西垣千春『老後の生活破綻 身近に潜むリスクと解決策』

 町内会長をしているので、自治会ニュースに自分の携帯の電話番号を載せる。そうすると、いろんな人から電話もかかってくる。
 昨日かかってきたのは、「家にドロボウが入ったから来てほしい」という初老の女性からだった。行ってみるとどうも様子がおかしい。すでに警官も来ていたが、「盗聴されている」「警官はこないで」などと言っていた。そのうちぼくも信用できない、と言いだして家には入れてもらえなかった。この人は独居世帯だから、これから先が心配になってくる。

 認知症のようなものになればお金のあるなしにかかわらず、生活破綻は一気に襲ってくるのだろう。認知症だけでなく、手足が衰えてもその危機はやってくるに違いない。
 本書『老後の生活破綻 身近に潜むリスクと解決策』は、高齢者がどのように生活破綻に陥るのかを14の事例をもとに、あぶり出している。

高齢者本人や家族のどんな変化が生活困窮、ひいては生活破綻につながるのだろうか。どうして困窮や破綻に至る前に食い止めることができなかったのだろうか。/多くの事例に接するなかで、その原因が見えてきた。「本人の判断力低下」「本人や、家族など大切な関係者の健康状態の変化」「近親者による経済的搾取」「子どもの失業など、周りとの関わりの変化」「事故」「詐欺被害」が主だったものである。これらは相互に関連しながら、生活困窮の度合いを深め、生活は単に陥る場合が多く、実際には複合的なものである。(p.30〜31)

お金があっても生活破綻に陥る

 生活破綻という言葉で想像されるのは金銭的な意味での「貧困」であるが、もちろんこれは土台にある。
 しかし、お金がそこそこあっても、高齢者の場合は、健康状態が一気に悪化することで短期間のうちに社会や必要な資源へのアクセスが遮断され、一気に孤立状態となり、生活がみるみる困窮・破綻するケースが少なくないのだと、本書を読んで思い知らされる。
 本書によれば、

認知症などによるセルフマネジメント能力の低下および突然の病・外傷が、全体の約半数を占める。本人の健康状態の悪化が生活困窮の大きな原因になっているのである。(p.86)

破綻に至るプロセスを見ると、親身に話を聞き、絡まり合う問題をほどき、解決に向けた行動に導いてくれる者が存在していない。このことが問題をより深刻にしている。
 もうひとつ、これらの事例に共通する、高齢者ゆえの特徴がある。それは、みな経済的支援を必要としているが、もともと経済的貧困のケースではなかったという点である。実際には、貧困に陥っていない高齢者世帯は多い。年金を中心とした収入で生活しており、日々の生活をなんとか維持している。しかし、急な医療費の支払いや子どもの経済的事情による出費など、緊急に支出が必要な場合、一気に経済的困窮に陥り、相談もできず、家庭のなかで抱え込んでしまう。また、経済的には比較的ゆとりがある場合でも、セルフマネジメント能力の低下は所有する資金の管理や使用方法に関わる判断力を奪い、困窮に導いている。(p.113、強調は引用者)


ということだ。
 事例2で紹介されているケースでいえば、77歳の女性が知的障害をもつ娘(46歳)と同居していたが、母親が認知症を発症し、それが「近所迷惑」と近所にとられて近隣社会から疎遠となっていってしまう。発覚するのは、娘が作業所で「母が心配」と愚痴ったことだった。訪問してみると、家はゴミで埋もれ腐敗物でいっぱいだった。


家族がいることがかえって発見をさまたげることも

 もう一つ、意外なことではあったが、独居世帯ははじめから周囲が注意をしているのだが、息子や娘などと同居している世帯は民生委員の訪問などがなく、逆に問題が見つかりにくいということだ。特に子から経済的に搾取されていたり、経済依存がひどい場合はわかりづらい。

とくに不安定就労の男性で未婚率が高い。そのため、子どもが親に経済的に依存することになる。現在の福祉制度では、ひとり暮らしの高齢者には公的に関わるチャンスがあるが、家族がいる世帯では、民生委員が訪れたり、老人クラブの友愛訪問などが行われたりするといった、公的接点が生まれることがほとんどない。また、サービスが提供されるためには、本人や家族の申し出があることが前提となっている。独身の子どもと同居している場合、セルフマネジメント能力が低下した高齢者の、社会との接点が減るだけではなく、子どもを含めた世帯全体の抱える問題が見逃されている。(p.104)

息子の正平さんが一緒に暮らすようになってからは、独居でなくなったため、民生委員の訪問もなくなった。(p.66)

広報紙偏重では知らせられない

 本書の問題意識は、こうした生活破綻は、周囲に気づかれずに制度の狭間に落ち込んでしまうことによって引き起こされており、それをどうカバーするかということである。
 本書の第4章では「こんなにある有用なサービス」という節があるが、現在の貧困な福祉・介護施策のもとでも、それが必要な人につながりさえすれば、どうにかこうにかしのげるものがあるのだ、と著者は考えている。
 問題は、それがつなげないということである。
 そもそもサービスの存在を知らなかったり、どこにいけばいいかわからなかったり、不適切な対応でそのサービスにたどりつけなかったりする。

