中西新太郎『〈生きづらさ〉の時代の保育哲学』

「ちいさいなかま」の「子育て日記」に書きました


 保育雑誌「ちいさいなかま」の「子育て日記」という3ページほどのリレー連載があるのですが、2011年12月号のそのコーナーに「紙屋高雪」名義で一文を寄せさせてもらいました。
 ぼくとつれあいが交際し、次に就職し、次に結婚、次に同居、そして妊娠、出産するまでを描き、さらにそこから子育てをしていくうえで、育休の利用、職場の理解、忙しい時の助け、保育園という援助……など無数の「手助け」がなければ、おそらく何かをあきらめなければならなかった、ということを書いています。


 実は、今号の「ちいさいなかま」は「悩み多き子育てと仕事」という特集になっており、他の人の寄稿文や論文もこのテーマで書かれています。7月にぼくの原稿を書いて12月に掲載というのはずいぶん遅いなと思っていたのですが、特集にタイミングをあわせたのでしょう。

 さっき、ぼくの書いた文章の中身を大ざっぱに紹介したように、恥ずかしい話ですが、これは書き連ねてみてあらためて気づかされたことでした。ぼくら夫婦が交際から結婚、妊娠、出産にいたり、さらに子育てをしていくうえで、あまりに多くの社会資源(溜め)に支えられていたのです。
 「オレは家事も育児も両方やった」という英雄譚、「自分は独力で家庭も仕事も幸福を手に入れた」という有名人の自慢話は、根本的に嘘だらけの神話だろうと思い、それらを批判する意図をこめて書きました。


 ぼくの今の部署ではない、しかし職場の一部に、ぼくが定時に帰るのを苦々しく思っていた人間がいたらしく、そのあたりの自分の傷つき具合や、その後の開き直りなども書いています。

 「子育てを社会全体で支えよう」というのは、抽象的なスローガンとか、子ども手当のことだけではなく、いままさに自分の職場で自分自身をめぐって問われている問題だという認識が必要です。

 言い換えれば「オレの子育ては職場のオマエらが支えろよ」という開き直りをどこかに持たないとやっていけないということです。感謝は必要ですが、遠慮してたら自滅します。
 もちろんこれは別の立場になれば逆転するということです。小さい子どもが、別の同僚にできたら、今度はぼくがそのサポートに全力でまわる、ということを意味します。
 当然、経営者は人員をそろえ、労働時間上の保障をしなければならない責任があるのですが、中小の職場ではそれだけのキレイゴトに終わらせられない日々の現実があるわけで、それをどう考え抜くかが問われるのです。

 

「問題のある困ったお母さん」という把握

 「ちいさいなかま」の今号の特集には「仕事と子育て 私の思い」という投稿欄があり、次のような投稿がありました。

 特につらいな、しんどいなと感じるのは、近所の専業主婦のお母さんたちの視線や、実家の母からの何気ない善意のひとことです。上の子が一年生だった昨年、学童から帰って一人で待っている三〇分から一時間の待ち時間がしんどく、長男は近所の家(専業主婦のお宅数軒)に、順繰りに上がりこんで待たせてもらってました。私は、夕食やお風呂どきだし、「迷惑だから行かないで!」と言っていたのですが、長男は勝手に行ってしまうし、ご近所も最初のうちは「いいよ、いいよ」といってくれていたのです。が、やはり毎日のように入りびたるので先方にとっても負担となり、やがて「今度、夕方習いごとをさせることになったから」「塾に行くことになったから」とやんわり出入りを断られてしまいました。


 相手の方々にはまったく非はありませんが、「なんで私たちが共働き世帯の尻拭いをしなくちゃいけないのよ!」と「こんなちいさい子を家に一人にしておくなんて信じられない!」などと内心思われていたんじゃないかと思ってしまい、その後、ご近所の視線にはなんとなくビクビクし、働きながらの子育てに肩身の狭い思いでいます。(東京・K)


 前回紹介した又野尚『ママ友のオキテ。』。

又野尚『ママ友のオキテ。』 - 紙屋研究所 又野尚『ママ友のオキテ。』 - 紙屋研究所

 そのなかには、仲良し5家庭グループの話があり、どこに行くにも車を出すのは2家族。のこりの3家族のうち、2家族はお礼やお土産をもって謝意を表明するのだが、1家庭は「当たり前」と思い込み、

「ねー雨だし うちの家の前まで迎えにきてよー」
さらにずうずうしくなる人もいる

などと描かれています。結局、小学校にあがるころには4家庭グループになってしまったというオチなのですが、キツくいえば、1家庭は排除されたということを意味します。
 先ほどの「ちいさいなかま」の投稿に出てくる「入り浸り」家庭は、『ママ友のオキテ。』的な世界からいえば、完全に槍玉にあげられる側の「困ったお母さん」に相違ありません。恰好のネタです。

 前回の記事でぼくは、こうしたママ友世界を「コミュニケーション地獄」の問題として書いたのですが、別の角度からいえば、「問題行動をする困った家庭」、いわゆる「モンスター・ペアレント」の問題というふうにみることもできます。

