吉本佳生『日本の景気は賃金が決める』


 また、アベノミクス本の紹介です。
 たらたらと書いているうちに、アベノミクス自体がどうなっちゃうかわからないんですが、つづけます。


日本の景気は賃金が決める (講談社現代新書) 今回は、吉本佳生『日本の景気は賃金が決める』(講談社新書)です。
 以前、小幡績『リフレはヤバい』をいちばんわかりやすい本だと紹介しましたが、そのときに1つ留保をつけました。
 実は、ぼくとしてはこの吉本のほうがわかりやすいと思いました。
 ただし、それはきちんと本を読んでいけるというタイプの初心者の場合です。
 小幡のは、ざっくりとリフレ、とくにインフレとはどういうことかを語り口調で書いていて、経済を勉強すること自体になれていないという人は、たぶん小幡の方が入門しやすいと思いました。
 吉本のは、定義や概念をきっちりとおさえて、積み重ね、すすんでいく、という作業をしっかりやっています。だから、これは勉強しようと思って読むと勉強になると思います。だけど、その分、読書体験が本当にないという人だとちょっと歯ごたえがあるかもしれないのです。いや、読めないというほどじゃないですけどね。*1


 吉本は、「アベノミクス修正派」とでもいえるでしょうか。
 原因分析は、ぼくらサヨクにとても近い。
 タイトルから察せられるように、賃金デフレ、なかでも中小零細、女性、若者、非正規などの賃金格差が日本の長期不況の「根本原因のひとつ」(吉本p.12)だというんですから。
 だけど、最低賃金引き上げや、非正規の正規化などの政策には反対するのです。
 政策的解決は、“アベノミクスってよくない点が多いんだけど、まあとりあえずその枠組みは承認するとして、それをもうちょっと修正すればこんなことができますよ”っていうフレームになっています。

第1章にみるていねいな解説

 最初に、この吉本の本が、いかにていねいな解説をしているか、ということを1章を使ってみていきましょうか。


 1章は「日本経済の現状」というタイトルです。いわばデフレ・不況論です。
 アベノミクスの金融政策の解説は3章なんですが、1点だけ一番大事な点を1章でふれます。それは他のアベノミクス本にもあるとおり、アベノミクスは、インフレ期待をつくることが焦点であると核心部分を簡潔にふれます。

 まず、景気や経済政策について考えるために、一番最初にわかっていただきたいことがあります。心理的な要因がとても大きな影響を及ぼすという点です。そして安倍政権の経済政策は、この心理面をとても重視しています。(吉本p.30)

日本の景気は賃金が決める (講談社現代新書) 逆にいえば日本経済はデフレ予想(期待)がまん延しているというわけですが、この期待とか予想が大事なんだということを、けっこうくわしく書いています。インフレ期待の形成はどの本でも核心問題としてふれていますけど、それをシロウトむけにけっこう分量を割いて書いてるんですね。
 こうして、デフレ予想をくつがえすことが経済の焦点であるいう感じにして、日本経済のデフレ的現状がどうなっているのかについて書いていきます。


 吉本は、いつからデフレデフレ不況が始まったのかを説明します。そこで、名目GDPが下がり続けはじめたところはどこかをこの問題のキモにしています。

この名目GDPは、経済の調子がよほど悪くないかぎり、どの国でも右肩上がりで増えるものです。(吉本p.34)

 これを基準にすると、吉本は1998年からが日本のデフレデフレ不況の始まりだとしています。岩田規久男なんかは、賃金問題とデフレを切り離したがりますから、98年がデフレ不況のはじまりだとすると都合が悪くなるのでこの起点を認めないでしょうね。ちなみに、日銀は1999年を最初のデフレの起点にしています。


[補足・追記]2013.6.18
デフレの定義はコメント欄やブコメ欄で指摘があった通り。吉本はデフレと不況を分けて考えていて、本書でも「物価下落+経済成長率の鈍化=デフレ不況」だと述べて「デフレ」ではなく「デフレ不況」だとしている。ぼくの間違い。申し訳ない。



