『ねじ式 紅い花 漫画アクション版 つげ義春カラー作品集』

 奥付には「2024年2月24日」発行とある。

本書は、1969年に刊行された「漫画アクション」誌に加え、「ゲンセンカン主人」(アクションコミックス)「ガロ増刊号・つげ義春特集2」からじかに版をおこしたものです。当時の色版のずれやにじみなどを忠実に再現しています。

 9つの作品が載っている。

 双葉社のサイトでは、

なかでも伝説の「ねじ式」は元版の二色ページを倍増(16ページ)し扉絵も改訂した別バージョンとしてマニアにのみ知られた作品。「つげ全集」でも読むことができない異校版。ファン垂涎の愛蔵版です。

と書いている。

 ぼくには蔵書家としての執着は何もないので、本書の版としての独自の価値がどこにあるかは、ぼくにとっては全くどうでもいいことである。文庫でも全集でもなく、単に絵本のように手に馴染んで、いつでも本棚から取り出して気軽に読めるかどうか、そこが本書の「本」すなわち紙の書物としてぼくにとって大事なことだ。

 

 だから、ふつうに作品として思ったことを記しておく。

 「もっきり屋の少女」のことだ。

 この作品は、主人公(男)が山奥に釣りに行ったときに、少女(チヨジ)と出会い、その少女が1人で「ホステス」をしている小さな居酒屋に案内される話だ。

 主人公は次第に酔い始めるが、少女が主人公の手を持って自分の乳房に触らせる。主人公は驚きながらやや不機嫌になって「おいおい きみはこんな真似を誰に教えられたのかね」と問いただす。少女はこの居酒屋に売られてきたのだという。

 主人公が悪酔いして別室で眠ってしまい、目が覚めると居酒屋で、2人の男が少女の乳首を触る「ゲーム」をしている。性感に耐えて5分声をあげなかったら、ほうびに少女の欲しい靴を買ってやるというのだ。だが、少女は耐えきれない。

 その様子を主人公は盗み見ているだけだ。

 やがて主人公は「頑張れチヨジ」と囃し立てる声が続く居酒屋を去る。

 主人公は一人で歩きつつ、その囃し立てを真似しながら「頑張れチヨジ」「頑張れチヨジ」と言って去っていく。

 精神科医甲南大学名誉教授)の横山博が「『ゲンセンカン主人』と『もっきり屋の少女』——つげ義春の引き裂かれた女性イメージ」という評論(2006年)を書いている。

https://core.ac.uk/download/pdf/148080615.pdf

 

 横山は主人公と作者を重ねながら、少女を「開放的」に弄ぶ「野卑」な男たち、そして売られてきたという少女自身の境涯について、「およそ義春の近づける世界ではない」としている。

 主人公や作者がそう思っているわけではないが、性的な搾取をされている少女を目の当たりにし、気の毒さや憐憫を感じながらも、別にその世界に介入してがっぷり四つに取り組みしない。できるはずもない。

 そして、最後に「頑張れチヨジ」と言って立ち去るのは、むしろ男たち側の価値観や行動を何ら断罪せず、むしろその価値観に一体になりながら、無力極まる「エール」を送っていることになり、なんとも言えない侘しい気持ちになる。少女に、主人公は何もしてやれないのである。

 この「旅人」というポジションは、例えばメディアやネットで様々な現実を見聞きしながら、しかし大した取り組みもせずに通過していっている今の人間のように思えてくる。もちろんぼくもその一人である。

 つげの世界観としては、ぼくほど左派的な感覚はないだろうから、その傍観者性はいっそう徹底している。ほとんど罪悪などは抱かず、しかし虚しくそこを立ち去る悲哀をどこかに感じながら立ち去っているのである。

考えてみりゃあ もともと考えることなんかなかったのだからね

とは立ち去る主人公の言葉である。

 

 立ち入れない現実を垣間見てしまった時に、自分が旅人のように当事者性がまるでない場合がある。そこには無力であったり、傍観者であったりする侘しさが漂っている。そこでは「自分は無力だ」と嘆くことすらない。嘆くなら、フィールドに降りてきて何かをすべきだからだ。パレスチナの現実に対して何かをするということはあっても、では例えばコロンビアで起きている子どもの人身売買のために何かするかと言えば別に何もしていない。そこに多少の感傷だけが流れる。流れること自体がまた虚しいのである。