そのなかでも、情報の持つ意味は大きい。そもそもサービスの存在を知らなければ解決の糸口も見出せない。サービスの対象となる人に、情報はどう届いているだろうか。(p.144)

 この目で現状をチェックしてみると、行政側の情報提供が広報紙などの紙媒体や啓発講演会が中心になっていて、それでは孤立している高齢者には届かない、と著者は言う。

もっとも活用頻度の高い各種の公的サービスは、情報提供の手段として広報誌やホームページ、窓口に置かれている利用案内のパンフレットを主にしている。結局、情報を収集しようとすれば、紙媒体を読み、自ら申請に出かけなければならない。高齢者の特性を考えると、サービスが必要となってから、自ら情報を求めて外出したり、広報誌やパンフレットをゆっくり読んだりする余裕はない。後でも述べるが、高齢になればなるほど広報誌を読むことも減り、人との接点も減る。情報が届く人とそうでない人の間に開きが生まれる。(p.140〜141)

 これは重要な問題提起である。


 著者は、高齢者が接点を多く持つ人を数え上げる。医者、民生委員、家族・親戚、ケアマネージャーなどで、こうした人々が情報を必要な高齢者に届ける接点になりうるとしている。


 このうち、現役世代として一般人のぼくらが接触が容易なのは「家族・親戚」であろう。冒頭にあげたぼくの団地の例も、実は副会長をしている男性が、まったく偶然にもその女性のイトコだったことがわかったのである。
 家族や親戚からのシグナルを見つけて、行政などに相談し、必要なサービスにつなげることができるかどうかがポイントである。


 「これでは近親者の経済的依存や搾取はわからんではないか」という人がいると思うが、残念ながらその通りである。本書で事例であげられているいくつかのケースでは、すっからかんになったあとに、ケアマネージャーによって発見されたり、生活保護の窓口で発見されたりしているのである。しかし身ぐるみ剥がされたあとに、糞まみれで部屋で一人ないしは家族ともども死んでいるよりは、生活保護にでも繋げた方がはるかにマシである。その段階できちんと発見できるかどうかをまずは考えた方がよい。


 いずれにせよ、一般市民は、こうした「困窮老人世帯」ばかりでなく、たとえば児童虐待やDVを気づく出発点にもなりうる。やや迂遠な話に聞こえるかもしれないが、一般市民を啓発することで、アンテナの数を増やすことができるのではないか。分野ごとにバラバラに対応していては煩雑なので、こうした貧困や困窮に気づかせるようなワンストップの啓発、しかもできるだけ簡便な方法を編み出すべきだろう


 ちなみに、本書では、こうした地域の制度の狭間に落ちた人々の解決策として大阪府社会福祉協議会の社会貢献事業、八尾市の地域包括支援センターのとりくみが紹介されている。
 相談や解決に適切にあたる人間としては重要なのだが、こうした公的な人員がふえたとしても、発見には限界がある。
 最近福岡市議会で、共産党地域包括支援センター(いきいきセンター)の活用で高齢者の孤立をふせぐという質問をしていたのを聞いたが、センターの相談員が民生委員から困難世帯の相談をうけ、それをさぐるためにしている努力が涙ぐましかった。
 わざわざ「通報」と思われないために、1回目は「全世帯を廻っている」といって訪問し、2回目は担当民生委員に当該世帯の外出時間をおおよそ聞いて、「偶然をよそおい」道端などで会うようにしているらしい。
 実際にはこのように解決のための活動に手をとられ、問題世帯の「発見」どころではないのが現状だろう。やはり一般市民がアンテナになるほかないとぼくは思う。


中間コミュニティの果たす役割

 このような役割は、やはり中間コミュニティによるところが大きい。町内会、自治会、老人会、サークル、NPO、宗教団体、政党、組合……などなどである。
 労働法制がいくらあってもそれが現場で生かされるかどうかは、労働組合という自主組織の存在にかなりの程度、かかっている。
 社会保障が生きるかどうかは、労働法制ほどではなくても、制度の狭間で四苦八苦している人の存在を救うためには、こうした中間的な団体が機能し、団体自身が動いたり、または行政につないだりすることがどうしても必要になってくる。


 きょう、ある左翼団体の地域のコミュニティに集ってくる人たちの話を聞いたのだが、そこのコミュニティでは、困窮の中身を聞いて、市会議員につないだり、生活保護関係の団体につないだり、病院につないだり、「ふりわけ」機能を発揮していた。


 行政が自分の公的責任を放棄して、NPO自治会に丸投げするような福祉のあり方はたしかに問題なのだが、とはいえ、現場の最先端で社会保障や福祉制度が生きて機能するためには、こうした中間コミュニティは不可欠ではないのか。それはたとえば左派がのぞむような社会ができたとしたら、こうした中間コミュニティは行政の補完ではなくますますその社会で中心的な福祉・社会保障上の役割を担っていくのではないかとぼくは考える。