 そして、景気のいい悪いを何で判断するかという話にうつり、実質GDPの話をはじめます。吉本はここで名目GDPと実質GDPのちがいをざっくりと説明します。


 名目GDPは、金額でみた経済活動規模を示すものです。そして、「金額=価格×数量」です。だから、名目GDPが増えたときには、(1)価格の上昇か、(2)数量の増加が原因のはずです。
 日本の経済活動で生産されたモノやサービスが増えて、私たちがより豊かになったとか、私たちの経済活動が成長(拡大)したというためには、(2)数量の増加が起きていないとダメで、(1)価格の上昇は、実質的には経済活動の成長ではない。これが、GDP統計での考え方です。
 そこで、「名目GDPの成長率」から「物価上昇による部分」を取り除き、「数量の増減率」を計算します。これを「実質GDPの成長率」と呼びます。単に「経済成長率」とか「GDP成長率」というときには、この実質GDPの成長率を指すことがふつうです。
 毎年の規模をみるときは、名目GDPをみるのがふつうで、他方、成長率をみるときには実質GDPをみるのがふつうだという話で、慣れないと読むのがややこしいデータです。(吉本p.35-36、強調は原文で、原文は傍点)


 どうですか。
 こうしてぼくらは名目GDPと実質GDPのちがいをざっくりと理解できました。文章としては面倒くさい気がしますけど、ちゃんと読めばちゃんとわかるように書かれています。
 こういう経済の知識の基礎を、「わかっているもの」にせず、ちゃんと書いてくれているアベノミクス本はそんなにありません。っていうか、ほとんどありません。っていうか全然ありません。


 しかも実はこの一文のあとに、名目GDPと実質GDPの話は、専門家でもどっちを使ってどう経済を読むのかは複雑な論争があるんですよ、と一言書いています。ざっくりした定義では、必ずよせられるであろう反論や疑問をかわして、「そういうことは今は気にしなくていいよ」と言ってくれているのです。なかなかいい配慮ですね。この本にはそういう「まあ今はこの程度わかっておけばいいよ」という配慮が随所にあります。初心者は深追いせずにどこまで知っておけばいいかをきっちりと示してくれているのです。
 これはなかなかすごいことだと思います。
 だって、それって、かなりデキる教育者の目線ですよ。
 学者的視点しかない人は、そこで調子にのって深々と説明しちゃったりするんです。ピタッと止めるのがすばらしい。


 ところで、さっき、“名目GDPはよほどのことがないかぎり上がる”と吉本は説明していましたが、そういう統計・数字のざっくりした掴み方を書いているのも、本書のすぐれた特長です。
 だって、シロウトには経済数字なんてどう読んでいいかわからないですもん。
 新聞に経済成長が年1%って出たら、それって多いのか少ないのか、よくわからないですよね。吉本の本によれば、1997年から2011年までに年平均で0.5%の経済成長率になっていますが、それって多いのか少ないのか。
 吉本はアメリカと中国を例にとって、経済成長率がどれくらいならいいのかを示します。そのうえで、日本の現状をこう書きます。

筆者は、日本経済がクリアすべきハードルは、アメリカ経済のハードル(年三〜四%)より高くてもおかしくないと考えます。……だからこそ、年平均〇・五%でしか成長できなかった一九九八年以降の不況は、本当に深刻なものであったと感じています。(吉本p.38)


 このあと、デフレはなぜ悪いのか、という疑問につきあっています。
 物価が下がるなら快適な消費生活をおくれるのではないか、という素朴な疑問があります。あるいはその変種ですけども、アベノミクスはデフレを脱却し物価を上げることだとするなら、物価が上がったら喜ぶ報道をすべきなのに、そうなっていないのはなぜか、というこれまた素朴な疑問につきあいます。
 ここから、吉本はデフレと不況を切り分けるべきだ、デフレ脱却と景気回復は別、という話にすすみます。その問題は1章ではなく4章で対応されるのですが、いずれにせよ、素朴な疑問から入り、それを単に「かわす」とか反射的に回答するのではなく、より深いラジカルな議論へと導いています。非常にすばらしい。


 金融政策のところも、日銀のそもそもの役割や貨幣とはなにかからきちんと論じてます。
 どうでしょう。とてもわかりやすく書かれた本だということがご理解いただけたでしょうか。

賃金論――やはり2000年代の好景気の分析をしている

 さて、「アベノミクスは賃金をどう上げてくれるのか?」という話を、本書はどう書いているでしょうか。


 吉本は、この問いへのマスコミ的解説を批判します。

 アベノミクスの柱としてインフレ目標政策が注目されたとき、テレビのいくつかのニュースでは「インフレ目標を掲げて金融緩和を強めると、円安の効果もあって、企業の利益が増えて、やがて賃金も上がる」と解説されていました。しかし、そんなに簡単な話ではありません。(吉本p.151、強調は引用者)

 吉本がこの反証としてもちだすのは、やはり2000年代の「景気回復」期の賃金抑制です。やっぱりここに行き着くわけです。


 吉本は、政府の『平成二四年版労働経済白書』を引いて、たしかに1990年代前半までは企業利益の増加が賃金上昇に結びついたとします。しかし、同じ白書で1998年以降は何回かあった景気回復期には企業利益が増えても賃金が上昇せず、むしろ下落したと指摘されていることをあげ、2000年代半ばの事例を典型例としてとりあげます。(右上図、吉本p.153)


