又野尚『ママ友のオキテ。』

「民医連新聞」で『不妊治療、やめました。』を書評

不妊治療、やめました。―ふたり暮らしを決めた日 「民医連新聞」の2011年10月3日付で堀田あきお&かよ不妊治療、やめました。〜ふたり暮らしを決めた日』(ぶんか社)の書評を書きました。タイトルのとおり、不妊治療をあきらめた結末が待っています。医者を渡り歩くことになり、それがさまざまな不妊治療をルポする結果になっています。


とにかく下品な『ママ友のオキテ。』

 この本とどちらを紹介しようか迷ったのが、こちら、又野尚『ママ友のオキテ。』(ぶんか社)。題名のごとく、ママ友の間のコミュニケーションにまつわる摩擦を自分の体験、他人の体験あわせて描いているルポ形式の4コマ(8コマ)コミックである。
 なぜこちらをやめたかというと、非常に下品だったからである。
 どれくらい下品かというと、「よりぬき発言小町・子育て編」といえるくらい下品なのである。

 まあ、アレだ。
 ポテトチップスのビッグバッグを5袋一気に消費して「うめー」といっているくらいの下品さだということもできる。下品なジャンクフードは「美味い」。


ママ友あるあるネタ

 「ママ友あるあるネタ」程度のものは、まだ可愛げがある。


ママ友のオキテ。
 自分よりはるかに年下の同性(女性)が担任教師になった場合、すぐさまに母親たちは反応する。今年教師になったばかり、という自己紹介を聞きつけ、22か23だと計算。
 アラフォーの多いママたちは、「マリエ」という担任の名前にすでに世代の差を感じ、「ちゃん」づけであれこれと噂し始める。

すぐに仕事ぶりをチェックしては
「マリエちゃん 配布物また入れ忘れてたよ」
「マリエちゃんは若いよね」
先輩OLと化する母たち


 これ、現実の保育園のママさんたちの集まりで、若手保育士をチェックするまったく同じ視線を感じた。まあ一概にそれが悪いってわけじゃないんだけど、いったんこういう目線になってしまうと、担任のやることなすこと、すべて上から目線で受けとめてしまい、「専門家」にたいする敬意というものが消滅してしまうんじゃないかと危惧する。
 「それは現実の保育や教育の結果ではかられるものでしょ」とは、きれいごと。他人事ではない。


 ところが変なもので、この又野の取材した範囲で言うと、同じママさん同士になるとこの年齢差は母性に転化するのだ。

 幼稚園のおもちつきで、いかにも若そうなママに年齢を聞いてみたら23。母親の年をきくと43、という事実に衝撃を走らせるアラフォーママたち。


若い時産んでいればこれくらいの娘が…

とみんなやけに「母モード」になって優しく接してしまったのだという。
 教師や保育士という、指導性・規範性が帯びていると、母親たちの受け止めを微妙に、しかしまったく逆に狂わせてしまう、機微が出ていて妙な気持ちになる。


 親同士の親密さを規定する法則についても描かれる。
 A家の長男とB家の長男が幼稚園で仲がよく、両家も親しくつきあっていたが、小学校が別々となるといったん疎遠になる。しかしA家とB家の二人目がそれぞれまた幼稚園に入園した場合、ふたたび親しくなるかというと、A家が妹、B家が弟だった場合は、それぞれ別に親密な家庭ができてしまう。

こうなってみて初めて
(母親同士の気の合う合わないじゃなく
子供の性別なんだな…)
と自覚する人は多い

 親が気が合うけど、子どもは気が合うのかわからない、という心配というか、不思議さはときどき漠然と感じる。性別は一つの大きな区分けだろうが、性別が同じだからといって、そのまま子ども同士が親しくなるわけではない。
 親の性格が子どもに反映するから、多少は重なる可能性もあるのだが、やはり別人格で、こういう齟齬は小学校とかになるとほとんど決定的ともいえる状態になっていくのではないのかと、どうでもいいことに一抹の不安を感じるのである。


幼稚園・小学校PTAライフのルポとして

 この作品は、ぼくのような幼稚園ライフを送っていない家庭やまだ小学校に子どもをやっていない家庭にとって、それがどんなふうになっているかを伝える、トリビャルな情報にあふれたルポともなる。


 幼稚園でのランチの話が頻繁にでてくるのだが、保護者会の会合さえもままならない保育園家庭にとって「ランチ」などというのは一体どこの国の話かと思えてくる。そのたびに、注文の仕方、ランチの頻度、話題にするどいつっこみが入るその空間は、コミュニケーションが苦手な人間にとってはまさに地獄だろう。


