ふみふみこ『ぼくらのへんたい』

テーマに「性」がどっかりと座る

ぼくらのへんたい(1) (リュウコミックス) それぞれの思惑と動機で女装をはじめた3人の男子中学生がオフ会を開くところから物語が始まる。
 ふみふみこのマンガは、何と言っても絵柄に特徴がある。絵本めいていて、絵柄だけ単体でそこにおかれたら、現実の生々しさはすっかり捨象されることになる。山本ルンルンとか初期のきづきあきらなんかもそうだった。


 ところがである。


 扱っているテーマは、正面から性、セクシュアリティなのだ。
 そして、このマンガは、性をナイーブに謳歌するたぐいのものではなく、自分に与えられた性に深く苦悶する中身になっている。実は、ふみふみこの商業誌上のマンガはどれもその種のことがテーマになっている。
 「日本的空間でリアリティを支えるものはセクシュアリティである」という斎藤環の言葉があるように、性にかかわる悶え苦しむ様は、ぼくには深く食い込んでしまう。とてもリアルに感じられるのだ。いや、別に、ぼくがトランスジェンダーの問題で苦しんでいるというわけではない(その問題はあとで書く)。何でもいいから、性のことで自分が深々ととらわれているという様が、ぼくの心をえぐってやまないということなのだ。
 絵柄がファンタジックなのに、テーマがえぐるようにリアル。
 そういうアンビバレントなものは、全体としてどういう印象を受けることになるかというと、美しくて透明感があるくせに、惹きつけられっぱなし、ということになる。いま、言葉の使い方が変だと思ったかもしれない。、美しくて透明感がある「くせに」、惹きつけられっぱなし、という、その「くせに」っておかしくね? 美しい物語に惹きつけられるのは当たり前だろ、というツッコミだ。
 うーん、少なくともぼくの場合は、ただ美しいだけっていうのは、単なる絵空事なんだよね。自分とは関係ない話。勝手にやっててくれよという感じ。フゼイがわかるでしょ、みたいな態度をされると鼻白む。
 別の言い方をすると、性にかかわる煩悶というのは、ものすごくキレイに飾られている。美しい。そんで、それは悪くない、って思えるんだな。

パロウのゆがみに興奮する

 3人のうち、一番ゆがんでいると感じ、しかも一番興奮するのは、パロウ。
 本名は田村。田村=パロウは、2年離れた生徒会長だった男の子(渋谷先輩)を好きになってしまい、女装してつきあうようになる。その2つ上の生徒会長だった先輩は、引きこもりになり、女装したパロウを女がわりにつきあう、というかセックスの道具にする。家によび、欲望をとげてスッキリしたら、すぐ帰す。男の姿のときは、逆に気持ち悪いといって手をはたく、クズのようなホモフォビア
 ぼくは、パロウが田村でいるときの男の姿のときも、その中性的なグラフィックにクラクラきてしまう。それはただの趣味にすぎないんだが、他の2人よりも断然ぐっとくる。
 そして、快楽に身をゆだねて、汚れきっている感じ、セックスに支配されている感じが、ぼく自身の中にある苦悩と交わるところがある。ぼく自身の苦悩については、すでに前に書いたが、

坂口安吾・近藤ようこ『戦争と一人の女』 - 紙屋研究所 坂口安吾・近藤ようこ『戦争と一人の女』 - 紙屋研究所

要は40をこえてもなお、頭の中で中高生のように性の衝動をめぐって悩まされ続けているということだ。だから、パロウの苦悩がそのまま重なっているわけではなく、どちらかといえば、パロウが身を委ねている身勝手な先輩の衝動に近いし、それを大なり小なり歪んで反映させているパロウの姿の中にそういうものを思い出させるものがある、ということだ。
 だから、2巻で、3人で会っている間、一番大人っぽくて、一番冷静だったはずのパロウが、一番年下で、一番気弱な「まりか」をやんわりと強姦(変な言葉だが)しようとするシーンがむちゃむちゃフハッとキテしまった。

「純粋で
 かわいくて
 何も知らない

 馬鹿な子」


 自分の過去を勝手に投影し、弱くて支配できる与しやすい人間だとわかれば、手を出す。

「大丈夫 怖くないわ」

 何言ってんだこいつ。何が「怖くない」だ。優しい体裁で強姦をする人間の身勝手を十全に表現してあまりあるこの言葉。こういう自分の快楽に貪欲で、そのくせ他人を虐げる暴力性こそ、ぼくの中で持て余しているものだと思う。だから、パロウのやろうとしていることは、ぼくにとってはむちゃむちゃエロい


 パロウがまりかを襲っているそのとき、ユイ(木島亮介)が戻ってきてその現場を見つける。侠気のあるユイは、パロウを殴りつける。
 そののち、ユイがまりかと二人きりでいるとき、まりかが正座し、そこからみえるタイツをはいた太ももに何気なく目をやる。そのとき、ユイの目はそこから離れられなくなってしまう。まりかのスカートと太ももに欲情してしまうのだ。

(何考えてんだオレ)

と電話の呼び出し音で正気をとりもどすユイ。このエピソードがある回のラストは、自分の内面で分裂して生成した姉(故人)に「亮介は 気づかないふりが得意だね」と指摘されて終わる。パロウを殴りつけたくせに、自分もまりかに劣情を抱いてるじゃん、という、分裂した自分が指摘するのだ。
 そんなに律儀に……と40をこえたぼくは思わないでもない。ぼくなんかもしょっちゅうだ。そういう劣情が湧いては、理性が抑えにかかる。
 そういうところをふくめて、この作品の中心には性がすわる。