 そして、このデータにさらに詳しい分析を加えています。
 右下図(吉本p.159)についてこう書いています。

 すべての「一般労働者の年収」の推移をみてみます。二〇〇二年の全産業での一般労働者の年収を一〇〇としてグラフ化しています。中央の薄いグレーの折れ線グラフは、「全産業」での平均です。企業利益が大幅に増えたという意味では景気回復期だったにもかかわらず、全産業での賃金は下落傾向だったことがわかります。
 その上側に位置する「製造業」の賃金は、もともと全産業の平均よりも高く、景気回復期の前半ではじわじわと下がりましたが、円安景気を反映して、二〇〇五年から〇六年にかけて跳ね上がりました。日本銀行の金融緩和がアメリカの住宅バブルにつながったことが、アメリカの輸出で稼ぎやすい製造業の賃金にとってはプラスに働いたのです。
 製造業とは対照的に、「卸・小売業(図中では、卸売業、小売業)」の賃金は、〔…中略…〕〇五年から〇六年にかけて、製造業の賃金とは反対に、大きく下落しています。
 円安景気によって製造業では企業利益が増え、それが賃金にも好影響を与えましたが、同時に金融緩和と円安の副作用が、資源価格高騰を価格に転嫁できない卸・小売業を襲い、そちらの賃金を大きく下げたのでした。(吉本p.158-160)

 このデータを信じるなら、たしかに製造業では、アベノミクス的な論理が働いたことになります。しかし、卸・小売ではそれは働かなかったことになります(というか逆に働いた)。
 

 また日本では、輸出によって利益を伸ばしやすい大企業の製造業で働く人よりも、中小零細の企業やお店で働く人のほうが圧倒的に多数派です。だからこそ、企業全体で利益が大幅に増え、製造業の労働者の賃金が上がった時期だったにもかかわらず、日本全体での賃金は少し下がりました。(吉本p.160)


 吉本は、次のように結論づけます。


 賃金上昇と賃金格差縮小は、いまの日本の景気回復にはどうしても必要な条件です。そもそも、賃金が伸びないなら、安定的な物価上昇も続きにくい。筆者はそう考えます。〔…中略…〕そして、金融緩和によって誘導した円安で企業利益が増加しても、賃金が上がるとはかぎりません。一九九八年以降、そんな現象は起きていないからです。
 こうして具体的に検討してみると、大胆な金融緩和が景気回復につながるかどうかは、インフレ目標が達成できるかどうかとは、じつは、あまり関係ないとわかります。(吉本p.167)

焦点はサービス業の中小・女性・非正規・若年の賃金底上げ

 吉本はここから、小売業などのサービス関連で働く、中小零細の・女性の・非正規の・若者の賃金の底上げをどうすべきかという検討に入っていきます。すでに最低賃金引き上げと非正規の正規化を否定しているので、その回答はなかなかアクロバティックな奇策という印象を受けました。その具体策は、本書を読んで確かめてもらうほうがいいでしょう。


 ただ、ぼくは、2000年代の「好景気」分析によって、サービス業(とりわけ宿泊や飲食関係)の賃金上昇にターゲットをしぼり、そこで働く中小零細の・女性の・非正規の・若者の賃金の底上げを導き出していることに、感動をおぼえました。
 ぼくたちサヨクが、街頭で労働アンケートなんかをやったりするんです。
 そういうところで答えてくれる人っていうのは、まさにサービス業で働く中小零細の・女性の・非正規の・若者の労働者がほとんどなんです。


 まさにその人たちの賃金をどうするのか。
 そういうふうにイメージして、はじめて相手の顔がわかる対策になるような気がします。


 吉本の本では、年収の高い人たちがためこんでしまうのに比べて、低所得者は消費にまわす。使ってしまうということを「平均消費性向」「限界消費性向」のデータを用いて証明しています。この点からも、こうした人たちの賃金底上げこそが大事だとわかります。

 一般の労働者の賃上げも大事なんですけど、ぼくは吉本のいうように、どちらかといえば、急がれるのはこうした「サービス業で働く中小零細の・女性の・非正規の・若者の労働者」のような人たちの賃金の底上げなんじゃないかなと思います。いや、ことさら対立させる必要はないですけどね。

*1:概念をきっちりおさえて進んでいくという点では、片岡剛士『アベノミクスのゆくえ』(光文社新書)もそうなっていますが、片岡のは難しい。初心者は絶対途中で放り出します。