大塚英志のこの記事を読んで思ったこと。
戦争とコロナは同じか
第一に、戦争と感染症(ペストとかコロナ)は同じだろうかという問題。
大塚が「同じ」と言っているかどうかは後で触れる。
まずぼくはマルキストであるから、人間が起こしたものである戦争は人間の手で止められるというナイーブな楽観を持っている。別にマルキストでなくても戦争と感染症は違う、という出発点になるだろう。
しかし、例えば山崎豊子の小説を見ればわかるけども、戦争のような巨大な歴史の流れの前に、人間の良心的な行動や反抗はひとたまりもない、ということはしばしばある。大河の中に流されていく幼児のようなものに思える。
この点でカミュが『ペスト』で表明した戦争とペストを「天災」と一括りにする感覚はリアルなものである。
天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(カミュ『ペスト』新潮文庫、kindleNo.617-619)
そこから、無力感を表明し、賢しらに何もしないほうがいいと「クール」に忠言する人もいる。『ペスト』でいう「道学者」であり、「選挙に行っても無駄」「デモなんかしても何も変わらない」と冷笑するネット民だ。
ただひざまずいて、すべてを放棄すべきだなどといっている、あの道学者たちに耳をかしてはならぬ。(カミュ前掲書No.4018-4019)
大西巨人『神聖喜劇』の主人公・東堂が囚われた虚無主義もこのヴァリエーションである。
しかし、『ペスト』の主人公リウー、というかカミュは、こうした「天災」に打ち勝つことはできないが、自分のできることをする、というほどはできる。「保健隊」というボランティアで活動することにしたリウーは次のようにいう。
「…今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」
「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。
「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」(カミュ前掲書No.2902-2906)
これは第二次世界大戦という巨大にもほどがある災厄と、まだ抗生物質での対抗ができなかった厄介な感染症という災厄に対して、カミュが抱いた実感であり、そこから絞り出すようにして得た人間の主体性を認めようとする結論である。
もっと恐ろしい感染症がやってきたら(あるいは「スペイン風邪」のように非常に悪性のものに変化したら)わからないけども、少なくとも現代日本で、「戦争」や「新型コロナウイルス」への向き合い方はこれほど血の滲むような結論をしなくてもいいだろう。例えば「補償と自粛はセットだ」というデモなり運動なりによって政治を動かしているし、様々な社会資源を動員して感染症と「戦って」いる。ぼくらは政治を動かすことにカミュが描いたほどの無力感を抱いていはいまい。少なくともぼくは。
大塚自身は「コロナ」と「戦争」を同じとは考えていまい。
為政者が「コロナ」を「戦争」に比喩して語っているという事実があり、同一視をした政治が「戦争」と同じように生活や身体への介入・管理を迫っている、というのだ。だから大塚に対して「コロナと戦争を同列している」と批判するのは筋違いということになる。
「コロナ」と「戦争」は別のものだ、というのは、まず、辞書で引けば別々の定義があるよねという素朴な論理上の区別はもとより、比喩としてもよろしくない。
例えば『感染症と文明』を著した長崎大学教授(国際保健学)の山本太郎は、次のようにいう。
新型コロナは症状が出る前に広がるので、私たちが認知できた時には、根絶できる局面は過ぎていました。これに対処するには、ウイルスをなくす「戦争」ではなく、ウイルスと「共生」し、ある種の安定的な関係を築くしかありません。
風邪を起こすコロナウイルスは4種類ほどあります。これらがパンデミックを起こすなかで人間は免疫を獲得しました。今の新型コロナも最終的に、人間とそういう安定的関係になればいいのですが、それまでに被害が出る。それが今の状況です。
「戦争」には倒すべき敵があります。ウイルスは敵ではありません。*1
要はワクチンの開発、集団免疫の獲得ということなのだが。*2
つまり、コロナの具体的な問題に即して考えても、それを「戦争」の比喩で見るのは悪手なのである。
「新しい生活様式」は「気持ち悪い」のか
第二に、新型コロナのもとで提唱されている「新しい生活様式」という介入は、戦時の生活介入を受容した自意識=「ていねいな暮らし」に似ているのか、という問題だ。
ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。
それら花森の提案は、翼賛体制という政治を日常の細部に、いわば女文字で落とし込んだところに特長がある。戦時下の婦人雑誌は男性のように勇ましい言葉で語る女達も多数いたが、花森は違った。政治の日常化、生活化には彼の女文字の編集こそが有効だった。
大塚の論旨は、戦時下起源の「ていねいな暮らし」が清算されずに戦後も生き続け、その火種がコロナのもとでの「新しい日常」としてよみがえる、ということだろう。
第一のところで考えたことにもとづけば、「コロナ」と「戦争」は別のものだから、むやみやたらに戦争と同一視して危険を叫ぶのはおかしいのではないか、結局事実上お前(大塚)が戦争とコロナを同じに扱っているんだろう、ということになる。
しかし、「コロナ」対策として提唱されている「新しい生活様式」は無条件に正しいのかというのは、 そうではない。いくつか考えてみよう。
例えばリモートワーク、テレワークである。
