当然この書名から思い出すのは『この世界の片隅に』であるが、一字違い。こちらは『この世界の片隅で』である。
全然違うジャンルの話を書いているならともかく、山代巴編の本書『片隅で』は、被爆した広島についてのルポであり、『片隅に』とあまりにも近接したジャンルの本である。
『片隅に』を描いた、こうの史代が、『片隅で』を知らないはずはなかろう、とぼくは思っていた。それを意識して書いたタイトルに違いないと思ったからだ。
ところがこうのは、ファン掲示板で次のように書いている。*1
実は「この世界の片隅で」は、機会が無くて、わたしはまだ読んでいないのです! ただその存在と、「原爆に生きて」の内容と被っているらしいという事を知っていた程度なのでした。というわけで、「この世界の片隅に」とは無関係なのでした。ごめんなさい!(強調は引用者)
http://6404.teacup.com/kouno/bbs/5891
読んでいないし、「無関係」なのだという。
こうのが原爆について描いた物語『夕凪の街 桜の国』では参照文献として山代巴の『原爆に生きて』が取り上げられており、前述の掲示板でも、こうのは山代について、
勿論山代巴には大変な敬意を抱いていて、この人のおかげで原爆文学は大きな広がりと奥行きを持った事は疑いようがない事実ですが、わたしに許されるやり方とはちょっと違う気もしています。
http://6404.teacup.com/kouno/bbs/5891
と述べている。
ぼくのちょっとした「邪推」なのだが、こうのは、山代の『片隅で』を読んでいるのではないのか。読んでいるけども、読んでいないという所作をしているのではないか。
『片隅で』は、単に広島の被爆一般を取り上げているのではなく、その中でも朝鮮人、被差別部落民、障害者、孤児、沖縄在住者という底辺中の底辺の姿を描いていくルポ(の集合体)である。
このような部分に焦点をあてて原爆が人々に焼きつけた惨害を抉り出す手法を取っているのだが、こうのが「わたしに許されるやり方とはちょっと違う気もしています」と述べているように、それはこうのの方法とは異なる(否定ではなくただ表現の道が違うという意味で)。
元安川沿いの「相生通り」と称されるバラックが『夕凪の街 桜の国』で描かれる一つの中心舞台であるにもかかわらず、そこには多く住んでいたはずの朝鮮人の痕跡は作中でほとんど見当たらない。
このマンガから在日の痕跡は、きれいさっぱり拭い去られているのである。
と評したのは、川口隆行である(『原爆文学という問題領域』p.124)。
『夕凪の街 桜の国』が、被爆六十年を目前に「日常の視点」を備えた「穏やかな」原爆の記憶を表彰しえたとすれば、その代償に払ったものとは――いささか表現はきついかもしれないが――被爆都市の記憶の横領といった事態であった。(川口前掲書p.126)
いいか悪いかは別として、こうのと山代の手法は大きく異なることは、このような批評を見てもわかるだろう。
それゆえに、あえて距離を置くために「読んでいない」というふりを、こうのはしたのではないか……というのがぼくの邪推である。
だって、このタイトルですよ?
このテーマですよ?
山代という作家にも「敬意」を抱いているんですよ?
そして、読めばわかるが、『片隅で』の中で「あすにむかって」を書いているのは山口勇子であり、そこには原爆孤児国内精神養子運動について書かれているのである。
ぼくは「ユリイカ」の「こうの史代」特集で書かせてもらった際に、『この世界の片隅に』の結末が、原爆孤児を「養子」にむかえる、というものになっていることを指摘し、『片隅に』が「原爆孤児国内精神養子運動」を含めた広島の反戦・平和運動を水脈として持っていることを主張した。
『片隅で』に収められた山口の一文は、『片隅で』全体が悲惨な底辺の現実を描く文章が多い中で、一筋の光を見せるような明るさを持っている。
原爆のきのこ雲が空に突き上がり、赤也黒やさまざまの色の恐ろしい炎がたけり狂うのを見た時、あまりの恐ろしさに、これがこの世の終りというものか、原爆よりこわいものはない、と思ったけれど、痛めつけられた子どもたちが青年となり、おとなとなって行く姿を見ているうちに、原爆よりも人間の力の偉大さに打たれずにはいられなくなった。(『片隅で』p.126)
「原爆よりも人間の力の偉大さ」を描くのに、この「養子」という流れの明るさに気づかないでいられるものだろうか。
いや、まあ、こうのが「読んでいない」「無関係」と断言している以上、「いや、ほんとは読んでいるでしょう」とか「そして、この山代の方法を、頭の隅で意識しながら創作したんじゃないですか」とぼくが主張することは、ホント、言いがかり以外の何者でもないが。
すいません、邪推です。
邪推だけど、『片隅に』を読む際に、本書『片隅で』を対象をなすものとして読むことが、『片隅に』を深め、広げていく、豊かな読書法になると信じる。