おかざき真里・雨宮まみ『ずっと独身でいるつもり?』・白河桃子『格付けしあう女たち』


(010)格付けしあう女たち (ポプラ新書) 白河桃子格付けしあう女たち』は、女性たちがそれぞれに分断された社会の中でさらにカースト化し、分断し合う様をルポしている。そして、「なぜ女同士はつながれないか」という問いを立てている。
 一見すると白河のルポは、分断を憂え、なんとかつながろうと努力しているように見える。
 「鍵は多様性と未来思考」などの文言が踊る。
 だが、ぼくは違和感を覚える。


 白河は「多様性」を訴えながら、根底には専業主婦という生き方への批判が見え隠れするからである。

これからは専業主婦という選択はどんどん滅んでいくはずです。その選択を否定するわけではなく、もう無理なのですね。結婚を夫の単一インカムで維持していくのは。(白河p.70)

すでに現在ですら、専業主婦は「裕福」と「貧乏」に二極化しています。そして今一番裕福なのは専業主婦世帯ではなく「共働き世帯」です。……専業主婦を否定するつもりはないのですが、今後、豊かで満足な子育てができる専業主婦は「希少な存在」になるでしょう。同時に専業主婦によるママカーストは、やはり希少な存在になるでしょう。(白河p.74-75)

 「鍵は多様性と未来思考」とする節では、37年後のGDPや経済予測を示しながら、

「専業主婦とかやっている場合じゃないと思う人、いますか?」(白河p.223)

という問いかけを女子学生たちにしている。そして、女子学生たちが自分の将来の「子ども」たちのことに思いを馳せ、考えを変えていくさまを肯定的に描き出している。
 白河の言葉は柔らかいが、専業主婦のゆるやかな絶滅を予測し、そうした生き方の事実上の否定ではないかと読みながら思う。


 これに対して、言葉や展開は激烈なのに、よーく読めばストイックなのが本作『ずっと独身でいるつもり?』である。
 雨宮まみのエッセイを、おかざき真里がストーリーをつけてコミカライズしたものである。タイトルが示すように、30代独身女性の抱える違和感や幸福感をテーマにして、4つの短編からなるオムニバスに仕上げている。


ずっと独身でいるつもり? (FEEL COMICS) 例えば、story1で展開されるのは、葬式のために田舎に帰った独身女性が、子どもを次々産んで「次のステージ」に行っている親戚の同世代女性たち、そこで彼女たちが身につけた「オトナの振る舞い」、仕事を持ち独身のままでいる自分への親類縁者たちの声のかけづらさなどに直面する姿である。
 その中でわずかに「救い」のように提示されるのは、親類の中で気ままな独身(バツイチ)で過ごし、親族社会の中での適切な振る舞いもできないような「叔父さん」の「かっこよさ」である。
 その叔父さんから、「サバンナ」に立っているみたいだとホメられる。
 早い話が、田舎の親戚社会の空間には、独身者・独身女性のロールモデルがいないということだ。
 結婚もせず子どもも持たない女性を「許さない」のは、田舎の親戚たちであるが、その根源にあるものが示されるのは、story4である。
 2人の独身女性が食事をしている時、税金や公共サービスは30すぎについては「夫婦・子ども2人」に最適化されてんだぜと会話するシーンがある。独身・子ナシは「サポート対象外」なのだと。つまりは独身女性という生き方を国が許そうとしてないのである。許されない生き方にはサポートはなく、ロールモデルになりそうなものは根絶やしにされる。畢竟、そういう存在を普通に扱う言葉は、生まれにくくなる。


 おかざき真里は、巻末の雨宮との対談で、

雨宮さんは女を分断しない

と高く評価しているが、もし雨宮が分断しない感覚を持っているとすれば、その根源を見極めているからだろう、と左翼のぼくは思う。


 にもかかわらず、本書は「女を分断」せず、「独身だからといって既婚者を敵視」(雨宮)しないだろうか。
 一読すると、本作から放たれている強烈な戦闘モードの雰囲気に、たじろぐ人は少なくなかろう。


 例えばstory3では、同窓会において同世代女性から受ける「なんで結婚しないの?」的なセクハラ・モラハラ批判。30代になると、周囲のオッサンが黙るのと入れ替わりに同世代女性が攻撃してくる、と登場人物たる独身女性は内語する。
 それと対照的に示される、職場(DTP的な仕事)の居心地のよさ。
 深夜労働がある。クライアントからの無茶な変更はある。報われないこともある。
 それでも楽しいだのだという比較。


 あるいはstory2のラストで示される、既婚同級生の告白。
 独身者たちが老後になったら互助会みたいなの作って暮らそーぜと盛り上がるのを、私も入れてほしいとつぶやくのだ。
 「孤独死」をする大半は既婚者なのだという情報を添えて。
 考えてみれば不思議ではないことだ。子どもが独立して別居するのが当たり前になっているのだから、パートナーが死ねば独居になるからである。
 この当たり前の「気づき」は、しかし、既婚者の敗北宣言、「既婚者、独身女性の軍門に降る」のように読めてしまうのは、ぼくだけだろうか。


 あるいはstory4で、独身ではない選択、すなわち結婚という選択をすることが、無理を重ねることと同義となり、やがて劇的に破綻する展開。そのラストで無理を押し付けてくる周囲に対して不満の言葉を爆発させるくだり。そして「怒っているんだと思う」と自分の感情を言い表す主人公。


 このようなものは、すべて独身女性の(既婚女性その他に対する)闘争宣言のように読める。
 既婚者を敵視し、分断を持ち込むエッジ。
 おかざきや雨宮が言っているのは、逆じゃねーの?


 だが、もう一度立ち止まって考える。
 例えば今ぼくは自分の学校のPTAに対して「任意加入であることを明白にしてほしい」と総会で要求した。そうしたら、総会の終わりの挨拶で、「PTAはますます大事だと言われています!」とキレ気味に対抗された。また、校長にこの旨を請願したら「紙屋さんは、PTAの意義をどう思ってらっしゃるんですか?」と反問された。
 「ぼくはPTAを否定しているんじゃありません。少しだけ改革して、よいPTAにしたいだけです」というのがぼくの叫びなのだが、それを断固として貫こうとすると、たちまち周囲との軋轢を生み出し、あたかもPTAを否定しているかのような勢力とみなされるのである。


 同じだろう、と思った。
 公正にしてほしい、という願いは控えめなものだが、それを断固として貫こうとすれば、たちまち危険な「革命思想」となる。「貧困は嫌だ」ということをハッキリ言おうとすればたちまちバッシングに遭うのと似ている。フェミストなどもそうだろう。女性であるという平凡で普通の生き様をしようと思うこと自体が闘いとなり、あたかも極端な過激思想を持っているようにみなされる。
 ぼくの左翼人生上の恩師は、「平凡であり続けることが最もラジカルなことである。ただし断固として」という弁証法を教えてくれたが、ここでもそれは適用されている。