何か言われることは困難の発見の第一歩

“生きづらさ”の時代の保育哲学 中西新太郎は『〈生きづらさ〉の時代の保育哲学』(ひとなる書房)で、冒頭の章でこの「モンスター・ペアレント」をどう考えるか、というテーマをあげています。

 現在の家庭環境、子育てのきびしさをふまえるとき、「あちらこちらに迷惑をかけ、行き届かない子育て」をせざるを得ない現実も認める必要があります。
 「認める」とはどういうことでしょうか。
 親の責任、家庭の責任を果たしてもらうイメージとして、「頼らせない自立」を考えてはいけない、ということです。いろいろな場面で頼れるものに頼りながら、先に述べた「小さな島」を増やしてゆくイメージが必要だと考えます。依存できる先があることは、とりあえずは悪いよりはいいと考えたい。(中西p.46、強調は引用者)

 中西は、保育や教育運動においてしばしば「共同」が叫ばれることをとりあげ、その「共同」の質を問いかけます。「親と保育者・教師が一緒になって」というイメージが中心だけど、ことはそんなに簡単な話だろうか、と。
 そして「お金を貸して」と言ってくる「モンスター・ペアレント」と呼ばれる親のことを考えていきます。

 その親はだれにでも「お金を貸して」と言っているでしょうか。あなたが相手だから言ってみた、言えた、ということはあるのではないでしょうか。「敷居が低くて話しやすい」「とりつくしまもなく無視される心配がなさそう」……こういった心理が働いて、ちょっと無茶かなと思えることでも話してしまう経験はだれでもあるはずですね。逆に、「何でも相談してください」と言われてもとうてい話す気になれない。最初から拒絶されている感じがする、ということも。〔…中略…〕


 そうとらえるなら、「お金を貸して」「忙しいのでうちの娘を家まで迎えにきて」……といった言動について、「それができる、できない」を言う前に、まずは、「なんでそんなことを私に話したのだろう」と思ってみられるはず。そして、普通なら言いにくいことをつたえる事情や背景を、そのように言う親と共に考えることができれば、どこに問題(親が解決したいと思っていることがら)があるか、わかってくるのではないでしょうか。子育て家庭の暮らしのあちこちにころがっている困難を、親や保護者が「これが問題」と自分たちがつかみとれるよう、そうやって手助けをする「場所」に支援者はいなければなりません。「身近な他者」と呼ばれているそうしたポジションに保育所、保育者がいられるようにすることは、子育ての共同をすすめるうえで重要だと思います。「お金を貸して」等々と言われることは、問題がひそんでいながらそれが表に出てこないよりもずっとよいことであり、共同して問題を解決してゆけるための一つの入口なのです。(中西p.51〜52、強調は引用者)


 中西は「お金を貸して」と言われるような「身近な他者」が必ずしも「近しい」という関係を意味しないと注意をうながします。近すぎる人はかえっていいにくく、見ず知らずの人、たとえばネットでつながった人とか、「いのちの電話」のような人のほうが「言いやすい」ということもある、と指摘します。
 「言いやすい」、つながりやすく、心理的に近く感じられる、ということの関係だというわけです。


 さて、このように考えてくると、共同という理念の意味には、一人では、一つの家庭では、解決できない障害や困難を集団の力で具体的に解決するというだけではない働きのあることがわかります。


 とりあえず話を受けとめられるような共同の関係には、何が解決すべき問題かをみんなの目に見えるようにする力があります。つまり、この場合の共同とは、問題を発見し自覚するための「わざ」だということです。モンスター・ペアレントというレッテル貼りのまちがいは、こうした問題発見の道をふさいでしまうところにあり、共同の関係はその逆です。ですから、共同の努力によって、何とかしなくてはいけない問題がはっきりするのであり、子育ての共同は、親と保育者が仲よくしていればよいというものではありません。子育ての当事者のつながりを通じて、問題を自覚でき共有できることが大切です。(中西p.53〜54、強調は引用者)

社会の問題は見えなくされている中で

 昔のように、目に見えた貧困があって、それを社会のみんなで何とかしなきゃね、というふうにはっきりと可視化されないのが現代資本主義というものです。
 社会的原因とか経済的原因といったものは、個人や個別家庭のなかに、微粒子のようにまぎれこんで、他の要因と複雑にからみあって見えなくなります。そうなると、社会問題は「個人の問題」「家庭の問題」としてしか浮かび上がってこなくなります。「自己責任」とか「モンスターペアレント」とか「虐待やDVをくわえる悪い人間」「コミュニケーションできない母親」といったような問題把握の仕方です。
 「政治や経済の問題を解決するという近代の構図は終わった。現代は個人の心のなかの問題となる」みたいな粗雑な議論が幅をきかせる原因でもあります。

 個人の中に社会(の微粒子)を見る――これはかなり難しいことです。
 だからこそ、それを見つけ出す「わざ」が必要になってくるのです。「モンスターペアレント」というのは個人の性行として問題をとらえる把握形式ですが、そこに共有すべき問題を見出せるならば、「社会」の問題としてお互いに共同が可能になります。中西が言いたいのはそういうことだろうと思います。