 週2でランチに誘われてもなあ、とか、ランチ価格が高めで辟易する……ということを胸にためたまま、などというプチストレスの集積に目眩がしそうだ。


 小学校のPTA役員のなり手のなさ、それを逃れるための必死の攻防に、げんなりする。
 自分が勝手に役員に推薦されていて周囲を疑心暗鬼で見てしまうとか、くじで出ていった会合でいきなり「ここで会長を選ぶ」という集まりであると明かされ、前役員が泣き落とし、1時間あまりの沈黙、役を請けられない言い訳の嵐となったあと、耐えきれなくなった人が「私が…やります」と手をあげる修羅。


「空気読めよ」と非難する側の論理で充満

 しかしなんといっても、本書の下品さの本領は、「空気読めよ」と非難する側の論理で充満していることである。すなわちコミュニケーションがうまくとれないママをあげつらう漫画が実に多い。

 送迎バスのない幼稚園で、迎えをしてから自然とグループに分かれて遊びにいく流れができ、仲良しメンバーも固まり出したころに、乗り遅れたママがひとり。しかし、誘ってみるとフツーに話せない妙なテンションの高さゆえに、次第に敬遠されていく。

そのせいか誰も誘わなくなり
彼女は友達もできないまま


それでも毎日子供の着替えを持参しては
誰かが誘ってくれるのを待つ日々…

 一年の最後の懇談会で、この母親は、今年は仲良くなれなかったのでもっとがんばりますと熱く話す。その様子をみて、

本人ががんばるほど周りが引くことに
どうして気づかないんでしょうか?


がオチである。


 別の話。


 クラス替えのときの父母の自己紹介。みんな簡単なスピーチで話し終える中で、一人のお母さんは、自分の子どもは牛乳が飲めないと訴える。牛乳を飲まないと大きくなれないとかいうプレッシャーをかけるのはやめてほしい、世の中には牛乳を飲めない子もいるんですと熱弁。

お願いというより命令!?

 そして20分も話し続けたために、4時で終わるはずが5時近くになってしまった……という。


 キリがないので、これくらいにするが、まわりにとけこめない家庭も、自分の子どもの小さなハンディを気にして周りに訴えることも、「ひょっとしたらそれはぼく自身」かもしれない。なぜここでその母親だけが特別にあげつらわれなくてはならないか。


「エクスセプトミー」イズム

オバタリアン 1 (バンブー・コミックス) 評論家の関川夏央は、かつて、世間の「オバサン」を化け物ととらえて笑い者にした堀田かつひこオバタリアン』(竹書房)を批判した。関川はオバタリアンの行動とされているものをあげて、

これらははたしてオバタリアンのみのしわざだろうか。率直にいって、わたしはやりかねない。この本の作者もやりかねない。日本の大衆ならだれでもやりかねない。(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文春文庫、p.157)


とのべ、自分だけを高みにおいてその例外とする思想を「エクスセプトミー」イズムだと指摘した。そしてこう締める。

このマンガ〔『オバタリアン』〕は技術的にも大いに問題があるが、思想的にはさらに問題がある。ユーモアが感じられずいっこうに笑えないのは、ものの見かたが単調な作者が、自分を疑ったことがないからだろう。知性なしに批評はできないという自明のことを忘れているからだろう。このまったく笑えないマンガを楽しめたという人、あるいは評価するという人をやはりわたしは信頼しかねる。(関川p.158)


 ぼくは、関川自身も大衆と自らの区分けについて、「エクスセプトミー」イズムになりかけているのではないかと思うのだが、それは措いておこう。
 本書『ママ友のオキテ。』は『オバタリアン』と同じ「エクスセプトミー」イズムであろうか。


 本作は、その最もきわどいところを歩いている


 ママ友社会で瑣末なことに感情を揺らされ、また、他人の感情を揺らしている「自分」(作者および話者)たち自身を戯画化しつつも、そうしたコミュニケーションの緊張の大海から産み出される「困ったお母さん」たちをも笑い者にしていく。「困ったお母さん」たちは「自分」たちとはちがう存在であるように描かれているものの、それが自分たちも共有している人間関係の土壌から生まれていることを作者はよく知っている。
 だから、本作は、堀田かつひこのようにあげつらうべき対象を徹底した他者(バタリアン=化け物・ゾンビ)とはとらえない。堀田のように「ものの見かたが単調」ではなく、取材対象のうんざりするような細部に入り込んでそれをとらえる目が確かである(少なくともこのテーマに関しては)。


 ぼく自身もこの下品さを生きている。


 なるほど、ここであげつらわれている親になるのは「明日は我が身」かもしれない。しかし、だからといって「そんなことを笑うのはやめろよ!」というほどにぼくは清潔な存在でもない。やはりここにあげられたような感じで、「困ったお母さん・お父さん」を冷ややかに見る視線を自分の中に持ち、常にどこかでそれをぼくはさらけだしているに違いない。