というまとめサイト記事の冒頭画像
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女子高生が横一線になって歩いているやつ。
まぎれもなく「Gメン75歩き」である。
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歩道でやられるとものすごく困る。困りはてる。
とくに中高生。なかんづく、中学生男子。
後ろから、
「♪ジャジャジャーン ジャジャジャジャージャージャー ジャッジャッジャッジャーン」「ハードボイルドGメン75 熱い心を強い意志で包んだ人間たち……」
などと芥川隆行っぽいオープニング・ナレーションを入れてやりたくなるが、そもそもそいつらはGメン75なんて知るよしもない。もちろん大声で後ろで歌ったら、ただの不審者だし、第一、そんな勇気も意思もないので、気づくまで静かに待ってます。まあ、ぼく自身も友人とのおしゃべりに夢中になるとそういう歩き方をしていることがあることは言うまでもないけどな。
ひどいのは、後ろから接近しているが気づかない、どころではなくて、前から対向してやってこられることさえある。しかも横一線のまま。鶴翼の陣である。
ところで、冒頭の女子高生のファッション感覚の統一感はすごい。そこに激しい同調圧的なものを見るのはオジサン的な「外側から見た勝手な女子高生観」であろうか。
近年の少女漫画でくり返し登場するアレ。
たとえば咲坂伊緒『アオハライド』(集英社)。
中学時代に恋愛になりかけた男子(洸)と、高校になってからもう一度関係をつくりなおす話なのだが、主人公の女子高生(双葉)は、孤立した人間関係になった中学時代を反省し、高校では二度と一人になるまいと決意し、「仲良し」女子グループで孤立しないように自分を出そうとしない。
「ぼっち」――ひとりぼっちにならないためには、「多少」のグループ内人間関係の不満はやりすごすのが、高校に入って生まれ変わらんとする双葉、すなわち「ブランニュー双葉」の処世なのである。
しかし、洸にその人間関係の安さを見透かされる。
『アオハライド』の前半は、この同調圧地獄の「トモダチ関係」から双葉が離脱し、洸をふくめた本当の共同体をつくりあげていくまでを描くユートピアマンガである。
そのユートピアを、読者である女子中高生たちにとって、もっともリアリティあふれる空間としてどう描くかが現代の少女漫画家にとっては一つの力量の尺度であるとも言える。
『アオハライド』1巻では、たとえば、双葉は「実はよく見るとかわいい」と男子に思われはじめるその瞬間に、購買のパンを歩きながらがっつく仕草をしてみせる。「女子力の低さ」を瞬時にアピールすることで、目立った存在にならず、そのトモダチ社会で生きていけるというわけである。
一瞬のあいだにスイッチが入って、友だち関係が、いじめというモードに切り替わっていく。どこでスイッチが入るのかわからない。仲良しで、お昼をいっしょに食べていた子が、先生から用事を頼まれ、いっしょに食べなかったために、「あの子ずうずうしいよね」と、スイッチが入ってしまう。お昼の時間は、スリリングな、何が起きるかわからない時間なのです。いっしょにアイドルの話をしていたとき、一人だけ、相槌を打たなかったことでもスイッチになります。私は「創発的」と言っているのですが、いままで傍から見ても普通に仲良し友だちだった世界がスイッチが押されることで、一瞬の間に、いじめ関係の世界に変わってしまう。
(中西新太郎「いま子どもの世界に何がおこっているのか」/「前衛」2012年11月号p.132-133)
かわいこぶっている、という偏見で孤立させられている女子・槇田と、クールすぎて独立独歩の村尾という、同調圧社会の異端児たちとコミュニティをつくることによって、そのコミュニティは存在自体がきわめて批評的になる。
孤立しないために、毎日、安心して「私たち友だちだよね」と言いあう関係は、お互いにわかりあうために努力をしなければいけません。いまの友だち関係は、自然に親しくなって、「あの子おもしろい、いい子だ」と近づいて、深いつきあいができるようになるのではなく、お互いがわかりあおうという共通の土台のうえで、一生懸命努力して関係をつくっていくというものになっています。その努力を少しでもしないとなると、「せっかく、うちらがこういうことを言っているのに、あの子は無視をした」となり、守りあうはずの関係に亀裂が入ってしまう。それがスイッチになっていくわけです。この「わかりあおうね」という世界に参加し、それなりに努力していると認知されることによってはじめて友だち関係が維持できるのです。
(中西前掲p.136-137)
最近のプリクラをご覧になった方は、写っているみんな見事に「盛りあがった」ようすでいることがわかるでしょう。一人だけそっぽを向いてなど絶対に許されない雰囲気が充満していて、互いの区別がつかぬほど似たようすの友だち同士に見えるし、またそう見えるよう努力しなければならないのです。
(中西「人が人のなかで生きてゆくこと」/「ちいさいなかま」2013年1月臨時増刊号p.103、強調は引用者)
まさに冒頭の女子高生の写真の統一感は、ぼくには、この「互いの区別がつかぬほど似たようすの友だち同士に見える」のである。
中西新太郎はこれを「共感動員」と呼ぶ。
共感動員の組織力から逃れるには、それこそ死にものぐるいの格闘が必要となる。
友だちなんかいなくても大丈夫という状態で生きる術がないわけではありません。「あの子は変わったことを一人でする。バンドのことしか考えてないし、クラスのことなど興味もないようだ。一人でいても、全然かまわないから、こっちのほうからあえて、ちょっかい出す必要もないし、いっしょにいる必要もない」――周囲からそう認知されれば孤立していてもやっていけます。このように孤立した存在であるというキャラクターを認めてもらえると、ちょっかいやいじめの対象にはなりません。ある学生は「栄光ある孤立」と言ってましたが、高校生ぐらいになると、そういう戦術をとっていきます。しかし、これは小学生では難しく、中学生でもなかなか困難です。孤立するのは死ぬのと同じくらい苦しいことなのです。
(中西「いま子どもの世界で…」p.134-135)
『アオハライド』の村尾はこれに近い。他方、槇田は、そう認知されずにクラスから排除され孤立させられている存在である。
ヤマシタトモコ『HER』(祥伝社)には、ラジオを聴いている、前髪が超短い、月9のドラマを見ない、コイバナがきらい――というささいな「ヘン」さを笑いあい、その共感動員によって成立している女子高生の「トモダチ」グループの話が出てくる。
このヤマシタの作品は、こうした共感動員のあり方自体を徹底的に批評的に取り扱うのだが、その域に達せられるのは、ヤマシタの読者である20代中葉以降であろう。
中西はママ友社会でさえ、この共感動員の同調圧に悩まされると書いている。
というわけで、この女子高生の横一線歩き写真は「かっこいい」どころか「恐ろしい」写真だと感ぜられたのであった。