山田デイジー『先生に、あげる。』

先生に、あげる。(1) (講談社コミックスなかよし) 40をすぎた子持ちの男が、少女漫画を読むためには、作品世界全体を客観的に眺めては絶対にいけないのだ、ということにようやく気づけるようになった。

「ちょwww犯人が証拠残るような写メ送るなwww」
「なんでほとんど知らない男の下宿にいきなり女子中学生があがりこんでるのwwwwww」
「雪ですべって冬の川に転落とかwwwwww」

 心眼の焦点を作品の外枠全体に合わせてしまうと、もういけない。笑いしかこみ上げてこなくなる。

 少女漫画を読む際に大事なことは、主人公の女の子の心象に、ぎゅうううっっっっと焦点を絞り込むことである。少女をとりまく世界というものは、少女の心的世界に張り付いている、薄い膜のようなものでしかない。焦点をぼかしたり合わせたりズラしたりしているうちに、突如3Dの絵が見えるようになるのに似ていて、少女の心の中を中心にした世界像がだしぬけに形をあらわしはじめることがある。

 山田デイジー『先生に、あげる。』は「なかよし」連載の少女漫画で、さえない女子中学生の主人公が、新しく赴任してきた教師を好きになってしまう物語である。

 主人公・田中あざみは、宿題をキッチリやってくる「まじめ」の上に「くそ」がつくほどの性格であるが、その宿題の答は必ずしも合っていない。そして前に出て解答を板書するあざみにむけて、

「田中ってまじめすぎて
 ウザいよね――」
「ねー」


という罵倒が浴びせかけられるでのある。
 イケメンの男の子にノートを貸したお礼を言われても、


「…え あ あの…」


と言いよどむばかりの内気な女性だ。
 いじめの対象になりそうなほどの「内気」というものは、いまの学校社会にあって、おそらく特殊な人間の欠陥などではない。というか、40すぎたオトコのぼくでさえ、人間関係においてそういう恐怖を抱かないわけではない。普通に生活していても、人間関係をポジティブに、明るく、介入的に、かつスムーズに営めないとたちまち自分の存在感や存在意義が薄れ、無価値な人間のように扱われてしまうのではないか、という強迫が心のどこかにある。
 ぼくのように、左翼組織とか家族とか経験とか考えの方向を変えるとか、そういうバッファーをもたない、まだ10年そこらしか人生を送っていない女子中学生にとっては、ほんのわずかな「内気」であっても恐ろしいもののように感じるのかもしれない。

Singles 作者の山田デイジーがそんなことを意識したかどうかは知らないけど、「あざみ」という名前を聞いて思い出すのは、中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」であった。「ひとりで 泣いてちゃみじめよ」「春は菜の花 秋には桔梗 そしてあたしは いつも夜咲くアザミ」で知られる中島みゆきのこの歌でイメージされる「アザミ」に「田中あざみ」はよく似ている。

 なにしろ内気であるというだけで、あざみは、不良どもにラチられてカラオケボックスで暴行をうけそうになるし、あこがれの教師を懲戒免職に追い込みかねないような誤解の渦の中に放り込むし、そこまで過酷な運命を背負わせなくてもいいのではないかと思うほどに、あざみの周囲の外的世界は抑圧的である。中島の「ララバイ おやすみ 涙をふいて ララバイ おやすみ 何もかも忘れて」というどん底の歌詞は田中あざみにとってあながち誇張ではない。

先生に、あげる。(2) (講談社コミックスなかよし) 2巻の終わりについている短編「イノセント・ワールド」では、たった一人の親友を選ぶことで、「数合わせの、誠意のない友だち」に対し、主人公は宣戦布告をする。


「こんな友だちいらない」


とはっきりと述べるのだ。いじめられるかもしれない、というリスクについて描き、しかし、「グループ」を抜けることを「後悔しない」と明示的にのべる。こうした描写をわざわざしなくても、「親友」を見つける、という描写だけですませることもできるのに、山田デイジーは、ことほどさように、外的世界の抑圧に対して明確な闘争を宣言するのである。

 内気なあざみにとって、唯一の武器は、徹底した誠実、すなわち「真面目」さであり、それは律儀に宿題をやりこなしてくるという愚直によって表現されている。
 誠実、真面目、愚直というのは、少女漫画の中でくり返される、どんな少女でも実践しぬくことのできる美徳である。

 クラスメイトがパンフレットづくりの仕事を押しつけてカラオケにフケるなかで、あざみはその任務を黙ってこなす。そしてその赤心の誠意というものは、あこがれの教師・水澤誠にだけは伝わるのである。

 山田においては、親友や恋人は、このような抑圧世界からの解放の光明であり、福音である。世界全体がハッピーになって終わらないところに、山田の描く世界の恐るべき厳しさがある。