それは技術発展そのものであり、クソのような通勤をなくし、オフィススペースと家賃をなくし、労働で使う無駄なエネルギーを省き、究極には「遅刻」という概念さえ消滅させるかもしれない。
しかし、例えばメールやパソコンがぼくらの労働を軽減せずに、ますます長くて過密な労働時間に縛り付ける結果をもたらしたように*3、リモートワークやテレワークは「労働時間」概念を消滅させ、生活時間との一体化をさせてしまう危険がある。
労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖のための自由に処分されうる労働時間に転化するもっとも確実な手段に急変する(マルクス『資本論』第1部13章、新日本新書版第2分冊p.705)
あるいは、オンライン授業。
非常時に使えるというだけでなく、一人一人にあわせた理解と学力獲得を進ませ、「個別の学びを最適化」させる未来のツールのように扱われる。
しかし、そうだろうか。児美川孝一郎(法政大学教授)のいうところを聞こう。
教科の学習はすべて、パソコンやタブレットを使って先端技術で「個別最適化」すればいいというのは大問題です。集団での学びでは「型」からはずれたような発想をする子がいて、そこからみんなが学ぶことで、考えが深まるということがあります。「個別最適化」で効率よく学ぶだけでは学ぶ過程が平板になり、深みがありません。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-25/2020012514_01_1.html
また、児美川はこうも述べている。
また、学びへのモチベーション(意欲)をどう引き出すかという視点もありません。やる気のある子はどんどん進むけれど、そうでない子はいくら「あなたに合った学習だ」と言われてもやる気にはならない。できる子だけがどんどん進み、格差が広がります。
これは、プリントに埋もれたぼくの娘に起きたことでもある。「できる家庭の子」はどんどんやってんだろうなあと思った。
「新しい生活様式」、特にビジネスのシーンでよく使われている「新常態」はこのように無前提に正しいものではない。社会的な扱い次第で十分それは「毒」になる。(テレワークをしてはいけないとかオンライン授業をやってはいけないという主張ではない。念のため。)
「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」はどうだろうか。
それ自体は、防疫的観点から正しいように思える。
しかし、それは政策的な枠組み、政治の大きな枠組みを問おうとさせないこととセットになった思考様式になっていることがしばしばある。というか、ほとんどそうだ。
例えばもしも、医療・療養資源がもっと備えられていて、検査もすぐに受けられていれば、患者は直ちに隔離され、これほど自粛や息苦しさがない生活を送れたかもしれない。また、補償と自粛がセットになっていて、しかも迅速に支給されていたら、店は、仕事は、安心して休めたかもしれない。*4
そういう社会的・政治的な枠組みを大きく変えたらどうなるかについて、往々にして思考を停止させられ、与えられた枠組みの中で「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」というモラルに縛られていることになる。そしてそれを守れないものを憎み、叩くのである。
これは、「社会保障制度を貧しくさせたまま、町内会・ボランティアなどの助け合いを強要し、協力・参加しない人を『ずるい』とそしる」という思考様式、「教育予算をつけないでおいて、PTAのベルマーク運動に参加しない親を叩く」という思考様式ですっかりおなじみのものである。
戦時下で空襲の際にバケツリレーをすることは「正義」であったが、そもそもそんなもので火が消せるのかと問うこと、逃げたほうがいいのではないかと提起すること、そして戦争そのものがおかしいのではないかと問うことはできなかった。そのようなもとでの「正義」なのである。
なるほど、「戦争」と「コロナ」は別のものである。
しかし、「戦争」のもとで生まれた「ていねいな暮らし」が権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまったのと同様に、たとえ「コロナ」下であっても、その「新しい日常」には、権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまう「毒」が含まれており、そのことに絶えず警戒すべきなのである。
だから、歴史を振り返ってみて、今の問題を具体的に検証してみたら、そのような警戒が浮かび上がる。(大塚の主張を直截に信じて、戦時下起源のものが今そのまま問題になるということではないと思うが、大塚の警戒は今を見る上で参考になる、というほどの意味だ。)
この意味で無前提に「新しい生活様式」を取り入れようとする風潮には、確かに「吐き気」がするというのはよくわかる。
*2:ただ山本は『感染症と文明』の中ではそれほど能天気には「共生」をとらえていない。「共生は、そのためのコスト、『共生のコスト』を必要とする。喩えて言えば、「ミシシッピ川における、堤防建設以前の例年程度の洪水」といったものかもしれない」「共生もおそらくは『心地よいとはいえない』妥協の産物として、模索されなくてはならない(山本前掲書KindleNo.1848-1860)
*3:統計における長期的な労働時間の縮減はいろんな要因があるので、ここではあまり深入りしない。
*4:本当にそれが可能かどうかは別個に検証されねばならない。ここでぼくが言いたいのは、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」を要求される時、そういう外側の議論は封殺されている場合が多いということだ。