生々しいのに美しい

さきくさの咲く頃 最初の話にもどると、性という生々しいものが鎮座していても、絵柄のせいで、その生々しさは直接的なものではなくなる。
 むしろすべてが美しい物語になっている。
 ふみふみこの『さきくさの咲く頃』も同様である。
 『さきくさの咲く頃』は、高校になった主人公の少女が、幼なじみで仲がよい双子のうち、男の方を好きになってしまうが、男は別の男が好きで、双子のうちのもう一人の女の方は、主人公が好きだという物語である。
 ここには「恋愛」というお気楽な形では、問題は現れない。
 「性をめぐる苦しみ」として登場する。
 しかし、その苦闘は、決して生々しいものではなく、幻想的で美しい。
 ライターの山脇麻生が、『さきくさの咲く頃』を評して、

ある時は憧憬を表し、時に憂いや苛立ち、葛藤をも表す長く豊かなまつ毛も特徴的で、こんな感情的なまつ毛にはなかなかお目にかかれないんじゃないかと思う。チリチリした感情が、舞台となっている自然豊かな奈良の風や舞い散る木の葉に溶けていく場面構成もいい。

http://book.asahi.com/reviews/column/2012121000019.html


と、この作品の「叙情」に注目しているのは、もっともなことだ。


 生々しいものと、美しさが両立した作品はいろいろあるんじゃないの、という指摘もあるだろう。
 『ぼくらのへんたい』はテーマの関連もあってか、しばしば志村貴子放浪息子』とよく比較される。『放浪息子』の絵柄自体の美しさと、しかし劇画的なリアリズムの片鱗によって、どうしてもそれは現実と地続きなものとしてぼくには感じられる。だから、『放浪息子』を読むときは、ぼく自身が悶える。
 ところが『ぼくらのへんたい』は、そうではない。テーマが自分と交差する問題をかかえた生々しさをもちながらも、絵柄によって、完全に「物語」としてそれを扱うことが、ぼくにはできる。それは決して不快とか退屈なことではなくて、自分とは切り離された美しい作品としてそれを眺め、鑑賞できるのだ。

志村貴子放浪息子』的なもの

 いまぼくは『放浪息子』との違いについて口にした。
 他方で、この『ぼくらのへんたい』が『放浪息子』というか志村的なセンスをよく受け継いでいるなと思える箇所は多い。
 トランスジェンダーというテーマのことではない。
 描き込みの少ないコマに、印象的、というか決め球のようなセリフがポツーン、ポツーンと入る。それがとても志村的である。
 セリフが気が利いている。ぼくらの日常の感覚にストライクゾーンをもってきているのに、そこに奇抜でもなく、手垢がつきすぎてもない、絶妙なセリフを入れていく。説明しようがないが、いくつか例をあげておく。


 2巻でパロウが泣きながらまりかの家を出ていくとき、まりか(青木裕太)の幼なじみの少女(あかね)がまりかの家の中に入ってきて、「さっきのイケメン誰? 超泣いてたよ」と言う。そのあとの家の中にユイを見つけて「あっ まだいる!」。ユイは「うるさい奴だな」と迷惑そうにまりかにつぶやく。

「どこのイケメンパラダイスだよー
 裕太ったらやるー」

 この「どこのイケメンパラダイスだよー」がすごくいい。
 「あっ まだいる!」みたいな子どもっぽい失礼さ(ちなみに中学1年生)はこの幼なじみの世界が子どもの世界に半身を浴していることを的確に表す。そして客観的にみるとたしかにそこは「イケメンパラダイス」なのかもしれないが、悲劇があったばかり事情を何も知らず、能天気につぶやく様が、周りには理解されない孤独を浮き彫りにする(右上図参照、ふみふみこぼくらのへんたい徳間書店、2巻、29ページ)。


黒田硫黄の影響

 ふみふみこが2011年に発表した『女の穴』、その中の冒頭にある表題作は、明確に黒田硫黄の影響を見て取れる。
 「女の穴」は、まるで目が空虚な穴のような印象をうけてしまう無表情な美少女が主人公で、この女子高生が先生に、「私と子供をつくってくれませんか」と出し抜けに申し出る。自分は宇宙人だという、女子高生。
 この短編は、先生が宇宙人で、女子生徒と秘密裏に交際している、黒田硫黄の「わたしのせんせい」(黒田硫黄『黒船』所収、イーストプレス)のちょうど逆の設定になっている。
 墨で描いたような画面、擬音が画像的に扱われる感覚、影、コマに詰め込まれたセリフがテンポよく、ときにはブツ切れになって進んでいく調子……これらがとっても黒田硫黄的である(上左はふみふみこ『女の穴』徳間書店12ページ、上中は同9ページ、上左は同31ページ、下左は黒田硫黄セクシーボイスアンドロボ小学館・2巻・58ページ、下中は黒田『黒船』55ページ、下左は同35ページ)。

 これはこれで面白いなとは思うけど、ふみふみこの作品は『さくさきの咲く頃』や『ぼくらのへんたい』を見る限りでは、諧謔に富んだ黒田的なものよりも、叙情に通じる志村的なもののほうがずっと合っている。そういう意味では落ちつくべきところに落ちついたということか。