とは「いい話」っぽくまとめすぎである。
 後述するように実はこの市長の述べた評価は妥当なのだが、肝心のロジックが抜けているので、「いい話」にまとめる横車を押している感じが否めない。


 この「新しい世の中をつくるために避けられない戦いだったのです」というロジックは、本書の「おわりに」として市教委の一人(三谷紘平)が書いているのがより詳細に伝えている。


 三谷は、宇都宮対黒田は単なる一地方の勢力争いではなく、検地と兵農分離によって中間搾取者であった土着の小勢力を徹底的に排除し、封建革命を完成させようとする秀吉側と、それに抵抗する中世の旧権力との闘争であると見ている。中世対近世というわけである。

宇都宮鎮房については、滅びてまで自らの土地を守ろうとした、中世を代表する武士であったと、あらためて評価すべきではないでしょうか。(本書p.146)


 これは得心がいく。
 これに対する近世権力の代表、黒田の評価はどうか。


官兵衛の豊前平定は、この中津の地を豊前の中心に定め、戦国の世から平和の時代へ変えるための行動であったということができます。(同前)


 「平和の時代へ」というのは、「平和主義者である官兵衛」という解釈だといかにもとってつけた感じになるけども、この文脈でいうと「中世の分立する小勢力を整理・掃討して、近世権力をうちたて、強力な秩序をつくりだす」というふうに読めばさほど無理はなくなる。統治が混乱することを望む支配者はいないのだから。それを「平和の時代へ変えるための…」などというのは、ちょっと強引なように思われるけど、こういう流れの中であれば許されるだろう。

 じっさい、マンガとして、こういう場合、黒田は正義、宇都宮は悪、のような造形に描かれがちである(あるいは郷土的愛着からまったく逆にする)。しかし、さっきぼくが「怖い」と評した作者・屋代の、「どの人物も酷薄なフォルム」というタッチがここではプラスに生きている。読者はどちらにもあらかじめの正義を感じることなく、「喰うか喰われるか これが世の中の流れじゃ」的な感覚を味わうことができる。


 だから、この本をぼくは高く評価する。
 行政が主体でつくったにもかかわらず、大河ドラマの英雄の「汚点」に斬り込み、なおかつギリギリのリアルな解釈をしているからである。