大島智子『セッちゃん』

 誰とでも寝る「女の子」を主人公にした大島智子『セッちゃん』。

 以下ネタバレがある。

 本作を読んだとき、すぐに思い浮かべたのは、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』だった。

 そのことは他の人にもそうらしく、例えば、下記のインタビュー記事では、インタビュアー(土井伸彰)はまず『リバーズ・エッジ』との関連を聞いている。

magazine.manba.co.jp

 

本作は、岡崎京子的でありつつも、そこから離脱しようとしてもいる、ということだ。岡崎京子が捉えた1990年代以降のある種の空気──『リバーズ・エッジ』で引用されたフレーズを使えば「平坦な戦場」としての現実──が、東日本大震災によって終わってしまったことを描いているのである。

 『リバーズ・エッジ』では、地球環境問題が自分の日常とは無関係な、実感のわかないものとして示された。日常は退屈な現実なのだが、その退屈な現実の奥底には生々しいリアルが潜んでいる、あるいは退屈な現実を知らぬところで支えているのではないかという予感が岡崎にはあった。

 

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

 

 河原で白骨化した死体は、「生々しいリアル」への入口であり退屈な日常の裂け目だった。セックスや恋愛は「生々しいリアル」の入口のように見えて距離の短い袋小路になっている。岡崎の作品ではセックスはどんなにそれに執着してもそこから何も見えないような不毛な行為として描かれることが多い。

 主人公と親交を結ぶゲイの山田一郎を一方的に思い詰めて、やがてストーカーに近い存在となり、最後はストーキングの最中で誤って丸焼けになってしまう田島カンナの事件は、退屈な日常のすぐ裏側に生々しいリアルが転がっていることを象徴的に示している。黒焦げの死体が転がる現場を眺める登場人物の一人(吉川こずえ)の生き生きとした目を見るがいい。

 ここでは、退屈な日常と「社会問題」は完全に分裂していた。しかし、この退屈な日常の奥底にも、そして「社会問題」の根底にも、それらを共通して支えているはずの「生々しいリアル」があるのではないかという予感を岡崎は持っていた。

 

  『リバーズ・エッジ』が始まったのは1993年で、刊行されたのが1994年。

 この直後1995年に、阪神・淡路大震災が起こり、オウム事件が起きる。神戸児童殺傷事件は1997年、山一證券の破綻は1997年である。

 バブルの余韻があった「退屈な日常」の時代でも、その根底に不気味な、見えないリアルが広がっているのではないかという予感を岡崎が1994年にすでに示し得ていたのは、その先見性を物語るものだと言える。

 1996年に「新世紀エヴァンゲリオン」を見たぼくが強く印象付けられたのは、アスカやシンジたちの日常と、やがてそれが戦闘で傷つき、エヴァが暴走するという「生々しいリアル」の落差だった。

 バブル以後の社会の奥底で何かが進行している、あるいは退屈な日常の奥底では「生々しいリアル」に支えられているという不気味な予感をやはり「エヴァ」も先取りしていた。

 

 就職氷河期で大量のロスジェネが生み出され、そして2011年に東日本大震災によって原発が過酷事故を起こしたという歴史の後では、「生々しいリアル」はかなり露頭となってきたと言える。

 それを受けての『セッちゃん』である。

 

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 

 

 登場人物の一人、あっくんは誰とも真剣に交わろうとしない。あっくんの彼女が感激している少女マンガの嘘臭さに気づきながらも、黙っている。わざわざそんな虚構性を暴く必要などないのだ。あっくんにとって世界は「あっち側」と「こっち側」に分けられている。

 「こっち側」はいわば退屈な日常であるが、それらは自分が要領よくうまくやっていける世界でもある。

 「あっち側」は自分とは断絶された向こう側、大きな物語が演じられている社会のように感じられている。

 ここまでは『リバーズ・エッジ』と似た構図がある。

 しかし、『セッちゃん』に特徴的なのは、おそらく「SEALDs」や反原発デモをモデルとしたものと思しき若い人たちのデモ(「SHIFT(シフト)」という学生団体が仕切っている)がそこに入り込んでいることだ。あっくんにとってシフトが主催するデモも、そのテロに反対するデモも、いずれも「あっち側」である。自分とは切断された物語であり、少女マンガの世界に憧れている彼女はデモに加わり「あっち側」に行ってしまう。

 デモという政治行動がこれほど身近なものとして作品に進入しているのは、まさに『リバーズ・エッジ』の時代とは異なる、3.11以後の日本の現実を示すものに違いない。そして、それにもかかわらず、主人公がそこに冷ややかな目線を向けるのも、やはりまた3.11以後の一つの実感には違いない。

 

 岡崎が空虚なものとしてくり返し描いたセックスは、『セッちゃん』においても虚しいものとして描かれる。セッちゃんが不特定の相手とくり返すセックスにはどこにも希望がない。ところが、セックス抜きでなんとなく芽生えたセッちゃんとあっくんの恋愛的感情には希望がある。恋愛がまずは自分たちの小さな世界を変える主体的行為であるかのようだ。少女マンガ顔負けの恋愛賛歌だが、あえて少女マンガを批判した上で少女マンガに再帰するのが、この作品の面白さだ。

 セッちゃんは、自分の妹にピンクの差し歯を買ってあげることにこだわっていた。何事も他人が決めてくれる世界に生きていたセッちゃんにとって、利他的に行動するという主体性に覚醒してしまった瞬間、セッちゃんは「間違えた」と感じてしまうのだ。

 だが、間違えてはいない。

 セッちゃんは、恋愛という些事、小さな「こっち側」の世界で世界に主体的な働きかけをしようとする。あっくんに会いにフィンランドに行くなんて、なんという大それた世界変革であろうか。

 

 しかし、セッちゃんは、「あっち側」から復讐される。

 ヘルシンキ空港でテロに遭い、セッちゃんはあっけなく殺されてしまうのだ。

 「あっち側」は決して「あっち側」ではない。「あっち側」は「こっち側」の端なのである。シフトによるテロが身近で起こり、その主犯があっくんの知り合いだったとしても、テロという巨大な社会現実はいまだ「あっち側」のままだった。そして、そのまんま、最後には「あっち側」によって「こっち側」が実感のわかないままに押しつぶされてしまうのである。

 2019年の現在、「あっち側」との距離感は、『リバーズ・エッジ』の頃と比べて相当近くなったと感じられる。すぐそばにあることがわかる。だけど依然として「あっち側」という膜に隔てられたままだというもどかしさが、この作品から伝わってくる。

 デモは身近にある。55ページではシフトのデモに学生たちが共感を述べている言葉が書いてあるし、シフトがテロを起こしてから学生たち自身がその反テロの座り込みを起こす。

 だけど、あっくんとセッちゃんはそこにいない。

 「それじゃない」というわけだ。

 まだそんなことを言っているのか、と左翼のぼくはつい叱り飛ばしたくなるのだが、それも一つの実感に違いない。その実感をデフォルメした作品として、本作はある。

 

 セッちゃんが「…なんですぐ変われるの?」(p.85)と疑問を呈するのは、「あっち側」と「こっち側」がシームレスでないこと、つまり自分の世界と社会の現実が完全に分断をしていることを示している。セッちゃんにとって「変わらなくてもいい」、継ぎ目なしに「あっち側」と「こっち側」を思考できる説得力ある言葉が紡げれば、左翼はもっと大きくなれるかもしれない。

 だけどそんな言葉を開発するまで待ってられないから、ぼくはとりあえず行動するわけである。