瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい』4

 瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい』はサブタイトルが「鍵垢女子と星屑男子とフェミおじさん」であるように、鍵垢で自分のホンネをつぶやく女性の主人公(鍵垢女子)、その主人公を都合のいいときにヤレる相手としてのみ見て、見栄えや体裁だけを気にするキラキラしたクズ(星屑男子)、女性を決して雑に扱わない態度が徹底している中高年男性(フェミおじさん)などが織りなす物語である。

 4巻は、主人公みなみの友人である女性・うずらに焦点をあてている。

 

 

 うずらは、スタートアップ企業の社長をしている夫(清隆)からの「モラハラ」に悩まされ、心身を病みかけている。そのことを兄のパートナーであるのりこに相談すると、のりこは、うずらが受けているのは「モラハラ」ではなくDVだと指摘。

 否定しかけるうずらに対して、のりこがDVとは何かということをレッスンしていく。そして兄、のりこ、みなみ、みなみの友人、そして清隆をまじえて「話し合い」を開くのである。

 正直、このレッスンから、清隆をめぐる話し合いまでを「フェミニズムの解説っぽい」「説教くさい」と思うかもしれない。

 たぶん、少し前くらいまではぼくもそう思ったかもしれない。

 だが…。

 いま自分も、自分の尊厳に対する厳しい抑圧を受けている現状の中でこれを読むと、そのようには感ぜず、むしろ滲み透るように一つひとつを受け入れていく自分がいた。

 例えば、自分が受けている扱いをはじめは「モラハラ一歩手前」というややおとなし目の、柔らかそうな言葉でうずらは自己認識しているのだが、それをのりこが

私 それは…モラハラ一歩手前とかじゃなくって…DVだと思う

と明瞭に、規定するのである。

 そして、レッスンにおいてのりこは、DVの定義や構成要件を明らかにし、「自分がDVを受けている」ということを認めたくないうずらを解きほぐしていく。

 ぼくは自分が受けている抑圧についても、同じような体験をした。

 最近福岡の文学フリマで話し込んだブースの人が、同僚が受けているパワハラ被害の支援が半ばうまくいき、半ば失敗したという趣旨のことを言っていた。「自分はパワハラなど受けていない」と被害者は思い、接触を遠ざけられてしまったというのだ。

 例えばパワハラひとつをとってみても、パワハラというのは怒鳴られたり、物を投げられたり、ということだけにイメージが絞られてしまっている観がある。また、逆にイヤなことを言われること一般が「パワハラ」だという広く取り過ぎてしまう傾向もある。

 そういう中で、パワハラとはどのような定義がされているのか、パワハラの類型はどれほど多様なのか、ということを知るだけでも全く違う印象を受け取る。そうした学びがあって初めて「自分の受けていることがパワハラだ」とはっきり認識できるだろう。

 さらに、「被害に遭っている弱い自分」や「被害に遭っていると自己認識することで生活が大きく変わってしまう恐怖」などを受け入れられないこともある。

 のりこのレッスンはそこを解きほぐそうとしているのだ。

 さらに、「被害に遭った自分」を認めた後でも「逃げ出せばいい」というところにとどまらず、「加害した相手こそ追放されるべき」という認識の逆転を行う。

あなたはどこにも行かない

人を痛めつける奴が

出て行けばいいんだよ!!

 これはモードが、「逃避」から「戦闘(闘争)」に変わったことを意味するのだろう。そして、独りではなく、仲間(兄、のりこ、みなみ、みなみの友人)がいることでそのモードで相手に立ち向かえる基盤が実装される。

 

 このような描写が「説教・解説くさい」外的なものとしてではなく、「滲み透る」ように受け入れられたぼくは、おそらく強い当事者性を獲得したのだろう。

 マットを棒で叩くことで「粗怒りを取る」作業をしている描写も、なんだかよくわかってしまう。

 ぼくは抑圧から受けるプレッシャーで自分を追い込む(例えば自殺する)のではなく、相手への怒りにしていっていることを自覚する。そういうものが暴発(例えば相手に暴力を振るう)しないように、コントロールするイメージが、実はぼくにとっても不可欠なのだ。

 

 当事者性がない人にはわからないかもしれない。

 「だからもっと他の人も共感できるような普遍性を」と賢しらに説得するのではなく、当事者にしかわからない怒りや切実さのまま作品のエッジを効かせておくことの方がはるかに大事だ。

 

 市川沙央が「しんぶん赤旗」(2023年10月30日付)のインタビュー(文書回答)に答えた中身が思い起こされた。

「読書バリアフリーに関して私が当事者性をもってアピールするのは、権利侵害の問題としての緊急性の高さも意識しています。『この物語は特別な人の話ではなく普遍的な物語である』というマジョリティの共感と利得を重視する戦略は、マイノリティ固有の被差別的状況に蓋をしてしまいます。マジョリティがマイノリティの物語を消費するだけに終わらせないためには、当事者作家や当事者俳優の起用等がメディアの世界で必要です。『ハンチバック』*1は障害者運動と障害学およびクィア批評の歴史を踏まえて書いた小説なので、この小説に関して話す場で私は『普遍的な〜』とか『障害者ではなく一人の人間として〜』などとは口が裂けても言いません」

 

*1:市川の小説。